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ロマンチック 旅

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神社仏閣巡りで歴史探訪

2017.05.06
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NHKBSプレミアムで「東北の桜」を巡る番組がありました。映像では私の故郷を鎮護する、陸奥一之宮神社境内の国指定天然記念物の桜も紹介されています。神輿が二百二段の表参道石段を下り、街に繰り出す「花まつり」に合わせて咲くこの桜は、薄桃色の花弁が4060片、サトザクラ系の八重桜になります。この境内は中学時代の通学路でしたが、今回はこの桜がテーマでは無く、何~んと、番組でこの神社の参詣客として映し出されている方・・・との、不思議で身につまされるお話です。

最初に気付いたのは家内、指摘から録画ビデオを何度か繰り返し見ましたが、映し出されているその方と私がソックリなのです。約12秒。この神社は神武天皇の東征とか、お爺さんに当たる山幸彦を海神の宮に導いたことで知られる塩土老爺神を別宮に祀っていますが、その方はそこにお参り姿で写っています。

年齢具合や背恰好、頭やロマンスグレーの頭髪に至るまで、身体特徴がよく似ています。それだけではありません、二礼二拝一礼の仕草だってそっくりです。その上、真冬によく好むスタイルの緑色のジャンバーと黒ズボン姿とか、ショルダーバッグでも形、大きさ、色までも、私の持ち物と瓜二つなのです。ここまでなにもかにも似ていると、自分が写っている・・・と思い込むのが普通ですよね。ですがそうは問屋が卸しません。過去の里帰りビデオや写真を何度も確認しましたが、この季節での訪問はありません。未練がましく映像を見直しても、やっぱり自分が写っているとしか思えません。不義理をしている故郷に霊だけが里帰りして、映っているのではないかとさえ考えてしまいます。世の中には同じような人が3人いると言われますが、顔・形が似ていれば声が似るのと同じように、性格も好みも似るのでしょうか? 本人さえ見間違えるほどのソックリさん、身につまされる不思議な体験をしてしまいました。皆様はこのような狐か狸に騙されたような経験はありませんか?

故郷を離れて半世紀、今度の中学校同級会は喜寿(前回は古稀)。まだ数年先ですが、何番目? かの初恋のあの方に逢えるのを楽しみに、それまで健康寿命を保ちながら待ちたいと願っているところです。







最終更新日  2017.05.06 15:34:44
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2010.05.18
テーマ:愛しき人へ(867)
  出雲地方は神話の宝庫であり故郷、出雲風土記を中心に興味深く面白いお話が一杯あります。天照大神の弟の「素盞鳴尊」や妻「稲田姫命」、その子孫になる「大国主神」、息子の「事代主神(えびす様、美保神社)」とか「建御名方神(諏訪神社)」等など、そんな土壌からかこの4月スタートのNHK朝ドラ「ゲゲゲの女房」が島根県境港市から生まれました?
今回は5月15日出雲大社で書き切れなかった続きで、縁結び本宮の八重垣神社松江の夜(居酒屋)のご案内です。
八重垣神社01.JPG 八重垣神社02.JPG 八重垣神社03 素盞鳴尊.jpg 八重垣神社04 ご朱印.jpg
素盞鳴尊は、破壊力持つ暴れん坊、マザコン、暗黒神の一面・・・農耕守護の英雄神や文化神など多面性を持っています。
椿の枝の一刀彫「素盞鳴尊」人形、我家の仏壇? らしき箇所の守護神として使っています。
 大国主神の向こうを張って、神話を賑わす縁結びの「素盞鳴尊と妻稲田姫命」を祀る八重垣神社は、松江市の山側に位置します。
格式高い出雲大社に引けを取らないご利益、例えば縁結びの他にも「親の承諾を得た正式結婚」とか「家庭円満・和合」「子授け・子孫繁栄」がご利益の神社になります。神話によると素盞鳴尊は父神イザナギの右目から誕生、でも高天原では諸悪の元祖、父神からの任務を投げ出し、悪態・乱暴の連続、だから姉の天照大神が悲しみから天岩戸に隠れたり・・・と、数々の顛末は割愛しますが死刑級の日本犯罪者1号というレッテルを貼られ、償いに髭と手足の爪を抜かれ高天原から追放され出雲に降りて行きます。
ここからが英雄に大変身、怪物の八岐大蛇に酒を飲ませて退治し、生贄の美しい稲田姫命を助けて結婚、新居生活のために出雲の須賀の地(八重垣)に宮殿を建てたとされます。繊細で優しい感覚を見せ添い遂げる・・・だから神代からの縁結びの由縁になります。
八岐大蛇から出て来たのが三種の神器「草薙の剣」、罪滅ぼしに天照大神に謙譲、現在は依代として熱田神宮に祀られています。
八重垣神社11 社務所売店.JPG 八重垣神社12 鏡の池.jpg 八重垣神社13 鏡の池.jpg
一応、般若心経の読み書きを諳んじ、意図するところを数冊の本から抜粋し纏めてみましたが、理解が深まりません。失格!
