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悪女6814@ Re:罪とは四つの非ず・・失敗は罪の表われ、人は皆罪人(09/22) こんにちは☆彡 今日もあたたかい1日でし…

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全95件 (95件中 1-10件目)

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2017.11.16
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カテゴリ:生活・文化
真実に非ず、嘘でも非ず、何かの様でも非ず、全く異なるようでも非ず・・
このように何かが違うはずだが、しかしなぜか合っている・・
あ~でもないこ~でもない、しかし何か選択あるのみ・・それで何とかなるようだ。
このように日々複合した疑問を何とか活性化させて回答を得ていくためには、毎日を同じ一つの事柄だけに集中して磨き続けるよりも、それに似た同じ地道手段のようでも満遍なく学校の五教科を日々ランダムに、そして順番に繰り返すことのほうが最も答えが早くすっきり出てくるように思う。
これは日ごろ得る栄養バランスに似ている。
 
(ぶっけん 成安田)
▶第7-16日 Vol.184  如來の演ぶる所の經典は 【如来寿量品第十六】(三十四~四十行)
 
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Last updated  2017.11.16 11:02:34
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2017.10.10
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日は見宝塔品といって多宝如来が安置されている多宝仏塔についてです
この品にはいつの間にか豪勢な多宝仏塔が地底から出現して天高く空中に浮かび上がっているシーンからいきなり始まります
これは突如まるで非現実な夢を見せられているようであり、夢の中で未知なる未来情景を見せられているようですよね

ところで、夢を実現させるとか、まだ見ぬ未来を作ったり切り開くことは私たちの力でできるのでしょうか?
その夢の中であるかのような現実が法の中というものなのでしょうか

住職であり多くの著書を出版されていた松原泰道さんが101歳で亡くなられる数カ月前に書かれた『日本人への遺言』の中で、「運命を切り開くなんてことはできないんじゃないかな。人生はもっと大きな流れの中にある」と言っておられます

近頃は私もそう思えるようにようやくなれました
「未来」とは未だ来ないというわけで、この先から自ずとやって来るのが未来であるから、未来とはこちらから会いに行くというより訪れてくるという考えがスタンダードであったと気付かされるのではないでしょうか

(ぶっけんの法華経済ぴらみっど)
第6‐11日 法華経見宝塔品第十一






Last updated  2017.10.11 10:28:00
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2017.10.03
カテゴリ:ネットビジネス
宗教組織という一種の法人格を釈迦はどう思っていたでしょう?
仏教など宗教のすべてはそもそも一人一人の心掛けを成長させるものであり、その組織存続は二の次の想定、或いはダミー的な維持が組織、つまり法人なのだと思えます
その釈迦族の組織(サンガ)の代表的な大弟子の一人であった舎利弗が釈迦よりも早く死去することになった時の釈迦の嘆きの激しさはどのようのものだったでしょう?
舎利弗こそ組織維持への忠誠と自分自身の個人的存在との間の境地に苦しみ抜いた一途の弟子だったからでしょう
舎利弗はかなり独りよがりになっている状態を釈迦に鋭く指摘されていたようですが、釈迦はその舎利弗の真剣さを貫こうとする姿勢を本当に信じ続けてあげたのです
ミサンガという手首に巻き付けるビーズ玉を組み合わせたお守りは、それが自然と切れると願い事が敵うといわれているらしいですね
きっと仏教組織(サンガ)もこのミサンガのように微妙な繫がりであることをお釈迦様は願っていたはずと思うのです
(ぶっけん成安田)

https://jouan167.jimdo.com/法華経ウェブライターになろう/






Last updated  2017.10.03 08:59:43
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2017.05.02
カテゴリ:生活・文化
町内自治会の運営とは防火管理への徹底が自治管理の全ての基本であるとしても過言ではありません。
各家庭が共存して同じ地区で暮らすためには先ずは各住戸の防火管理の意識の徹底が不可欠であり、最低限必要な各住戸の自立した義務感といえます。
 ...
なお、防犯の呼びかけも大切でしょうが、とりあえず立ち並ぶ家々が連鎖して犯罪に遭遇するということはほぼ少ないでしょう。よって、個人情報保護の観点から隣り合う家であって犯罪に巻き込まれないようにと神経を使いすぎて日常の付き合いを閉ざしてしまうことはよくありません。
それよりは、各々の立場や状況をお互いが常に教え合っておくほうが地区での個人情報保護は安全に機能すると考えてよいでしょう。
 
