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悪女6814@ Re:罪とは四つの非ず・・失敗は罪の表われ、人は皆罪人(09/22) こんにちは☆彡 今日もあたたかい1日でし…

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全98件 (98件中 1-10件目)

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2018.06.24
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カテゴリ:仏教
だらしのない東方娑婆世界とは日本です。
日本が正直に拉致問題を反省し、世界の民衆にこそ真相を打ち明けるべきです。
日本は自国以外の海外世界には迷惑はかけてないと言うでしょう。
隠し事は世界にとっては日本の大きなお世話です。
今の中国の繁栄は日本と朝鮮の問題に始まっていると言ってよいでしょう。
日本人は騙せても海外の国々は決して騙されていません。
大国に頼らない元々の自立した日本を取り戻す、それが娑婆世界の宿命です!
https://news.infoseek.co.jp/article/sankein_wor1806230032/






Last updated  2018.06.24 16:56:35
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2018.05.15
カテゴリ:仏教

善い人間も悪い人間も出世さえすれば世の中のためになるのです。
世のため人のためになるのは出世を果たせた後の結果に因るものです。
お釈迦様は先ず自分自身のために出世を目指すことを指導しています。
それは、最初から心掛けて世のため人のためになろうと意気込んで目指す者こそいつまでも出世が出来ていないためです。
なぜかといえば、正直に世の中や他人のことは自分自身の事より難しくて当前なのであり、当初から必ず慎重にならざるを得ないからです。

...

そして、それはすでに先に出世している者の影響力にあやかることと同じであり、出世を目指す自分自身にとっては躊躇の始まりだからです。

だから、お釈迦様はそのような余計なことを菩薩には教えないのです。
出世を目指すことはお国の為なのではなく、
自分自身の為なのであることを思い立つ、最も手っとり早さが必要なのです。
そして、仏教で一番大事に考えられている慎重度の必要性すらもすべて自分自身の為なのです。

自分自身の為に思い付く、それが仏教なのです。
だから、他人へ教えてあげることは最も自分自身の為になるという大宇宙の真実こそが教えです。
 
ぶっけんの法華経済ぴらみっど







Last updated  2018.05.15 16:11:36
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2017.11.22
カテゴリ:仏教



キリスト誕生の西暦1世紀、神と仏は共に歩み始めた
 
いよいよ神と仏の教えの歩調を合わせ始めたイエス・キリスト誕生の西暦1世紀頃に今の私たちは一度、振り返ってみる価値があります。
それは西暦幕開け以降の私たちは、一人一人皆公平な世界の中の一人だからです!
 
真実の宇宙の神秘は文字では語り尽せない
 
人類誰もが平等に見上げてきた広大なる宇宙、その神秘なる真実を紀元前の大昔から追い求め続けて、それを全人類が公平に知るためを目標に普及を図ってきたのは聖書も仏教も同じです。
しかし、聖書であろうと仏教であろうと、広大な宇宙の究極の真実そのものをこの地球上における伝達手段を用いての言葉や文字だけで表そうとしても到底あらゆる真実の真相を表現し尽したはずはありません。
 
古代から大宇宙の神秘を知りたいと願い続けてきた私たち人類の先祖たちは数々の研究を続け様々な議論を裏付ける詳細な想定を繰り返してきただけです。
それら意欲果敢なる先祖たちは各々に平和な集団を築き、各々の地域や考えによる各々の角度で全く別々に挑んできていたのが西暦以前のことであったでしょう。
そして、これらの研究組織の中でもとりわけ宗教の根本を目指し公平な人類のために組織編成を繰り返してきたのが聖書と仏教であったといいうことと、その二大派閥が大きく分けて神と仏への各々の絶え間ない信仰だったのは間違いないことでしょう。
 
聖書が仏教へ働きかけていた秘密の歴史
 
ところで、神と仏への信仰のこの二大派閥間による人類への普及方法の特徴として大きな違いと言えば、聖書派閥が仏教派閥へ普及に出向くということは長い歴史上において古くから頻繁に行われてきていた実績があるようですね。しかしその反面、仏教派閥から聖書派閥へはほぼ普及に出向くということがなかったのは定説な習慣であったように思えることがなんとも不思議ではありませんか?
 
