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カテゴリ:文章のスケッチ
イズ**ラさんの仕事はまず、その一日の自分のTODOリストを作ってプリントアウトすることから始まる。
イズ**ラさんがキーボードを打ち始める時には、私の視界の端にヒラリと動くものが見える。イズ**ラさんの手だ。キーボードを打つ前に、丁度ピアニストが曲の演奏を始める前のように、両手を宙に浮かせて指をうごかす仕草をしている。一瞬の、吸い込まれるような沈黙の後、キーボードを打ち始める。大きな音がする。そして、時々句読点を打つようなひときわ大きな硬い音と、間が入る。そしてしばらくしてまた、叩き込むように力強く打つ音が聞こえてくる。聞いているとこちらの指が痛く感じるほど大きな硬い音だ。 イズ**ラさんの仕草は、細部まで力が入っているように見える。すれ違うときに道をゆずるときのイズ**ラさんのあしさばきは、剣道の所作みたいに美しい。日常のしぐさのいちいちが美しいことがイズ**ラさん独特の可笑しみを生む。 また、言葉遣いも発音もとても丁寧だ。電話の応対は、まるでお手本のように美しい。本当は電話が大嫌いなのだそうだ。職場では率先して電話にでるイズ**ラさんであるのに。「家にいるときは、5歳の子供に出させます、それほど電話が嫌いなんです」とあるときイズ**ラさんは言った。「組織の中にいるということは大変なものです」 TODOリストには、「○年○月○日の業務」とあり、その下に、ビジネス書からの引用と、外国の著名人の格言が書いてある。いかに効率よく仕事を勧めるか、という事柄についての格言だ。その下にその日の業務を箇条書きにする。3行の日もあれば10行の日もある。 業務が3行の日、その3行の中に「◇保育園迎え」という項目があった。そういえばその週の初めの日、イズ**ラさんが右手を真っ直ぐに挙げて 「わたくし、今週は定時に帰らせて頂きます」と言っていた。 子供を迎えに行くことも業務なんだろうか。それはプライベートではないのだろうか。でもそれは私の分類にすぎない。イズ**ラさんは私とは違う分類法をもっているのだ。 仕事をいかに効率よくすすめるか、それがイズ**ラさんの仕事におけるテーマの一つのようだ。それなのに、イズ**ラさんの仕事はかえって効率とはかけ離れていくようなのだ。 「イズ**ラさんに仕事のわからないところを質問すると」と、私の斜め前の席のヒ*ノさんが不安そうに言った。 「その答えの中に不明な一部分があると、それについてイズ**ラさんは調べたり、他の人に聞いたりするでしょう、そしてその中にまた分からない部分が生まれて、それをまた調べるでしょう、そしてどんどんおおごとのようになっていくの、ちょっと聞きたかっただけなのに。それにひととおり答えが返ってきたときには、自分が何をききたかったのかを忘れてしまっているの。」 忙しそうな課長やハマ**さんにいつも話を途中でさえぎられるのも、そういうことのためもあるのかもしれない。 イズ**ラさんは毎日話をさえぎられ、毎日細部を追求しつづける。イズ**ラさんはスタイルを変えない。ときどき、イズ**ラさんが「まあ、これは細かすぎますかね」というと私は悲しくなる。イズ**ラさんが自分の中の何かをふみにじっているような気がして。 イズ**ラさんはよく咳をしている。咳にもいろいろ種類があるんです、と言う。体が弱くて、喘息持ちなのだ。暑がりでだいたいがシャツをうでまくりしている。 今日、お昼休みに屋上へ行くと、遠くにイズ**ラさんが立っているのが見えた。私はイズ**ラさんから見えない場所に座ってイズ**ラさんを見ていた。 イズ**ラさんは、ずっと立って遠くを見ていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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