それに対して防火に関しては各々の家が出火させないように消防法に関しては各々が厳守して気を付けなければなりません。つまり、消防法の概念こそ自立した居住づくりであるはずなのです。
 
ところで、近頃は特に自主防災組織と称して市役所が中心となる防災助け合いが自治の主流になってきているようです。
しかし、実際には防災と消防とは厳密にはかなり異なるものなのです。
この違い区分こそ、地域の市役所においてはよく熟知していない代表的なものといえるのです。
根本的に何が違うといいますと、自治の自主防災組織はそれを実行させている法律は災害対策基本法です。つまり、自主防災組織が消防法の中にあって消防署と取り組んでいる仕組みであると思いがちなのは典型的に勘違いしやすい大きな錯覚なのです。
 
つまり、消防法は消防署であり、災害対策基本法は市役所の防災関係課が管轄部署なのであって、基本的には両管轄は共同しない別々の保安体制なのです。
町内会や集落部落の単位においては昔から消防法における火の見やぐらを立ててその地区らしさのランドマークシンボルとして住民共通の意識統率には無くてはならないものだったのです。
 
今こそ、消防法を地区単位毎に見直してやり直していかなければならないのです。
それが、誰もが市役所へ依存度を高めるあまり地区全体が消防署から離れて行ってしまっているのです。
 
改善テーマとしては、地区と地域には違い区分があるという概念を持つことが必要で、地区とは町内自治区などの単位であり、地域とは各市町村全体をいうと思ってください。
そして、市役所通じた防災訓練などに関係する自主防災組織の設置基本は市町村全域を覆うことが元となる組織であって、各支部があろうと、地区の町内自治会に置くのは消防法による自衛消防組織或いは自衛消防団といわれるものである必要があるのです。
 
つまり、わかりやすくまとめれば、自主防災組織とは台風や地震災害に対する避難命令であって県知事・市長を通じた市役所など地域中心からの発せられる号令の流れであって、自衛消防組織とは各住民地区単位で自発的な判断決定により、その地元地区責任だけで始動し出す防火対策であるとして区分して考えればほとんど間違いはありません。






Last updated  2017.05.02 00:32:49
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2016.09.22
カテゴリ:生活・文化

  
「言い訳」が万人の誰にもある罪であり、間違いが必ずしも万人の誰にもあるわけではない。
アダムとイブが禁断の果実を何であるか知らず間違えて取って食べてしまったわけではない。
つまり、過失ではなく、もともと秘かに二人で相談し、知っての上で取って食べたのである。
   
たとえば、国の運営などは決して過失であろうと間違いがあってはならない厳しさがある。
したがって、国が罪な言い訳をするということはごく日常なのである。
   
それに対し、うっかりの失敗(過失)をすでにしてしまった後では、日常茶飯事の言い訳が整わなくなる変化を生ずるということなのだ。
  
だから、仏は古代から、言い訳とは予め上手く整えて使うことを覚えさせ、貴重な習慣としてきているのだ。
だから、言い訳とは仏の方便であり、真実そのものなのではないが、うっかりな過失が起きないよう真実へ導くためにする説法の上等な手段なのである。






Last updated  2016.10.03 18:51:03
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2015.10.23
カテゴリ:仏教
      
因縁というものは恐ろしくもあり、また不可思議な可笑しさでもあるようですね。
このように何となくそそっかしさを感じさせる、今の薬王菩薩の前身の一切衆生喜見菩薩ですが、なぜ身を燃やして捨て去るようなことまでに至ったのでしょう?
 