この神と仏の信仰間の往来として聖書から仏教へのみの一方向的な普及活動の流れがあったことに関して、例えば旧約聖書のアダムとイブがエデンから追放されて二人は行き場を失ったとするなら、その後の生き場を保護したのは仏教であったとしても可笑しくないことに思い至りませんか?現に仏教の釈迦に関する阿難や弥勒などはほぼ聖書側の教えイメージに似通って見えても何ら不思議ではありません。また、四大弟子と言われる声聞地位だった四人も皆、聖書の神に沿ったような感覚で方便比喩話を得意に作り上げては釈迦と同等に長らく修行に励んでいた仏道修行者たちであるはずです。
 
新聖書と共に歩んだ西暦の法華経
 
それは、紀元前にインド国で中心にまとめられていた仏教の法華経経典が初めて中国において最終的な編さん作業がされ出したのが西暦50年頃、即ち西暦1世紀だったのです。その編さん作業は数百年にも及び最終的に西暦406年に中国長安でほぼ今の状態に完成されたと言われているのです。
したがって、私はこの重大事実を今知って、今言わざるを得ません。
 
聖書と仏教はすでに暗黙にも紀元前から互いに勘案されてきていたのが自然であり、キリスト誕生以来の西暦1世紀を境に内容の混成と一体化を協約してきたはずなのです。
この地球上でたとえ神や仏に宿られた人間が宇宙のことを人類のために文書に変換して表わされてきたのだとしてもその文書は人類による人類のために活用されるためだけの目的で作られたのです。
ですから、私たち人類がこの地球上でたとえ宗教種類は違えど同等の宇宙の真実について推論してきている歴史があるのです。
その数々別々に存在してきた宗教派閥が互いに同じ普遍の宇宙の中で共存する同一な意義を同時一斉に確定させた西暦の幕開けはより一層、地球上の人類が宇宙の真実へ近づいたと言ってよいでしょう。
 
その真実なる宇宙へのさらなる未来への共存と地球の進化のすばらしさを維持していくための最善の仕組みは、私たちは宇宙人ではなく地球人なのであるがためにこの地球上であえて幾つかの議論に方向分けをしておく派閥保存が何より合理さなのではないかと言えるのでしょう。
 
(ぶっけん 成安田)
 ​如来神力品の「真実」 神様を祈る仏道修行者たち​​








Last updated  2017.11.22 14:05:37
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2017.11.16
カテゴリ:生活・文化
真実に非ず、嘘でも非ず、何かの様でも非ず、全く異なるようでも非ず・・
このように何かが違うはずだが、しかしなぜか合っている・・
あ~でもないこ~でもない、しかし何か選択あるのみ・・それで何とかなるようだ。
このように日々複合した疑問を何とか活性化させて回答を得ていくためには、毎日を同じ一つの事柄だけに集中して磨き続けるよりも、それに似た同じ地道手段のようでも満遍なく学校の五教科を日々ランダムに、そして順番に繰り返すことのほうが最も答えが早くすっきり出てくるように思う。
これは日ごろ得る栄養バランスに似ている。
 
(ぶっけん 成安田)
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Last updated  2017.11.20 17:18:46
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2017.10.10
カテゴリ:カテゴリ未分類
今日は見宝塔品といって多宝如来が安置されている多宝仏塔についてです
この品にはいつの間にか豪勢な多宝仏塔が地底から出現して天高く空中に浮かび上がっているシーンからいきなり始まります
これは突如まるで非現実な夢を見せられているようであり、夢の中で未知なる未来情景を見せられているようですよね

ところで、夢を実現させるとか、まだ見ぬ未来を作ったり切り開くことは私たちの力でできるのでしょうか?
その夢の中であるかのような現実が法の中というものなのでしょうか

住職であり多くの著書を出版されていた松原泰道さんが101歳で亡くなられる数カ月前に書かれた『日本人への遺言』の中で、「運命を切り開くなんてことはできないんじゃないかな。人生はもっと大きな流れの中にある」と言っておられます

近頃は私もそう思えるようにようやくなれました
「未来」とは未だ来ないというわけで、この先から自ずとやって来るのが未来であるから、未来とはこちらから会いに行くというより訪れてくるという考えがスタンダードであったと気付かされるのではないでしょうか