 ここでの縁結び占いは趣向が凝らされていて、おみくじを引くレベルを超えた楽しみがあり、特に若い女性達に人気のようです。
境内は稲田姫命受難の後に生活した場所、その折、日々の飲料水として、また、姿見の池として使用したのが「鏡の池」、姫の美容調整の源となった池で、神社後方の奥の院付近にあります。占いは社務所で半紙を求め(100円)、池に紙片を浮かべ硬貨(ご縁=五円が多いようです)を乗せ、早く沈めば縁近く遅ければまだまだ婚活、近くで沈めば身近な人で遠くは遠距離恋愛覚悟・・・になります。
まだ続きがあり、浮んで来る文字に運勢が現れ、そして吉凶と方角、池水を我が身に振り掛けると美男・美女・・・という懲りようです。
この占いを見ていてふと長垂海岸を想い出し、「浜辺の歌」とか「さくら貝の歌」を口ずさみ、啄木の詩「一握の砂」の歌「初恋」風に砂山に腹這いになっても、45年もの昔が戻って来るわけでなく、その後の互いの人生がどう移ろったのか想いを馳せてしまいます。
松江11 居酒屋根っこ.jpg 松江13 のどぐろのしゃぶしゃぶ.JPG 松江12 地魚造り三種盛(かじき・のどぐろ・白バイ).jpg 松江14 純米大吟醸.JPG
記念すべき日に乾杯!
 疲れた身体を癒すのは夜の一杯が一番、手頃な店が松江駅前にありました。「尽くす・支える・添い遂げる」という明治の強い女の見本みたいな家内の嗅覚で、居酒屋発見。「諸国の勝手料理」とはなっていますが季節なのか日本海ならではの食材が一杯、「山陰高級魚のどくろのしゃぶしゃぶ」「地魚三種盛刺身(白バイ・のどくろ・かじき)」「泥酔大和しじみ」「もろげ海老唐揚げ」等など、カウンターに置けないほどの注文です。当然ながら、隣の方のお奨めがあって地酒2種類(一杯1200円)も堪能してしまいました。
酔うほどに場違いにも、初賞与で買ったというあの娘のステレオからチャイコフスキーピアノ協奏曲1番・・・が胸を過ぎります。
松江21 根っこ.jpg
 女将は傘寿を越えていそうなご高齢、実際は息子らしい方が5~6人を差配し帳場を切り盛りしています。が、仕上げの「焼きうどん」は操業当初からのメニューで女将の調理、背が低くても厨房に立つ姿はキリッとした輝いた姿です。つい「焼きうどん二人前」・・・!
次回は14日間の旅のため2週間お休みを戴いて、いよいよ最終ブログ「家族写真」で4年間の締めくくりを予定しています






最終更新日  2010.05.18 09:55:21
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2010.05.15
  大和しじみで知られる島根県宍道湖、その西岸が記紀神話や出雲風土記による神話の故郷「出雲」、中心は大国主神を祀る出雲大社になります。神宮といえば伊勢神宮、大社(おやしろ)といえば出雲大社といわれるほど、縁結び信仰が厚い神社になります。
今回は長く複雑に絡む神話を一寸だけ交えながら、出雲大社を中心に縁結びのご案内です。なお、記紀神話とは、皆様ご存知の古事記と日本書紀のことで、奈良時代に国家が編纂した極めて政治性の強い、古代天皇制を正当化する物語になります。
出雲大社01 勢溜から松の参道を望んで.JPG 出雲大社02 稲羽の素兎(因幡の白兎).JPG 出雲大社03 仮拝殿.JPG
大国主神を祀る出雲大社、ご神体は不明という謎の多い神社です(伊勢神宮は八咫鏡、熱田神宮は草薙の剣で三種の神器)。
有名な「稲羽の素兎」神話は、八上比売命に結婚を申し込みに行く八十神(兄弟神)にお供していた道中での話です。
 勢溜からの松林参道は神聖、砂利道を真っ直ぐ進み、大国主神のムスビや素兎との御神像を覗き銅鳥居をくぐると拝殿です。
現在の国宝「御本殿」は延亨元(1744)年に造営された建築物、過去三度の屋根替えと大修理を行っていま。本殿のみならず境内外の摂社・末社の傷みが激しくなったので一昨年の平成20年5月から大修理中、だから従来の拝殿は今「御仮殿」になっています。
出雲大社41.jpg
艶福家・・・面目躍如の大国主神は幸せ者、本殿左右の妻達や命を助けられた比売命達の諸社に囲まれ祀られています。
 大国主神は出雲神話の主役で英雄。素盞鳴尊の子孫になり(古事記で六世の孫、日本書紀は息子)、少彦名命と組み全国各地を巡り、国土を開拓し、人々に農耕や禁厭(害鳥・害虫の駆除)の法を教え、悩み苦しむ病気・災厄から逃れる医薬の法を授け、葦原中国の国造りを完成させます。国津神(くにつがみ)の総元締めみたいな存在で、「大きい国主の神」から大国主神の称号になります。
出雲大社11 .jpg
出雲太郎(出雲大社)・大和二郎(東大寺大仏殿)・京都三郎(平安宮大極殿)と、「口遊(くちすさみ)」通りの巨大建造物です。
出雲大社21 十六丈御本殿復元図.jpg 出雲大社22 宇豆柱(棟持柱).jpg 出雲大社23 現在の本殿図.jpg
社伝によると最古の出雲大社は高さ32丈(約96m)の壮大な神殿になります。
その証拠に直径約1.35mの杉材3本を束ね、差し渡し3mもの宇豆柱(棟持柱)が平成12年に境内から発見されています。
 日本で一番古い神社建築様式の一つ大社造りの出雲大社、何故、こんなに大きな造りなのか、でもちゃんと訳がありました。