私たちは日ごろ、何気なく過ごしているようであっても、様々な奇怪な事件や悲しい事故などのニュースを知らされながら一生涯を過ごしています。
そういった私たちが自然に日常知る限りのあらゆる他人と思える出来事は何等かそれを知る私たち各々にとって、過去世に関係したかつての因縁が現世に現れているのかもしれないのです。
   
ですから、あらゆる知ることが他人事ではなく、今、インターネットやTVを通じて世界中に知らされる出来事が同時に多くの誰にも伝えられているというこの現実は、何を物語っているのかを先ずは知る必要があるでしょう。
それはその無量の情報の中から、どうしても自分に関係した情報をすぐにも感付いて探し出さなければならなくなった現代への警笛なのかもしれません。   
 
つまり、かつての私たちが過去のことにあまりに無関心すぎたためかもしれませんし、また、有ること無いことの偽装な話が流行りすぎたためかもしれません。
 
ところで、薬王菩薩の前世の姿の一切衆生喜見菩薩の話に皆さんは歓喜や隨喜ができましたか?
もし、素直にそれができた方なら、この法華経を自分で修行していける人だと思います。
自分で、と言うことは佛に救済の負担をさせず、逆に佛を安樂させる供養ができるということです。
                                        
ところで、今の世の中は無量の情報が氾濫しているといいましたが、この無量な情報を泳ぎ渡ることが無量義なのかもしれませんね。
世の中は自分だけにふさわしい情報を得たいと誰もが考えますが、各々がただ自分だけにと思っていたら、その一人一人の相に従ったあらゆる多種多様に工夫された方便説法を作りだす佛のほうもいちいち大変です。
                                            
だからふさわしい一人一人に情報がしっかり行き届きにくく、津波のような氾濫の中に漂っているだけなのです。
それが当たるも八卦な神様の主なる支配下のこの世界なのです。
ですから、その神様と有力な信頼関係を築ける者だけが大きな徳を得れるのがこの世の中の現実というものですね。
                                     
よって、是非とも、そのためには佛の智慧、つまり真実の神へのガイドブック或いはガイドラインやガイダンスが必需だということでしょう。
   
⇒ 第7-23日-所愛の身を捨てにき-薬王菩薩本事品第二十三-三十五-四十一行/






Last updated  2015.10.23 23:08:21
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2015.08.30
カテゴリ:生活・文化

【見つからないように車を走る】

車はとても移動に便利ですけど一瞬にして生命を奪ってしまう恐い乗り物でもあります。
ですから自分自身が今どういう立場に居るか?瞬間瞬間にも自分のことを見失ってはいられませんね。


自分が事故を起こさないことが、他者も傷つけない、そういう自分中心の集中力が他者のためにもなっているという、車とはちょっと不思議な機械です。

車の運転は、やはり利己中心な判断のできる人が上手いと思います。
車を見ててすごくカッコいい走りだなあと思える車は、さほどスピードは出てなくとも実に自分自身の危険に一極集中していますね。
また、それだけストレスに強いということもあるでしょう。
 
車とは本当は人間にとって良いものか悪いものなのか、なかなかわからないものですが、お釈迦さまが方便してどんな人間にも適した救出用として用意した奇妙な道具のようなものに私は思えてなりません。
 
私は自分で車の経験から得た知識として、安全のため意識を最大に集中させるには、他人の目に付かない、つまり気を散らせないためにはあえて余計なことに自分から気を配りながら、行き道を見つからないようにする運転法が有利なのではないかと思っています。但しこれは何ら裏付けある意味は判りませんし、経験判断のみなのですが・・。
 
そして、道路で一番事故率の高いところは大きな交差点付近だそうです。
ここはいわゆる各々がお互い行き道の方向変換を図る場所です。ここでは今度は逆に一気に気持ちを周囲に発散させ目立たせることであり、道に迷った位に好きなようにするが良いという気持ちでゆっくり方向を変えるのがコツのように思えます。






Last updated  2015.08.30 23:02:36
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2015.08.23
カテゴリ:仏教
常不軽菩薩と一切衆生憙見菩薩は、勇猛と精進に関してその修行の順序がほぼ逆だったことがわかってきたようですね。
それはやはり両者の個性の違いがあったのかもしれません。
                                       
私は、常不軽即ち釈迦が精進な個性で、一切衆生憙見菩薩即ち薬王菩薩が勇猛な個性なのではではないのかなと思えたりしてきました。
しかし、各々の過去世はまた各々にその逆だったのかなとも思いましたが・・。
                                          
ところで、なぜ釈迦の個性が精進かと言いますと、単に人気取りだけでなく、複数の諸佛と同時に上手くやっていけるオールマイティだからです。
そして、釈迦は長い如来の寿命の中で恐らく最終的に見宝塔品で多宝佛と座を分け合いましたが、それは多宝佛も実際は精進な個性であって几帳面な資産家と考えられ、そのため褒美のように得ることができた勇猛な勢いのほうは二人で力を出し合ったり分け合ったと考えられるのです。
 
