カテゴリ:歴史/考古学/毛人
常陸への旅。一般道を使い、常陸国までの距離を実感しながら車を走らせた。鬼怒川(毛野川と書かれることもあった)の大河、その他幾多の川を渡り、八溝山地を越えた遠い異国である。吉ヶ谷式と樽式を地元とする者には常陸の十王台式は何ともエキゾチックな土器だ。
常陸の旅の初回は、茨城県埋蔵文化財センター(いせきぴあ茨城)を紹介する。 いせきぴあ茨城は、旧北方小学校の建物を利用しており小学校の雰囲気がそのまま残っている。見学者には説明の方が付いて案内してもらえる。 入り口には付近で発掘された縄文土器数点と、弥生土器(十王台式の広口壺)三点が展示されていた。奥の展示室には縄文から近世までの遺物が多数展示されている。弥生時代の割合は少ない。また、古墳時代は中期以降のものとなる。 展示室の弥生時代の遺物はすべて水戸の偕楽園の西側の見川塚畑遺跡から出土したものだ。見川塚畑遺跡からは弥生後期の竪穴式住居が27軒検出されており、この地方の当時としては大きめの集落である。 見川塚畑遺跡(みがわつかはたいせき)[PDF]((公財)法人茨城県教育財団) 個々の土器を見る前に、茨城県北部に分布する十王台式土器の典型的なスタイルを確認しておこう。器形は壺だか甕だかよく分からない縦長の形で、典型的な文様構成は以下の様なものだ。常陸大宮市の上岩瀬富士山遺跡1号住居出土の広口壺の図[1]に説明を加えた。 展示されていた土器を観察していこう。 映り込みが激しすぎて残念。口縁部が波状文と付加条縄文、頸部文様帯の下の連弧文が横走文という違いはあるがこれも典型的な図柄。 やや小ぶりの壺だろうか、窓の部分が綾杉文になっている。 折り返し口縁のようにも見えるが、隆帯が口唇に近いだけか。 頸部の文様帯がなく、口縁の開きも小さいがこれも十王台式土器である。 写真は全て見川塚畑遺跡のものだが、見てきたように施文や器形にはかなり幅がある。時期差もありそうだ。 [1] p.10、茨城県教育財団『上岩瀬富士山遺跡』 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[歴史/考古学/毛人] カテゴリの最新記事
|
|