(ぶっけんの法華経済ぴらみっど)
第6‐11日 法華経見宝塔品第十一

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Last updated  2017.11.20 17:22:00
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2017.10.03
カテゴリ:ネットビジネス
宗教組織という一種の法人格を釈迦はどう思っていたでしょう?
仏教など宗教のすべてはそもそも一人一人の心掛けを成長させるものであり、その組織存続は二の次の想定、或いはダミー的な維持が組織、つまり法人なのだと思えます
その釈迦族の組織(サンガ)の代表的な大弟子の一人であった舎利弗が釈迦よりも早く死去することになった時の釈迦の嘆きの激しさはどのようのものだったでしょう?
舎利弗こそ組織維持への忠誠と自分自身の個人的存在との間の境地に苦しみ抜いた一途の弟子だったからでしょう
舎利弗はかなり独りよがりになっている状態を釈迦に鋭く指摘されていたようですが、釈迦はその舎利弗の真剣さを貫こうとする姿勢を本当に信じ続けてあげたのです
ミサンガという手首に巻き付けるビーズ玉を組み合わせたお守りは、それが自然と切れると願い事が敵うといわれているらしいですね
きっと仏教組織(サンガ)もこのミサンガのように微妙な繫がりであることをお釈迦様は願っていたはずと思うのです
(ぶっけん成安田)

https://jouan167.jimdo.com/法華経ウェブライターになろう/






Last updated  2017.10.03 08:59:43
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2017.05.02
カテゴリ:生活・文化
町内自治会の運営とは防火管理への徹底が自治管理の全ての基本であるとしても過言ではありません。
各家庭が共存して同じ地区で暮らすためには先ずは各住戸の防火管理の意識の徹底が不可欠であり、最低限必要な各住戸の自立した義務感といえます。
 ...
なお、防犯の呼びかけも大切でしょうが、とりあえず立ち並ぶ家々が連鎖して犯罪に遭遇するということはほぼ少ないでしょう。よって、個人情報保護の観点から隣り合う家であって犯罪に巻き込まれないようにと神経を使いすぎて日常の付き合いを閉ざしてしまうことはよくありません。
それよりは、各々の立場や状況をお互いが常に教え合っておくほうが地区での個人情報保護は安全に機能すると考えてよいでしょう。
 
それに対して防火に関しては各々の家が出火させないように消防法に関しては各々が厳守して気を付けなければなりません。つまり、消防法の概念こそ自立した居住づくりであるはずなのです。
 
ところで、近頃は特に自主防災組織と称して市役所が中心となる防災助け合いが自治の主流になってきているようです。
しかし、実際には防災と消防とは厳密にはかなり異なるものなのです。
この違い区分こそ、地域の市役所においてはよく熟知していない代表的なものといえるのです。
根本的に何が違うといいますと、自治の自主防災組織はそれを実行させている法律は災害対策基本法です。つまり、自主防災組織が消防法の中にあって消防署と取り組んでいる仕組みであると思いがちなのは典型的に勘違いしやすい大きな錯覚なのです。
 
つまり、消防法は消防署であり、災害対策基本法は市役所の防災関係課が管轄部署なのであって、基本的には両管轄は共同しない別々の保安体制なのです。
町内会や集落部落の単位においては昔から消防法における火の見やぐらを立ててその地区らしさのランドマークシンボルとして住民共通の意識統率には無くてはならないものだったのです。
 
今こそ、消防法を地区単位毎に見直してやり直していかなければならないのです。
それが、誰もが市役所へ依存度を高めるあまり地区全体が消防署から離れて行ってしまっているのです。
 
改善テーマとしては、地区と地域には違い区分があるという概念を持つことが必要で、地区とは町内自治区などの単位であり、地域とは各市町村全体をいうと思ってください。
そして、市役所通じた防災訓練などに関係する自主防災組織の設置基本は市町村全域を覆うことが元となる組織であって、各支部があろうと、地区の町内自治会に置くのは消防法による自衛消防組織或いは自衛消防団といわれるものである必要があるのです。
 
つまり、わかりやすくまとめれば、自主防災組織とは台風や地震災害に対する避難命令であって県知事・市長を通じた市役所など地域中心からの発せられる号令の流れであって、自衛消防組織とは各住民地区単位で自発的な判断決定により、その地元地区責任だけで始動し出す防火対策であるとして区分して考えればほとんど間違いはありません。






Last updated  2017.05.02 00:32:49
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2016.09.22
カテゴリ:生活・文化

  
「言い訳」が万人の誰にもある罪であり、間違いが必ずしも万人の誰にもあるわけではない。
アダムとイブが禁断の果実を何であるか知らず間違えて取って食べてしまったわけではない。
つまり、過失ではなく、もともと秘かに二人で相談し、知っての上で取って食べたのである。
   
たとえば、国の運営などは決して過失であろうと間違いがあってはならない厳しさがある。
したがって、国が罪な言い訳をするということはごく日常なのである。
   
それに対し、うっかりの失敗(過失)をすでにしてしまった後では、日常茶飯事の言い訳が整わなくなる変化を生ずるということなのだ。
  
だから、仏は古代から、言い訳とは予め上手く整えて使うことを覚えさせ、貴重な習慣としてきているのだ。
だから、言い訳とは仏の方便であり、真実そのものなのではないが、うっかりな過失が起きないよう真実へ導くためにする説法の上等な手段なのである。






Last updated  2016.10.03 18:51:03
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2015.10.23
カテゴリ:仏教
      
因縁というものは恐ろしくもあり、また不可思議な可笑しさでもあるようですね。
このように何となくそそっかしさを感じさせる、今の薬王菩薩の前身の一切衆生喜見菩薩ですが、なぜ身を燃やして捨て去るようなことまでに至ったのでしょう?
 
