生の肯定
このごろ、谷川俊太郎の詩や文章をよんでいるんだけれど、この人はほんとうに、たとえば神について考えたときに生まれる不可思議な感情を言葉でとらえるようなことが上手だなあと思います。ひっかかるところがあって、この人の詩には、肯定のひびきがあると思っていました。私は、生を肯定しきれずにいました。この世界に生を受け、生きている以上はここにしかいる場所がないのに、ずっとこの場所を肯定できませんでした。この世界が悲しい場所だから、というのも理由のひとつです。生を肯定しきれずにいた私は、谷川俊太郎の肯定的なところになじむことができないでいたんですが、最近なんだか、生きることを肯定することができたような気がしました。すこし長いのだけど、谷川俊太郎の詩の一部を引用します。-----------------------------「ネロ」より(略)ネロもうじき又夏がやってくるしかしそれはお前のいた夏ではない又別の夏全く別の夏なのだ新しい夏がやってくるそして新しいいろいろのことを僕は知ってゆく美しいこと みにくいこと 僕を元気づけてくれるようなこと 僕をかなしくするようなことそして僕は質問するいったい何だろういったい何故だろういったいどうするべきなのだろうとネロお前は死んだ誰にも知られないようにひとりで遠くへ行ってお前の声お前の感触お前の気持までもが今はっきりと僕の前によみがえるしかしネロもうじき又夏がやってくる新しい無限に広い夏がやってくるそして僕はやっぱり歩いてゆくだろう新しい夏をむかえ 秋をむかえ 冬をむかえ 春をむかえ 更に新しい夏を期待してすべての新しいことを知るためにそしてすべての僕の質問に自ら答えるために-------------------------------この詩は谷川俊太郎が、十代の頃に可愛がっていた隣家の犬の死をめぐって書いた詩です。そしてここに、「ぼくはただ季節の最初の陽差から受けた感動を、最も動物的な、最も素直な、最もあたり前な形で、即ち生きたいという欲望と生きようとする決意として書きつけたまでなのだ。生きようとする決意を何故死者に呼びかける形で書いたのか、それはぼくにも解らない。」(『詩を書く』谷川俊太郎著/思潮社)と谷川俊太郎自身が書いています。こんなに健康に生きる欲望を歌うことができたのは、運の良いことかもしれないけど、ただ、それをなぜ死者に呼びかける形で書いたのか。死の存在を受け入れたのじゃないかな、と勝手に思いました。死ぬからこそ今は生きたい、と。死すべきちいさな存在で、何も解らない無知な人間だからこそ、わいてくる自分の質問に答え続けたいというふうに。いろいろ書いたけど私は何が言いたかったのかな。(-_-)ちょっと躁状態なのかも。