大国主神が苦労して完成した葦原中国、ところが天照大神ら高天原の八百万の神々は治めるのは天照大神の子孫だとして、長い間のすったもんだの末に大国主神に国譲りを承諾させます。その時、国譲りと引き換えに広大な宮殿建築と、目には見えない世界の神事(縁結び)の主宰神を約束させたからで、やっと天照大神の孫の邇邇芸命(ニニギノミコト)が高千穂峰に降臨して来ます。だからこの地では、旧10月10日から神在祭(全国では神無月)として八百万の神々をお迎えし、翌11日から一週間は神様による「神議(会議)」が行われます。当然、男女の縁結びも発議され、この間、街はTVを見ずピアノも弾かずひっそりするのが習わしになりました。
出雲大社31 拝殿(本殿修復のため御仮殿).JPG 出雲大社32 御本殿が聳えています.JPG 出雲大社33 ご朱印.jpg
老若男女共々、引っ切り無し。ここでの参拝は遠くの神々に届くようにと、2礼4拍1礼が正式拝礼になっています。
 美男の大国主神は大変な艶福家で多淫・多産な神でも知られ、古事記では180人、日本書紀では181人もの子をもうけています。
波乱万丈の生涯は試練(2度殺され蘇生)と女性関係の連続、まず素兎を助けた後、八十神が求婚する八上比売命を横取りです。
恨んだ八十神に猪狩りに誘われ「赤い猪」と騙され焼け石を抱いて死ぬと、蛆貝比売命・蛤貝比売命という若い娘の力で蘇生します。
蘇った大国主神を見た八十神、今度は大木を切り倒し楔で割れ目を作り閉じ込め殺しますが、母神の機転で助けられ再度の蘇生。
次は母神の助言で地下の国(根の国)の素盞鳴尊の元に逃げますが、その娘須勢理比売命と深い中になり、怒った素盞鳴尊から様々な試練を受けて地上に逃げ帰る・・・と神話は延々と続き、そんな渦中でも葦原中国平定を果たすのですから立派な神様です。
その他には、天照大神が素盞鳴尊とウケヒ(誓約)の時、天照大神が剣を噛み砕き吹き出た霧から生まれたという、美人誉れ高い宗像三姉妹(福岡宗像大社)の長女多紀理比売命(次女は弁財天)とか・・・計6人も娶った幸せな神様、英雄は色を好むのです。
でも正妻須勢理比売命を恐れて、八上比売命との間に生まれた子を木の又に置いて逃げ帰るとは、人間臭さも感じさせる神様です。
出雲大社51 出雲そば.jpg 出雲大社52 出雲そば.jpg
名物に美味い物無し・・・器を三段に重ねた地方独特の「割子そば」に期待外れ、待たされ・無愛想・不味く・高いの四拍子です。
 45年も前、神在月の「神議」の議題? にもならなかった小生なりの恨み節がありますが、天候次第で10日後の25日(予備日26日)に、坂本龍馬も登ったという憧れの天孫降臨の地「高千穂峰」でトレッキング、縁ある霧島神社にも立寄ります。
次回は字数の関係から今回見送ることにした続き、八重垣神社と松江の夜(居酒屋)を特別記念日の18日に予定しています






最終更新日  2010.05.15 06:19:15
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2010.05.01
  可笑しなもので榛名湖や榛名神社を尋ねるときは、決まって伊香保温泉から回って軽井沢 or 草津に抜けるコース取りです。
このコースで最初の訪問は会社先輩が当時ではまだまだ珍しいマイカーを新品購入時、その試し乗りにと定員一杯の5名で、仙台発5泊6日のテント生活ドライブの旅に同行させてもらった折ですから、かれこれ45年も昔の話になります。
そんなこととはまったく関係なく今回は、群馬県中央部に位置する榛名神社を中心に榛名湖・榛名富士のご案内です。
榛名湖01.jpg
榛名富士山頂へはロープウェイ(3分往復820円)、歩っても40分の行程、山頂からは浅間山、妙義山、遠く八ヶ岳が望めます。
 写真は榛名富士(1,391m)と榛名湖、そして右奥に見える山が外輪山の相馬山(1,411m)になります。約1,500年前の大爆発で出来たカルデラ湖の榛名湖、そして中央火山丘の榛名富士を囲むように外輪山と側火山の総称を榛名山と呼んでいます。
この地帯は上毛三山(赤城山・妙義山)の一つで、古くから山岳信仰の山という来歴から麓の南西に榛名神社が立地しています。
標高1,084mの榛名湖は周囲6km、夏季は外来種バスフィッシングのメッカとして知られ物議を醸していますが、冬季は湖面が結氷するためにワカサギ釣やスケートで賑わいます。榛名の名称は、ワカサギを意味する春の肴(春菜)から・・・とか言われます。
榛名神社11 鳥居.jpg 榛名神社12 随神門.jpg 榛名神社13.jpg
 榛名神社、俗界と聖域を分ける明神式の鳥居をくぐり、随神橋を渡ると随神門(旧仁王門)。そこを過ぎるとすぐ禊橋に続きます。
神社は聖徳太子の父に当たる用明天皇時代(585~587年)に、噴火・雷・水源・岩山などを神格化して、火産霊神(火の神)と植山昆売神(土の神)を祀り創建された古社、今では土木・窯・電力・電気通信などの業界に人気があります。神仏習合の近世は東叡山輪王寺宮兼帯所となり、榛名山厳殿寺・満行宮(権現)と称していましたが、明治の神仏分離令で現在の榛名神社名に戻りました。
榛名神社21 参道.jpg 榛名神社22 参道.jpg 榛名神社23 参道.jpg 榛名神社24 双龍門.jpg
 随神門から本殿までの参道は約700m、清流沿いに巨岩・奇岩・怪石の屹立、うっそうと茂る老杉が空を覆う静寂の中を進みます。
