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カテゴリ:仏教
どうも解かりにくいのは、舍利弗は菩薩ほどの修行には進んでいない声聞阿羅漢なのですが、その段階でなぜかすでに漏盡(ろじん)を得ている、つまり佛法では一番厳しい研究解明や苦行が必要であると思われる煩悩解決に関してすでに完全に済ましている位にあるということが、どうも疑問なのです。 これはなぜかと考えますと、声聞の境界というものが、本来、天上界を越えている位置にあるということです。 これはつまり、天神たちの居る無色界を越えているということで、物質を離れていて色の無い境界より更に上に位置するということなのです。 ですから以前にお話したとおり、天神たちの天上界ではまだ煩悩を断ち切れて居なく、煩悩の悩みからは開放されていないのが天神たちだったことに対し、舍利弗などの声聞はその状態を既に克服解決の出来ている更に上に居る出世者なのだと考えられるのです。 ただし、物質を離れているかが更に疑問点です。 物質が無いとなれば、身体すらもないのではないかということになりそうだからです。 ところで、たまたま今月コンビニに販売された月間雑誌「一個人」には保存版特集の「仏陀の謎と真実」という中で、舍利弗と目連(大目建連)の二大弟子は釈迦より早く亡くなっていたということが書かれて、たまたま私は初めて知りました。 それが本当ならば、ここで出演している舍利弗はすでに亡くなった後の状態が描かれているのではないかという推理が生じてきたのです。 つまり、ただまだ生きている釈迦の法音だけが聞えてくるといった描写のからくりではないかと思えてきたのです。 そして、自身が亡くなったということをまだ把握できていない舍利弗の心情なのではないかということです。 このような死後の状況がこの法華経の突きたい内容なのかと思いますと、今まで考えてきた推理がまるで大きく覆されるほどの驚きを与えているのです。 もしそれほどの思い切ったチャレンジをした法華経であるのかと思うと共に、そもそもお経とは死後の霊界が描かれていても当たり前ではないかとも思えることへの根本へと帰着させらされる想いです。 ∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴∴ ところで、人間界の上に天上界という天神の住む世界があるのですから、天神も本来は生き物の世界ではなく死後の世界に暮らすものなのではなかったでしょうか。 そのように、天上界の更に上にある声聞・辟支佛・菩薩というそれらはかつて生き物だったものが皆死後のさ迷いの層に暮らしているのではないかと思えてきました。 その中で菩薩だけはかつて人間だった者でなければなれなくて、声聞や縁覚は人間以外の生き物が多いとも考えられるわけです。 やはり、舍利弗という名の舎利は骨であって、弗は佛の人偏が無いということもうなずけるということもありますね。 つまり、この法華経に描かれている声聞や菩薩などは実は身体がないけど、一般衆生などの姿形へ化身して物質的身体があるかのように見せかけているのではないかと思えます。 ですから、三十二相の荘厳なども本当は幻のようなものを具足しているのではないかと思えてきます。 これはたとえば、天神は本当は身体もない架空な姿を持つ神様そのものであって、ただ、人間界などの物質世界から離れていなく密接に関わりあっているのであったり、また、物質から離れてないというのは元々は天神とは何らかの宇宙人であって、宇宙の暗黒物質を支配し物質の創造性を造り上げている存在なのではないかとまで思えてきます。 また、声聞や菩薩の三十二相という荘厳は文字通り飾りであって、三十三天の帝釈天を除く以下の三十二天の天神たち各々が荘厳の物質を四天下へ送って創り上げている非現実世界なのかもしれませんね。 ⇒HPへリンク:第4-3日-我是の法音を聞いて-比喩品第三-十六行-二十一行/ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2015.08.02 12:35:45
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