2024/08/08(木)16:28
★パッキャオの複数制覇について。(8月4日、訂正)
6階級制覇とも8階級制覇とも言われるパッキャオですが、どちらが本当なのでしょうか?
1995年1月、16歳1ヶ月のときに(17歳と)年齢詐称までしてプロのリングに上がったデビュー戦は、ライトフライ級(~48,988キロ)だった。しかも一つ下の最軽量級(ミニマム級)の体重より軽く、ポケットに重りを忍ばせていた。(ミニマム級でやらなかった理由は定かでない)その報酬は2ドル。97年6月、21戦目で東洋太平洋フライ級タイトル獲得。
(デビューから2年半で21戦❢❢)
《後楽園ホールでの写真》98年5月、後楽園ホールで日本人相手にノンタイトル戦で1R・KO。YouTubeでこの試合を観たら、フライ級の体で(日本人の)ミドル級選手がパンチを振り回している音と迫力。(これじゃフライ級の選手はたまらんだろう)98年12月、WBCフライ級タイトルを獲得。99年2月、2度目の防衛戦で体重超過によるタイトル剥奪、試合も3R・KO負け。それから3カ月後に3階級上げて、S・バンタム級のインターナショナル王座を獲得。(インターナショナル王座とは世界王座の準王者という格付け)その後、正規のS・バンタム級王者→フェザー級→S・フェザー級→ライト級→S・ライト級→ウエルター級→S・ウエルター級……フライ級から数えたら10階級を股にかけて、8階級の王座を獲得。その体重差は約20キロ。
しかし、フェザーとS・ライトはマイナー団体の王座。これが(日本で)6階級制覇といわれるゆえんですが、マイナーとはいえ当時は同クラスで最強の選手だった。(これゆえに海外では8階級制覇王者と評される)フェザー級の獲得は、当時36勝31KO無敗の3団体王者で「悪魔王子」ナジーム・ハメド(英国)を撃破した「メキシコの英雄」マルコ・アントニオ・バレラ《当時49勝39KO5敗1分1NC(ノーコンテスト)で(当時)リングマガジン王者&元WBC王者》を2003年、パッキャオは11R・KOした。(再戦でも判定で返り討ち)
このKO勝ちでパッキャオは、東洋の選手として初めてともいえる米国でのメジャー選手になるとともにリング上で号泣。
ハメドは左右のスイッチ・ヒッターで、変幻自在のスタイルを駆使し、踊りながら強烈なパンチを放つ。パッキャオがS・ライト級王座の獲得は、2009年5月リッキー・ハットン。(当時45勝32KO1敗で、マイナーのIBO王者。当時、元WBA&IBFのSライト級&元WBAウエルター級王者)ハットンの1敗はメイウエザーで、パッキャオ戦の約18カ月前。
メイvsハットンは当時無敗対決で、英国の会場1万6千席は1時間で完売。試合は10R、メイがKO勝ち。ハットンは、パッキャオ戦の次戦に9R・KO負けで引退。
《英国のスーパー・スター、ハットンが2R、一発で失神》
パッキャオのキャリアで最後のハイライトは2010年11月のマルガリート戦(S・ウエルター級、獲得)の判定勝ち。
終盤になると相手は顔面ボコボコで、パッキャオも時おりレフェリーを見ながら「止めないのか?」と目配せするほどの圧倒的大差だった。
戦前の予想はマルガリートの圧勝で「今度こそパッキャオは勝てないどころか危険だ❢❢」と、専門家でさえ危惧した試合を見事に覆した。
そして、ビッグネームにKO勝ちした最後の試合が2009年11月のミゲール・コット戦。(12R・KO)
この試合でも、パッキャオは不利の予想だった。
この頃から《生きる伝説》と評されるようになる。
ミゲール・コット(47戦41勝33KO6敗)
この頃にメイウエザーと戦っていたら……パッキャオは、ハットン戦(2009年5月)の頃からメイに対戦要求をしていたが、実際の試合は15年5月だった。……これが、メイの無敗たるゆえんでしょ。(この試合に限らず)
《地球が揺れる日》と銘打たれたメイvsパッキャオ
最終的に両者の報酬の合計が600億
2008年12月、《ゴールデン・ボーイ》オスカー・デラ・ホーヤは7R終了時、コーナーから戦意喪失でストップされた。
デラ・ホーヤは生涯報酬5億ドルのスーパー・スターで、この試合の直前でライト級王者になっていたパッキャオだが、ウエルター級の契約体重で対戦。文字通り体格も違うために、戦前は「ナンセンスだ」という予想だった。
パッキャオvsマルケスは4度に渡る死闘。
第一戦は1Rにパッキャオが3度のダウンを奪いながら、中盤からマルケスに追い上げられ引き分け。
二戦&三戦は僅差の判定でパッキャオ。
当然マルケスは納得しておらず、四戦目でパッキャオは失神KO負け。(2012年12月)
フィリピンの上院議員でもあるパッキャオは年内にウエルター級王座への挑戦が予定されているが、もう彼にはグローブを吊るしてほしい。
本当に危険だ。