道程は随神門から禊橋、三重塔、矢立の杉、神幸門、双龍門と登って来て本殿到着、険しい山岳参道になりますが神の通り道なるので、信者は道の真ん中を歩くことはありません。境内の巨岩・奇岩・怪石、山岳修験者は限りない霊場を感じていたようです。
右側写真の「双龍門」は本殿直前に位置する御唐門、4枚の扉に文様化された龍の彫刻や水墨画が施された国指定重文になります。
榛名神社41 本殿.jpg 榛名神社43 ご朱印.jpg 榛名神社42 本殿.JPG
 息を切らせ権現造りの本殿に到着、建屋全体に見事な彫刻が施された国指定重要文化財で、文化3(1806)年再建されています。
小振りな建物ではありますが写真は拝殿、それに接続して間殿、幣殿と続き、一番奥が後方に聳える御姿岩の洞窟内部に御内陣が設けられています。御姿岩は下左側の写真になり、今、崩れても不思議では無い危なっかしい巨大奇岩で、神の依代になります。
天下泰平、国家安泰、鎮火、家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、縁結び、安産守護・・・懐深い何でもござれの神様のようです。
榛名神社63 御姿岩.jpg 榛名神社61 額殿.jpg 榛名神社62 神楽殿.jpg
 中央写真は文化11(1814)年に増築された国指定重文の額殿。本来は神楽拝見所ですが、「太々御神楽」などの奉納額が掲げてあることから額殿と呼ばれるようになりました。隣に繋がる国祖殿(神仏習合時代は本地堂)は築300年、これも国指定重文です。
右写真の神楽殿、本来の奉納舞は勿論のこと、ジヤズやクラッシックの白熱ライブ、姿態も顕わな女性ダンス奉納など刺激的です。
次回は小生の生まれ故郷「イーハトーブ」、何でも屋で慈悲深い鉄人「宮沢賢治」を予定しています






最終更新日  2010.05.01 06:11:06
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2010.03.20
  春の四国は八十八ヶ所の霊場巡をするお遍路さんの季節、一番霊山寺から八十八番大窪寺まで約1,450kmの旅になります。
遍路道は空海42歳の時に開いたとか、太子入滅後に高弟の真済が遺跡を辿って始まったとかの説がありますが、八十八という数にも煩悩(欲望・執着)の数とか米の字を分解したとか、或いは、男42、女33、子供13の厄年を合わせた数など諸説があります。
そこで今回は、四国霊場で「発心の道場(阿波の国)」最後のお寺になる、厄除けご利益の二十三番札所薬王寺をご案内です。
薬王院11.JPG 薬王院12.JPG 薬王院13.JPG
山門前の広場には若い外人男女のお遍路さん、足に豆を作って難儀中、見あげると諭祇塔(ゆぎとう)がそびえてます。
 海カメの産卵で知られる徳島県南東部、薬王寺はその紺碧に輝く太平洋に面した、日和佐町(現美波町)の小高い丘に位置しています。今月終了のNHK連続テレビ小説「ウェルかめ」の舞台付近になり、時々、薬王寺が映し出されると懐かしく思い出されます。
奈良時代の仏教活動は、国家の保護を受けますが統制も強まり、得度・受戒などが許可制、民間布教は禁止された時代です。
それに反発し布教したのが私度僧、その一人の行基が薬王寺を開基、その後、空海が本尊の薬師如来(東方浄土の世界で衆生の現世利益を司る)を刻んで安置し、厄除けの根本祈願寺としています。民主党代表だった菅直人氏が年金未納問題の責任を取り辞任、一番霊山寺からここ二十三番薬王寺まで歩き遍路して話題にもなりました。薬師如来は薬の王様だから薬王寺命名・・・です?
薬王院21.JPG 薬王院22.JPG 薬王院23.JPG
厄坂(階段)にはいつも一円硬貨が一杯、時には五円玉も。3回も訪問しながら不思議な光景と感じています。
厄年は起源不明な習慣、でも大厄は凶事や災難に合う確立が高い人生の節目、医学的にも肉体と精神ギャップを埋め有効とか!
 薬王寺は四国八十八ヶ所霊場の中でも「厄除け」で知られるところで、山門をくぐりやや直進すると33段の女厄坂、踊り場があって、その上が42段の男厄坂、登り切ったところが本堂になります。ここの厄除けには面白い習慣があって、司馬遼太郎作「空海の風景」の石碑に刻まれているように、「石段を厄年の男女が織るように上下しており、登る者は一段登るごとに一枚ずつ一円アルミ硬貨を落していく・・・」とあります。石段の裏側に薬師本願経を一石一字で印され、厄年の人が一段一段お参りしながら一円玉を置くことにより厄が落ちるというご利益を願ってのことです。階段ぎっしり置かれている時もあり、これがお賽銭を供えることに通じ掃いて回収します。
面白いことに神社は厄難を払い落とす「厄払い」の所で、お寺は災厄を避ける「厄払い」と区別されているようです。このことは当然、庶民的にはまず厄を避けるためお寺に参詣し、一旦、厄難に出合ったら今度は神社に参拝するという順序が良さそうです。
薬王院31.jpg 薬王院32.JPG 薬王院33.jpg
 本堂は開創以来、幾度かの火災や兵火で焼失・再建を繰り返しますが、現在のものは明治41年に再建された建物になります。
薬師如来本尊には不思議な伝説があり、文治4(1188)年の火災のとき焼失を逃れるために、自ら光ながら玉厨子山に飛び去り毎夜光を放っていたそうです。その後、後醍醐天皇が厄除け祈願所として、伽藍を再建し新しい薬師如来を刻み開眼供養していると、飛び去っていた薬師如来が戻って来て、新しい像の後ろに座られ「後ろ向き薬師如来」になった・・・本尊が二体になったという話です。
