|
カテゴリ:雑記
日本書記でいうところの三大神宮である石上神宮(他は伊勢神宮、出雲大神宮)で、神剣「フツノミタマ」顕現150年記念特別参拝が開催されており、普段は入ることの出来ない禁足地後方から本殿を参拝できるというので、9月23日に行ってきました。
※因みに延喜式神名帳による三大神宮は伊勢神宮、鹿島神宮、香取神宮です。 結構各地から参拝に来られており驚きました。 また数名のボランティアガイドさんもおられたので、説明を聞きながら参拝しましたが、ニギハヤヒあるいは物部氏というキーワードがよく出てきました。 先日、ホツマツタエをきちんと読破しようと本を探したのですが、どうも大掃除の際に処分してしまったようです。ならば出雲口伝の本を再度読もうと探したのですが、こちらも処分したようなので、改めて別の方がまとめられたホツマツタエと古代出雲王国の書籍を購入したところ、先に古代出雲王国が届いたので、こちらを先に読みました。 この本は古代出雲王家の末裔である富家の方が代々極秘に口伝として伝承されてきた話を発表されたものです。 これによると古代出雲王国は西出雲王家である神門臣家と東出雲王家「富家」にわかれており、それぞれ交互に主王(役職名:大名持)と副王(役職名:少彦)を輩出していたそうです。 なお、この出雲王国を築いた人々は、約4000年前にインドのクナ国(マディア・プラデーシュ州)にいたドラヴィダ族のクナト王に率いられた人々で、まず北へ向かいゴビ砂漠を超えバイカル湖を渡り、アムール川を下って北海道を経由して青森(三内丸山遺跡)に定住したそうです。 そこから徐々に南下し、鉄の産地である山陰地方(出雲一帯)に移り住み、やがて出雲王国を建国するに至りました。なお、クナト王の后は「幸姫(サイヒメ)」、その子をサルタヒコ(象神ガネーシャ)といい、この三神で「幸神(サイノカミ)」と言い、出雲の民に祭られたそうです。 島根にはクナト王を祭る出雲井神社が残ります。この出雲井とはクナト王を祭ることを表すのであり、東大阪市出雲井町にある河内一宮枚岡神社も実はクナト王を祭っていたという説もあるとか。またコノハナサクヤ姫の父といわれる大山祇命もクナト王と同一神だそうです。 さて出雲王国の初代の王は管之八耳(スガノヤツミミ)といい、后は稲田姫です。 あれ、日本神話における出雲は八岐大蛇を退治したスサノオにより建国されたのであり、その后が 稲田姫(=クシナダヒメ)だったはず。 そして初代王から8代目となる主王・八千戈王(大国主)」と副王・八重波津身(事代主)の時代、キングダムで知られる秦の始皇帝の命を受けた徐福(和名:ホアカリ)が、2000名もの童男童女の「秦族」を引き連れ、出雲王国へやってきます。またその秦族の一部を丹波国(今の丹後あたり)へ移住させますが、これが後の「海部家」となっていきます。 ※籠神社宮司である海部家の系図は現在国宝に指定 一般的には始皇帝が不老不死の妙薬を求めて徐福を日本(蓬莱)へ派遣したと言われますが、始皇帝も徐福もユダヤ人という説が結構有力ですから、ある意味彼らが東方を目指すのは当然だったのかもしれません。 出雲へ来た徐福(ホアカリ)は西出雲王家の大国主の娘である高照姫を娶り、五十猛をもうけます。しかし、徐福(あるいはその配下)は出雲王国をわが物にしようとしたのか、主王・大国主と副王・事代主を騙して洞窟に幽閉し、枯死させてしまいます。 これは出雲の人々の大きな怒りを買うこととなり、徐福(ホアカリ)は秦へ逃げ帰ります。残された徐福の子・五十猛は母・高照姫と妻・大屋姫を連れ出雲を離れ、丹後(ちょうど籠神社・眞名井神社のあたり)へ移住し、名を香語山(カゴヤマ)と改めます。 なお、五十猛と大屋姫の間の子が紀伊国国造となる「高倉下」であり、五十猛と穂屋姫(後述)の間の子が大和王朝初代大王「天村雲」となります。 さて秦へ戻った徐福ですが、始皇帝の許可を得て今度は3000人の童男童女を連れ、2度目の来日を果たします。今度の上陸場所は筑紫の浮盃(ぶばい)。今の佐賀県諸冨町付近だそうです。 一回目の来日の際、ホアカリを名乗っていた徐福ですが、筑紫ではニギハヤヒを名乗り、国をつくります。(吉野ケ里遺跡) また徐福(ニギハヤヒ)は西出雲王家の分家筋である宗像三姉妹の末「市杵島姫」を妻に迎えます。その長男「顔火々出彦」は物部氏の祖となり、長女・穂屋姫は五十猛(香語山)に嫁ぎ、天村雲を生みます。 その後、徐福(ニギハヤヒ)の末裔たちは九州を平定しながら薩摩半島を経由し、宮崎で都万王国を築きますが、その時の王は物部イニエ大王であり、記紀ではニニギノミコトあるいは崇神天皇とされる人物です。 その物部イニエ大王は大和への東征を成功させるため、月読神を祀る宇佐・豊王国の豊玉姫(卑弥呼のモデルの一人)と結婚し勢力を拡大したので、都万王国の都は西都原と呼ばれ発展したそうです。なお、この二人の間の子が豊鍬入彦と豊鍬入姫です。 しかし、イニエ大王は早くに亡くなったので、先妻・アタツ姫(記紀のコノハナサクヤ)との子・物部イクメ大王と豊玉姫が協力して、大和への東征を行うことになりました。 出雲口伝、一旦ここで締め、次回は私の住む奈良(大和)へ舞台を移します。 【余談】 個人的にはすごく興味ある記述がありました。 少し時代は下るのですが、豊王国の豊玉姫の娘である豊鍬入姫は、三輪山の麓にある檜原神社で月読神の巫女として祭祀し、人気者だったそうです。 これを面白く感じない物部のイクメ大王は豊国軍を攻めたので、豊鍬入姫は尾張から丹波へ逃れ、一時、海部家で保護されたそうです。この姫こそが「豊受大神」だというのです。 後に姫は伊勢の椿大神社で保護されますが、ここで刺客に狙われ命を落としたそうです。 一方、イクメ大王の娘「大和姫」は丹波で育った影響もあり月読神を信仰していましたが、出雲族の血を引く母「日葉酢姫」の影響もあり、日の神「日霊女貴(ヒルメノムチ)」を祀ったそうです。 大和姫は朝日信仰を大切にし、朝日を拝むためには東向きの海岸が良いと考え、伊勢国に内宮を築いて日霊女貴を祀りましたが、この時の太陽の女神「幸姫・サイヒメ」を三輪山から遷したと伝えています。 ここで謡曲【三輪】「思えば伊勢と三輪の神、一体分身の御事、今更何と磐座(いわくら)や・・・・」の謎が解けました。 では内宮に祀られているのは「日霊女貴=天照大神」であり、外宮は「豊鍬入姫=豊受大神」で決定でしょうか。 う〜ん、ここは伊勢の渡会氏についてもっと学ばねば何とも言えません。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024/09/26 12:35:58 PM
|