また、一切衆生憙見菩薩であった薬王菩薩は、更に元は妙莊嚴王の長子の淨藏だったらしいですが、その頃から数々の波羅蜜を修し多くの三昧も取得しており、なかなかの精進息子だったわけです。
そしてその頃は二子として厳しい修行の相方であって仲良く力を合せて分け合っていたのでしょうね。
そしてさらに二子は精進の為に佛に往詣して仕えることの大切さをとても良く知ったわけです。
 
つまり私の推理からしますと、この二子は精進のほうを佛に対し力を合わせて分け合ったことになると思います。
しかし、その後、二子或いはそれどころか家族全員がバラバラに別々の佛の所へ仕えていってしまったのです。
このことが一体何故なのか中々疑問だったのですが、どうやら佛への精進とは各々一人ずつすることらしいことがわかってきますね。
                                        
それから一切衆生憙見菩薩は恐らく勇猛になることができる現一切色身三昧を精進から得て、たった一人で日月淨明徳佛を供養するつもりで、新たに得た勇猛さを用いることにより自らを火に燈して千二百年が過ぎましたが、佛からは何の反応も起きなかったようですね。
つまり、佛は修行者の勇猛な行動については一切面倒を見ないらしいことがわかってくるようですね。
                                        
したがって、一切衆生憙見菩薩はどうして勇猛さを佛供養に用いて、逆に勇猛さで人々のほうへ法華経を説かなかったのか、それが残念な修行だったということになるようです。
どうやら、常不軽も一切衆生憙見も自身の得意とすることの方こそを自身でどう上手く活かすことができるのかを解からないようです。
                                        
どうでしょう、仏教とは自身の苦手分野こそ同じような他との調和を心掛け助け合える良さと共に、得意分野に関してはよほど死ぬほどの苦労があり、それを救済してくれるのが佛ということでしょうか?
                                       
しかしながら、常不軽も一切衆生憙見も結局のところ、勇猛さを一人で発揮してはあまり良い評価は得られなかったようです。
やっぱり、勇猛は誰もの憧れに過ぎず、精進のほうも誰もが苦手ということになるようで、誰もが勇猛こそ得意な者など居なくて、衆生同士が必ず助け合わなければならない定めにあるようです。
やはりこれでやっと、この品の終わりに宿王華菩薩が薬王菩薩と取り組まされる意味がだんだん分かると思います。
                                        
・・・・・なかなか、考えさせられますが、一切衆生憙見菩薩には自ら佛に成ることだと教えているようであり、これぞ知らぬが真の一切衆生憙見菩薩ですね!
  
⇒ HP本日ブログへ:第8-23日-今故お現に在す-薬王菩薩本事品第二十三-四十二-四十九行/

法華経 薬王菩薩品第二十三






Last updated  2015.08.23 20:25:17
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2015.08.11
カテゴリ:仏教
大法とは大乗経を意味しているのだと思います。
しかし、大きな乗り物ではあるけれど、微妙なものであるということなのでしょう。
そして、世間には希有な所であるということは、大乗ではあっても世間的には不思議とあまり知られず、用いられていない何だか妙な法であることを仙人も表現しているのでしょう。
                                    
その誰も知らないくらい非常に珍しい法を王は求めたのですが、どこを探しても見つからず、たまたま物好きな古本屋のような仙人が唯一、偶然所持していたという感じでしょうね。
                                       
しかし、この珍しい大法はたとえ所持していた仙人であってもそれを理解して使いこなすことは到底難しかったのだと思います。
ある意味では猫に小判ということで、宝の持ち腐れということですね。
                                          
そして、世の中は皮肉なことにそれを活用できる王にはすぐには手に入りにくく、わざわざ上手く取り扱えない仙人の所にひっそり隠されているという現実です。
つまり、用をなさない者には簡単に手に入り、それをどうしても必要な者にとしては、それがどこにあるか一旦難しく探し出すノルマが非合理的な形でのように用意されているゲームであるかのように、この世の中の不思議な現実を示しているようです。
                                        