白衣、菅笠、金剛杖、地下足袋・・・姿、本堂や太子堂にお札を納め、声高に般若心経を唱え平和と安穏な人生を願っています。
薬王院41.JPG 薬王院42.JPG 薬王院43.JPG
本堂右横の61段の還暦坂、そこを登ると灯台のようにそびえる宝物展示の瑜祇塔に至ります。
 四国八十八ヶ所霊場の遍路には、世は諸行無常と心身の苦悩を知る阿波の国「発心の道場」、ひたすら歩くことが修行になる土佐の国「修行の道場」、釈迦が瞑想の中で得た真理を知り悟る伊予の国「菩提の道場」、そして荒ぶる煩悩を断ち切り絶対静寂の心境に至る讃岐の国「涅槃の道場」とに分けられ修行することになります。遍路お接待に接すると、心通う異次元の空間体験になります。
八十八ヶ所遍路は四国ですが、一度訪ねた篠栗(福岡県)とか小豆島(香川県)、知多(愛知県)では1日で遍路体験が出来ます。
薬王院01.JPG
 瑜祇塔の展望台から街や海を見渡すと、清楚な気分に浸ります。お参りした後だからなのか・・・思わず南無太子遍照金剛です。
左側半島の奥に位置する日和佐うみがめ博物館「カレッタ」、常勤職員が3名と小規模。ドラマ影響で人気沸騰中ですが、残念なことに小生は訪ねてはいません。この地域は真珠の養殖も盛んで、視察で訪ね海岸で戯れた事があるので・・・惜しいことをしました。
次回は桜前線北上中・・・そんな季節に「日本一の桜名所」と評価の高い、奈良県「吉野山の桜」を予定しています






最終更新日  2010.03.20 08:23:29
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2010.03.13
  誰が決めたのか岡山の後楽園は日本三名園の一つ、屹立する岡山城と対をなす園景観は、地方では稀な大名庭園になります。
JR岡山駅から近いので、市電を利用して春、初夏、晩夏、晩秋の4回も訪ねていますが、芝生を庭園一面に張り巡らしているからなのか、遮るものが無い広さを実感、金沢・兼六園、水戸・偕楽園とは甲乙付けがたい違った趣を感じさせてくれる庭園になります。
そんなことで今回は、嬉しくも粋な計らいで65才以上の高齢者は無料・・・の扱いをしてくれる岡山後楽園のご紹介です。
後楽園
400年の歴史がある庭園、昭和27年に文化財保護法により「特別名勝」に指定されています。
漆黒の板張り岡山城、豊臣秀吉の寵愛を得た宇喜田秀家の築城で、4重6階の天守閣は昭和41年に再建されています。
 岡山藩池田家二代藩主の池田綱政が約13年の歳月を費やし、元禄13(1700)年に一応の完成をみる回遊式庭園になります。
岡山市街地を流れる旭川の中洲に造園されている後楽園、当初は藩主の静養の場、賓客接待の場でしたが、日を定めて藩内の人々にも観覧が許されますが、明治に入って岡山県に譲渡されてから一般公開になります。
その後、水害や戦災で大ダメージを受けますが、その都度、江戸時代の絵図面に基づいて復旧させて来た歴史があります。
後楽園 後楽園 後楽園
国家・国民の安危を謳い岡山や東京の「後楽園」命名は、「先憂後楽」の思想がありました。
  全体で4万坪の庭園に、日本に広く自生している野芝を張り巡らした約5.6千坪の芝生地は見事です。と思いきや、築庭当時は園内の大半は田畑だったようで、野芝生は藩主の居間「延養亭」周辺だけ・・・園全体へ張り巡らせたのは明治以降になります。
広い野芝地、池、築山(唯心山)、茶室、能舞台などが園路や水路で結ばれた回遊式庭園、特に旭川から引いた640mにも及ぶ曲水は、庭園のコンセプトになっています。季節折々が楽しめる梅林、桜林、藤棚、花菖蒲畑、ハス田、もみじ林(千入の森)などが備えられ、見学に疲れた庶民は茶屋で抹茶を所望し、名物吉備団子を頬張り・・・一休みするのが楽しみになります。
後楽園 後楽園
五十三次腰掛茶屋、ここから沢の池越しに眺める庭と岡山城は、園一番の撮影スポットになります。
  当初からの庭園名称は、岡山城の後に造られた庭園ということから「後園」に、しかし「先憂後楽」の精神に基づいて造られたことから、明治4年に現在の後楽園と改められています。この先憂後楽とは、中国宋時代の范仲淹(はんちゅうえん)という人が「岳陽楼の記」の中で、「天下を憂える人は、人に先んじて心配事を心に留め処置をし、楽しみは天下の楽しむのを見届けた後に楽しめばよい」と、政治家や志士、仁者など国家を動かし人の上に立つことの出来る人達に対して、志や心掛けを説いた有名な言葉になります。
一方で改名の裏に時の政権が、何やら民に臥薪嘗胆を強要する、それを鼓舞するような魂胆が透けて見える気がしてなりません。
振り返って昨今の我国の政治家や経営者、志や目線が高い人達が何処にいるのやら、心の貧困ばかりが目立って仕方ありません。
次回はNHK連続テレビ小説「ウェルかめ」の舞台にも・・・四国遍路二十三番札所・・・厄除け利益の薬王寺を予定しています。






最終更新日  2010.03.13 06:35:52
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2010.01.30
テーマ:愛しき人へ(867)
