natu Life

2006/11/16(木)21:47

幸せボケ

思う事・・・・(41)

皆さんは「洞爺丸台風」と呼ばれた台風があったことをご存知ですか? ー資料(長いです)- 1954年9月26日22時43分、青函連絡船・洞爺丸が沈没し、1200名弱の乗員乗客 が死亡(行方不明者を含む)しました。 後に洞爺丸台風とも呼ばれることになる台風15号は四国に大きな被害を与えた あと、関西を縦断して日本海に抜け、佐渡付近を通過して北海道方面に向かっ ていました。 洞爺丸は午後2時頃函館を出港の予定でしたが、風雨が強くなってきて、台風 も近づいているということだったため、出港を見合わせていました。その内、 先に出港した洞爺丸より小型の連絡船・第11青函丸が引き返してきて、その 乗客がこちらに移ってきました。洞爺丸は3800トンもある大型船で天皇 陛下の御召船にも使用されたことがあるほどのしっかりした船ですので、多 少の嵐には耐えると思われました。 しかしそれにしても、台風とまともに出会うのは危険であるため、船長は台 風の通過を待っていました。そして午後6時。風雨が弱くなってきて晴れ間も 見えて来ました。天気予報でもちょうどその頃通過し終わるということでし た。これでもう風雨はこの後弱くなると判断して、船長は出港します。 ところが風雨はまた強くなって来ました。まずいと判断した船長は函館港から 5kmしか進んでいないところで航行を中止。しかし港に戻るのも危険と思われ たため、錨を降ろして、風雨が弱くなるのを待ちます。ところが実は台風は 日本海を進行中に急速に速度を落としていて、まだ北海道に到達していなか ったのでした。 強い風雨により、さすがの洞爺丸も貨物のバランスが崩れて浸水します。 船長は近くの岩礁に座礁させて船を止めることを決断。移動しますが、海底 の地盤が弱かったため、そこの岩礁では支えきれず、結局横転。乗客乗員は 救命胴衣を付けていましたし、いちばん近い海岸までわずか600mほどの距離 でしたが、それでもこのすさまじい台風のため、多くの人が耐えきれずに 海底に沈んでいきます。 結局生存者は乗船者約1300名のうち、わずか150名ほどでした。 タイタニック号に次ぐ、史上第二位(当時)の海難事故でした。この事故を 契機に政府は莫大な予算を投じて、青函トンネルの建設を始めます。 なお、この時洞爺丸以外にも下記の貨物船が沈んでいます。  北見丸  70名死亡  日高丸  56名死亡  十勝丸  57名死亡 私の母は小学生のとき、この台風被害により父親を失いました。 つまり私のおじいちゃんです。 小学生になるかならないかの頃だったので、父親の記憶は殆どないそうです。 おじいちゃん、つまり母のお父さんは、会社の出張でこの船に乗っていたそうです。 当時のおばあちゃん、つまり母のお母さんは急に旦那を失くし 4人の子供を育てなくてはいけなくなったのです。 内職をしたりやりくりに苦労したりしてるお祖母ちゃんの姿を母はしっかり覚えているそうです。 私はおじいちゃんの顔は写真でしか知りません。 母も余り鮮明な記憶は無いと思います。 でも、海で溺れ死ぬってどれほどの恐怖だったかと思うと震える思いがします。 真っ暗な海に放り出されたのか、何かにぶつかって意識がなかったのか、、、。 タイタニックを観た人は沢山いるでしょうが、海に落ちていく人、下敷きになる人 色々な人がいろいろな形で犠牲になってる映像がありました。 そして海にほうりだされてからも生きながらえて、イワユル凍死してしまう人も・・・。 私のおじいちゃんがどんな形で最期を迎えたのかは分かりません・・・。 母にも詳しくは聞いてないし、母ももしかしたら詳しく知らないのかもしれません。 でも災害って、天災って本当に怖いなって子供ながらに思いました。 関西に住んでるので、阪神大震災の揺れも経験したしね・・。 あの時も「家が壊れる」って思う位激しく揺れた・・・。 昨日は北海道で津波が発生し、非難勧告なども出てましたね・・・。 なのに、本当に非難したのはすごく少人数だったとか・・・。 船が心配で港へ向かう人も沢山いて、渋滞が起きるほどだったとか・・・。 自然の猛威は恐ろしいのです。 被害が予想されるのならば、何をおいても、(後で何もなくても)命を守る術を考えてほしい。 洞爺丸も「大丈夫だろう~」と思って戻ったから転覆する羽目になったんです。 全然ちがうけど、山登りをするときも「下山する覚悟」が必要だって言いますよね。 何をするときも「いやいや、大丈夫だろう~」ってすぐ気軽に考えて 自分の身には災難は降りかからないだろうって思いがちだけれど、 災難にあってからでは遅いのだから、慎重に慎重に・・・・と思ったのは私だけかしら・・・?

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