この不可思議なゲームがこの法華経にも確かに示されているだけに、これが通常の現実の世の中ということのようです。
                                          
ですから、あきらめずへこたれず、何か必要であれば探し出すノルマが生じていると思い、追求してあの手この手で探し出すことで正解が現れるようです。
 
⇒HPブログへリンク;4-12日号-我-微妙の法を有てり-提婆逹多品第十二-十五行-十九行/

法華経  提婆達多品第十二






Last updated  2015.08.11 17:04:57
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2015.08.02
カテゴリ:仏教
   
どうも解かりにくいのは、舍利弗は菩薩ほどの修行には進んでいない声聞阿羅漢なのですが、その段階でなぜかすでに漏盡(ろじん)を得ている、つまり佛法では一番厳しい研究解明や苦行が必要であると思われる煩悩解決に関してすでに完全に済ましている位にあるということが、どうも疑問なのです。
                                         
これはなぜかと考えますと、声聞の境界というものが、本来、天上界を越えている位置にあるということです。
これはつまり、天神たちの居る無色界を越えているということで、物質を離れていて色の無い境界より更に上に位置するということなのです。
                              
ですから以前にお話したとおり、天神たちの天上界ではまだ煩悩を断ち切れて居なく、煩悩の悩みからは開放されていないのが天神たちだったことに対し、舍利弗などの声聞はその状態を既に克服解決の出来ている更に上に居る出世者なのだと考えられるのです。
ただし、物質を離れているかが更に疑問点です。
物質が無いとなれば、身体すらもないのではないかということになりそうだからです。
                                           
ところで、たまたま今月コンビニに販売された月間雑誌「一個人」には保存版特集の「仏陀の謎と真実」という中で、舍利弗と目連(大目建連)の二大弟子は釈迦より早く亡くなっていたということが書かれて、たまたま私は初めて知りました。
                                     
それが本当ならば、ここで出演している舍利弗はすでに亡くなった後の状態が描かれているのではないかという推理が生じてきたのです。
つまり、ただまだ生きている釈迦の法音だけが聞えてくるといった描写のからくりではないかと思えてきたのです。
そして、自身が亡くなったということをまだ把握できていない舍利弗の心情なのではないかということです。
                                         
このような死後の状況がこの法華経の突きたい内容なのかと思いますと、今まで考えてきた推理がまるで大きく覆されるほどの驚きを与えているのです。
もしそれほどの思い切ったチャレンジをした法華経であるのかと思うと共に、そもそもお経とは死後の霊界が描かれていても当たり前ではないかとも思えることへの根本へと帰着させらされる想いです。
                    
∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴
                                            
ところで、人間界の上に天上界という天神の住む世界があるのですから、天神も本来は生き物の世界ではなく死後の世界に暮らすものなのではなかったでしょうか。
そのように、天上界の更に上にある声聞・辟支佛・菩薩というそれらはかつて生き物だったものが皆死後のさ迷いの層に暮らしているのではないかと思えてきました。
                             
その中で菩薩だけはかつて人間だった者でなければなれなくて、声聞や縁覚は人間以外の生き物が多いとも考えられるわけです。
やはり、舍利弗という名の舎利は骨であって、弗は佛の人偏が無いということもうなずけるということもありますね。
                             
つまり、この法華経に描かれている声聞や菩薩などは実は身体がないけど、一般衆生などの姿形へ化身して物質的身体があるかのように見せかけているのではないかと思えます。
ですから、三十二相の荘厳なども本当は幻のようなものを具足しているのではないかと思えてきます。
                                           
これはたとえば、天神は本当は身体もない架空な姿を持つ神様そのものであって、ただ、人間界などの物質世界から離れていなく密接に関わりあっているのであったり、また、物質から離れてないというのは元々は天神とは何らかの宇宙人であって、宇宙の暗黒物質を支配し物質の創造性を造り上げている存在なのではないかとまで思えてきます。
                                       
また、声聞や菩薩の三十二相という荘厳は文字通り飾りであって、三十三天の帝釈天を除く以下の三十二天の天神たち各々が荘厳の物質を四天下へ送って創り上げている非現実世界なのかもしれませんね。
      
⇒HPへリンク:第4-3日-我是の法音を聞いて-比喩品第三-十六行-二十一行/
 
譬喩品第三






Last updated  2015.08.02 12:35:45
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