  讃岐国の香川県善通寺市は、丁度、港町丸亀市と金毘羅さんの琴平町に挟まれた、人口3.5万人という小さな町になります。ここ四国八十八箇所霊場の第75番札所「善通寺」は弘法大師生誕の地、寺が町中央に陣取ったこの界隈は、門前町に相応しい風情が今も色濃く残っています。
そこで今回は、四国八十八箇所霊場第75番札所「善通寺」を中心に善通寺市内のご案内です。
讃岐富士
  高松から善通寺に向かう途中、隣接の丸亀でご当地自慢の讃岐富士(正式名は飯野山標高422m)を望むことが出来ます。健脚な人だと40分程度で頂上到達が可能なようですが、この山は登るより見る山、以前、しかも2回も、真夏の山麓で焼肉パーティーでビールを傾けた楽しい思い出があります。
旱魃に悩まされ続ける地域だけに、年間降水量は千mm足らず、寄り道して灌漑池を挟んでの穏やかな山容は、電柱など邪魔物が写らず美的にバッチリ、映画「UDON」のメインロケ地にもなりました。
東院南大門 東院金堂(本堂)
  善通寺の正式寺名は「屏風浦五岳山誕生院善通寺」、真言宗善通寺派の総本山になります。
伽藍(山門、金堂、五重塔など)がある東院と、誕生院(仁王門、御影堂、護摩堂など)の西院とに分かれ境内は4.5万平米にも及ぶ広さ、これは四国八十八箇所の霊場で一番の大きさになります。
東院南大門の真正面には、東方浄瑠璃浄土の主である薬師如来を祀る金堂があり、3mにも及ぶ丈六の像が鎮座しています。病、傷の他に現代病の心も治してくれる有難い仏になり、堂内は撮影禁止です。
東院五重塔 東院の御神木「大楠」
 弘法大師生誕の地の「善通寺」は、父であり地元の豪族だった佐伯善通から土地の寄進を受けて建立し始めて、弘仁4(813)年に落成しています。奈良時代は国家統治の手段として全国に国分寺建立が行われ仏教の最盛期を迎えますが、佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかとの説もあります。
それは兎も角、金堂、大塔、講堂など15の堂が建立された大掛かりなもので、空海が入唐中の師であった恵果が住した長安の青龍寺を模したといわれています。中世には足利氏、近世は高松松平家や丸亀京極家の庇護を受けて栄えますが、金堂や五重塔などは兵火や落雷により焼失を繰り返しています。
御神木である老楠は、空海が誕生の時から繁茂していた樹齢千数百年の大楠といわれています。
西院仁王門 西院御影池の太子と両親像 ご朱印
  東院側から仁王門をくぐると西院、御誕生所として奥の院とされる御影堂(太子堂)があります。
その正面に御影池があり、太子と両親、大日如来の憤怒化身になる不動明王像などが祀られています。
西院御影堂(太子堂) 御影堂(太子堂)の内部
御影堂(太子堂)は、金堂と共に参詣が多い有り難い所になります。
  善通寺は京都の「東寺」や和歌山「高野山」と共に、弘法大師の三大霊跡といわれ、それだけ古くから篤い信仰を集めた場所になります。朝廷から弘法太子の称号を賜ったのは延喜21(921)年、歴史上は太子の号を賜った高僧は24名もいるようですが、「太子は弘法に取られた・・・!」と悔しがられるほど、太子と呼べば弘法大師を指すほどの固有名になっています。
名物本家「カタパン」 名物本家「カタパン」店内 名物本家「カタパン」店内
昔の売り方で懐かしい味がする堅パン、明治29年創業の熊岡菓子店内は人出で一杯です。
  東院から西院に渡る時、仁王門をくぐらないで右手に進むと名物「堅パン」の熊岡菓子店があります。
小麦粉と砂糖を練った固いパン、でも歯で砕けない硬さでもなくクッキー風味で、紙袋に入れての販売に駄菓子ノスタルジーを感じます。かって軍用食糧として考案され、兵隊パンとして売っていたようで、そういえばこの地は四国全域を管区とする帝国陸軍第11師団(明治31年創設、初代師団長は乃木希典)があった伝統ある場所、それだけに堅パン開発の歴史の重み? を感じない訳には行きません。
乃木希典なる人物、日清戦争の戦果で高い評価がありますが、西南戦争で連隊旗を奪はれ辱めを受け、日露戦争の旅順港攻撃(203高地)では1万人強の大犠牲で功績が分かれますが、乃木神社に象徴されるように明治天皇大葬の夕に妻静子を介錯し、自らも割腹殉死した明治魂は感服ものです。
第11師団跡と乃木記念室(代々師団長執務室)も見所、予約で自衛官が丁寧に解説してくれます。
うどんメニューと価格
ぶっかけうどん(大) 肉うどん(大) 「うどんの山下」店内
讃岐うどんの美味さと安さ・・・の実感は、本場でないと分かりません。
  遅い昼食、ぶっかけうどん元祖の「山下うどん(善通寺)」、当然、手打ちで美味しい腰あるうどんです。
お世辞にも綺麗とは言えない店、でも美味い安いの大繁盛、テーブル20席、畳席が4テーブル程の小さな店で順番待ち、だからこんな田舎町でも駐車場整理の係員がいてビックリの仰天です。
次回は千葉県佐倉市の城址に造られた、古代から現代研究の国立歴史民俗博物館を案内予定です






最終更新日  2010.01.30 07:07:30
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2010.01.03
  今年の初詣はどこも大変な人出、そんな中で行ってみたい神社の人気No1は、接戦で出雲大社を振り切り「伊勢神宮」です。