私たちは日ごろ、何気なく過ごしているようであっても、様々な奇怪な事件や悲しい事故などのニュースを知らされながら一生涯を過ごしています。
そういった私たちが自然に日常知る限りのあらゆる他人と思える出来事は何等かそれを知る私たち各々にとって、過去世に関係したかつての因縁が現世に現れているのかもしれないのです。
   
ですから、あらゆる知ることが他人事ではなく、今、インターネットやTVを通じて世界中に知らされる出来事が同時に多くの誰にも伝えられているというこの現実は、何を物語っているのかを先ずは知る必要があるでしょう。
それはその無量の情報の中から、どうしても自分に関係した情報をすぐにも感付いて探し出さなければならなくなった現代への警笛なのかもしれません。   
 
つまり、かつての私たちが過去のことにあまりに無関心すぎたためかもしれませんし、また、有ること無いことの偽装な話が流行りすぎたためかもしれません。
 
ところで、薬王菩薩の前世の姿の一切衆生喜見菩薩の話に皆さんは歓喜や隨喜ができましたか?
もし、素直にそれができた方なら、この法華経を自分で修行していける人だと思います。
自分で、と言うことは佛に救済の負担をさせず、逆に佛を安樂させる供養ができるということです。
                                        
ところで、今の世の中は無量の情報が氾濫しているといいましたが、この無量な情報を泳ぎ渡ることが無量義なのかもしれませんね。
世の中は自分だけにふさわしい情報を得たいと誰もが考えますが、各々がただ自分だけにと思っていたら、その一人一人の相に従ったあらゆる多種多様に工夫された方便説法を作りだす佛のほうもいちいち大変です。
                                            
だからふさわしい一人一人に情報がしっかり行き届きにくく、津波のような氾濫の中に漂っているだけなのです。
それが当たるも八卦な神様の主なる支配下のこの世界なのです。
ですから、その神様と有力な信頼関係を築ける者だけが大きな徳を得れるのがこの世の中の現実というものですね。
                                     
よって、是非とも、そのためには佛の智慧、つまり真実の神へのガイドブック或いはガイドラインやガイダンスが必需だということでしょう。
   
⇒ 第7-23日-所愛の身を捨てにき-薬王菩薩本事品第二十三-三十五-四十一行/






Last updated  2015.10.23 23:08:21
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2015.08.30
カテゴリ:生活・文化

【見つからないように車を走る】

車はとても移動に便利ですけど一瞬にして生命を奪ってしまう恐い乗り物でもあります。
ですから自分自身が今どういう立場に居るか?瞬間瞬間にも自分のことを見失ってはいられませんね。


自分が事故を起こさないことが、他者も傷つけない、そういう自分中心の集中力が他者のためにもなっているという、車とはちょっと不思議な機械です。

車の運転は、やはり利己中心な判断のできる人が上手いと思います。
車を見ててすごくカッコいい走りだなあと思える車は、さほどスピードは出てなくとも実に自分自身の危険に一極集中していますね。
また、それだけストレスに強いということもあるでしょう。
 
車とは本当は人間にとって良いものか悪いものなのか、なかなかわからないものですが、お釈迦さまが方便してどんな人間にも適した救出用として用意した奇妙な道具のようなものに私は思えてなりません。
 
私は自分で車の経験から得た知識として、安全のため意識を最大に集中させるには、他人の目に付かない、つまり気を散らせないためにはあえて余計なことに自分から気を配りながら、行き道を見つからないようにする運転法が有利なのではないかと思っています。但しこれは何ら裏付けある意味は判りませんし、経験判断のみなのですが・・。
 
そして、道路で一番事故率の高いところは大きな交差点付近だそうです。
ここはいわゆる各々がお互い行き道の方向変換を図る場所です。ここでは今度は逆に一気に気持ちを周囲に発散させ目立たせることであり、道に迷った位に好きなようにするが良いという気持ちでゆっくり方向を変えるのがコツのように思えます。






Last updated  2015.08.30 23:02:36
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