正式名称は単に「神宮」、お伊勢さんと気安く民衆に親しまれ、内宮・外宮の両宮を中心に14ヶ所の別宮、109ヶ所の摂社・末社・所管社計125社を境内・外に配し、八幡様に次いで信仰別全国2位の神社数4,425社にも及ぶ、伊勢信仰元締め神社になります。
そんなことで今年初めは、不況を乗り切り、争い事が無い安らぎの世界を願って、三重県伊勢市の「伊勢神宮」ご案内です。
伊勢神宮内宮の境内地図
広大な内宮神域は5,500haの広さ、千古の森に杉やシイ、クスノキなど約120種、樹齢600年を越すものもあります。
神社は俗界と聖域の境になる鳥居と瑞垣、神を礼拝する拝殿、神の依代となるご神体安置の本殿で構成されるのが一般的です。
  伊勢神宮内宮(皇大神宮)には、太陽を神格化し神々の頂点に君臨する、皇室の祖先神「天照大御神」が祀られています。
五十鈴川に掛かる宇治橋を渡り右手、玉砂利の神苑をゆっくりと歩き、第一、第二鳥居をくぐり進むと20分で正宮前の石段です。
神苑 火除橋から第一鳥居 第二鳥居
写真は神苑→火除橋から第一鳥居→第二鳥居、生憎の雨降り模様、架け替え中の宇治橋写真を失念は無念(ビデオはOK)。
  伊勢神宮の起源は日本書紀によると、祭神の天照大御神は初代神武天皇以来、歴代の天皇と同床共殿で皇居に祀られていましたが、第十代崇神天皇の時代に疫病の流行と国情の不安があって神威を恐れ、依代の「八咫鏡(やたかがみ)」を大和国の笠縫邑(かさぬいのむら)に移します。その後、皇后が初代斎王になり安住鎮座する地を求め各地を巡幸、皇后の意志を受け継いだ第十一代垂仁天皇の第4皇女「倭姫命(やまとひめのみこと)」が旅を継続し、宣託があった現在の伊勢国の五十鈴川上流畔に斎宮(五十鈴宮)を設け鎮座させたと伝わります。3世紀末頃の話で、それにしても丹後、吉備、伊賀、近江、美濃、尾張・・・と大変な長旅になります。
それから以外と面白い話で、邪馬台国畿内説の論者の中に、千七百年も前の倭姫命が「卑弥呼」だと提唱する人がいることです。
伊勢神宮正宮前階段
神様と一体化した鎮守の森。正宮前は荘厳で、石段を見上げると鳥居の奥に拝殿が見えて来ます。
伊勢神宮正宮 伊勢神宮正宮
鳥居をくぐって正宮内側は撮影禁止、拝殿から奥は見えず二礼二拝一礼してお参りを済ませます。
現正宮の左側空き地(西側)は新御敷地、平成25年に予定されている式年遷宮で新社殿建築の予定地になります。
  内宮祭神の縁起になるご神体は、三種の神器の一つ「八咫鏡(やたかがみ)」。天照大御神が天岩戸にお隠れのとき、誘い出す手段として岩戸前に勾玉と一緒に飾った品になります。(ご神体は神霊が招き寄せられ乗り移るもので、それ自体は神でありません)
三種の神器は皇室継承に不可欠な品々、ちなみに勾玉は現皇居の賢所に奉斎され、剣は熱田神宮のご神体になっています。
お伊勢参りは江戸時代に大流行した神宮への集団参詣、何故か約60年周期で5回も数百万人規模で、自然発生的に起きています。
庶民移動に制限があった時代、でもお伊勢参りだけは許されていたようで、特徴は奉公人が主人に、子供が親に、無断で参詣したことから別名若手衆による「抜け参り」ともいわれる、一生に一度の凄まじい移動になりました。
神明鳥居 神明造り ご朱印
神宮正宮の建築様式は唯一神明造り、檜の素木を用い掘立柱で高床、切妻、茅葺、千木、そして平入り構造は簡素です。
伊勢神宮内宮本殿の造り
神宮内宮はかって「茅葺の納屋」と揶揄されていましたが、今では20世紀の「日本のパルテノン」と評価を得ています。
  天照大御神がこの地に鎮座して悠久千七百年の歴史、最近マスコミで平成25年の神宮「第62回 式年遷宮」が話題に上ります。
紐解くと、神宮は掘立て木造りだから長い年月持ち堪えるはずもなく、だから創設当初の建物は残っていません。それが7世紀末の第40代天武天皇の時に20年毎に建て替えを決め、次の持統天皇(天武天皇の妻で女帝)の時に第一回目が行われています。
これが式年遷宮の始まりになりますが、凄いことは建物だけでなく殿舎の装飾・調度、祭事の服飾、超国宝級の神宝・装束なども原型に則し忠実に新調されることです。常に清浄であることを求め、建築技術や伝統工芸を、次の世代に伝承する目的もあったようです。
参考までに'10年文芸春秋新年特別号に、「伊勢神宮に秘められた女帝(持統天皇)の野望」が掲載されていますので一読下さい。
神宮で最大のお祭は10月の「神嘗祭(かんなめさい)」、私達が生きる糧になるその年に収穫された新穀を、天皇が真っ先に天照大御神に奉じ感謝する祭りになります。天皇統治の基本は民衆を飢えさせないことですから当然のお祭りで、それが総てに亘って清らかに装いを調え、天照大御神が新殿へお遷り仰ぐ20年に一回の式年遷宮の時は、「大神嘗祭」といわれる大祭になります。
おはらい町通り おはらい町通り おはらい町通り
門前町は五十鈴川沿いにおはらい町通り(旧参宮街道)と、隣接しておかげ横丁ががあります。
  門前町の感激は、何処にでもある店がありふれた品の販売かと思いきや、歴史ある地場ではの店が軒を連ねていることです。
老舗酒屋で一杯の利き酒(300円)をいただき、伊賀くみひも屋で紐細工土産を買い、豆腐屋に寄り試食などと・・・楽しい通りです。
日本の神は両面性があり、敬えれば吉兆事を与え、怒らせると祟って悪事をもたらすといわれます。祟りを防ぐには慰撫が必要だそうで、だから定期的に神霊を異界からご神体に招き、饗応し、慶び鎮った神をお戻りいただく祭事、お祭りが必要になります。このとき神様を乗せ練り歩く乗物が神輿や山車、神社の諸々の祭事にはこんな謂われがあり、これでは人間界の下心あるご接待と同じです。
赤福本店 五十鈴茶屋(赤福経営)
  営業再会した赤福、その本店がおはらい通り中央部分に位置していて、雨降り模様なのにひっきりなしの万来状態です。
喧噪を避け本店隣の五十鈴茶屋(赤福経営)へ、五十鈴川や庭園を見渡せる二階で、寛ぎながら問題の赤福を賞味しました。
次回は原稿を8ヶ月も前に書いて保存していた、能登半島先端部の輪島風物を予定しています






最終更新日  2010.01.03 06:43:34
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2009.09.19
テーマ:愛しき人へ(867)
  室戸岬といえば室戸台風を思い出す昔世代の小生、海洋深層水も話題の場所になります。
室戸岬は高知県東南端に位置していて、西南端の足摺岬と双璧、青年時代の弘法大師が修行し悟りを開いた場所としても知られ、広がる海原は地球が丸いことを教えてくれます。
今回は秋彼岸が間近なことから、弘法大師が悟りを開くきっかけになった室戸岬のご案内です。
室戸岬から水平線を望んで
蒼い空と海・・・高知県室戸岬、水平線が遠くに丸くでっかく見える場所になります。
室戸岬海岸 室戸岬海岸 室戸岬灯台
  室戸岬は小石の海辺で、靴を脱ぎ捨て戯れれば潮騒を身近に感じる岬、そこは海も空も蒼く澄んで都会の喧騒や汚れを知らず、心が浄化されて満点気分になります。浜辺に迫り出す頂には白亜の室戸岬灯台が、日本一の大きさを誇る直径2.6mのレンズ、光度190万カンデラ、光達距離56km、明治32(1899)年完成の灯台は海の安全を休むこと無く守り続けています。
ここからアメリカは見えません? が、最近、GPS発達で消え行く灯台が多いのが残念です。
御厨人窟入口(五所神社) 御厨人窟入口(弘法大師寝起きの場) 御厨人窟内部(五所神社が祀られている)
弘法大師修行の地「御厨人窟(みくろど)」、室戸岬先端の東側に位置しています。
御厨人窟内の信者の祈り
訪ねた時は奄美大島から一人歩き女遍路、ロ-ソクの灯りで静かに般若心経の読経です。
  室戸岬は無名だった青年時代の弘法大師が洞窟に籠もり、虚空蔵求聞持法の荒磯修行で最初に悟りを開いた場所と言われています。洞窟は並んで二つ、西側の御厨人窟では寝起きし、東側の神明窟で修行したといわれ、厳しい徹夜修行が続いたある夜、空に輝く明星が飛来して大師の口に飛び込んで来て、ここが仏法の最適地と感得し虚空蔵菩薩の像を刻んだと伝わります。
洞窟は奥行き20m程で天井は歩くに差し支えない高さ、入口から陽光が差し込んでいます。
寝起きした修行の洞窟(御厨人窟)、現在は小さな五所神社になっていて、祭神はスーパースターで女たらしの大国主命、これは後日出雲神社ご案内のときに譲りましょう。
御厨人窟内部から「空と海」を望んで
称名「南無大師遍照金剛」は、大師に帰依し智慧を堅固に持ち遍く隅々まで照らし救う意。
  窟内から外を眺めると、そこに映るのは蒼く晴れ渡った空と太平洋の海だけで、悟りを開くまで無空や如空、教海などと自らを名乗っていたのを、「空海」に改めたとの説が残っています。
悟りは後日「三教指帰(さんごうしき)」として纏められますが、これは儒・道・仏の3教を対話形式で比較して、仏教が最も優れたものとしています。
御厨人窟の石碑 大師修行中の行水の池 中岡慎太郎像
  室戸岬には大師の一夜建て岩屋とか、捻り岩、行水の池など伝説の事跡が残っています。
一方、太平洋に向い地元出身の「中岡慎太郎像」があり、高知市桂浜の「坂本龍馬像」と対になっています。ご存知のようにいごっそうの両人は土佐藩を代表する幕末の志士、京都・近江屋に龍馬を訪問中に何者かに襲撃され(一説では京都守護会津藩配下の京都見廻り組)、維新直前なのに龍馬(31才)も慎太郎(29才)も明治を見る事無く命を落とすという悲運がありました。
亀山社中・海援隊長の龍馬と陸援隊長の慎太郎ですが、尊皇攘夷から雄藩連合による武力倒幕論を唱え奔走した慎太郎、薩長同盟や大政奉還、薩土盟約など、これら今日では龍馬の手柄になっていますが、真の立役者は慎太郎だったのではないかとの論議があります。
最御崎寺の仁王門 最御崎寺本堂と鐘楼 最御崎寺のご朱印
四国お持て成しの「お接待」は無償の行為、一方、世間の「ご接待」は下心ぷんぷんです。
 1,400kmの四国88番札所お遍路巡りは、弘法大師ゆかりの信仰の道で、足跡を訪ねる旅、年間20万人もの人達が巡っています。今はバス巡りが主流ですが、歩き遍路や外人遍路も珍しくありません。「発心の道場」の徳島県最後の第23番札所薬王寺から、「修行の道場」高知県最初の第24番札所最御崎寺まで、国道55号線沿いを75km余りひたすら歩くことになり、何人もの歩き遍路を追い越し、室戸岬の大師が修行した御厨人窟付近から細い山道を登ると、その頂付近に室戸山明星院最御崎寺が見えて来ます。室戸岬灯台は境内から一寸下がった所です。
亜熱帯の植物が繁り南国情緒を醸し出す境内、開基は大同2(807)年で、唐から帰朝した弘法大師が再びこの地を訪れ、嵯峨天皇の勅願を受け伽藍を建立して開いています。
小生も二回目の一周遍路は、何回かに分けての歩き遍路にしたいと計画しているところです。
余話、縁ある9月は家内も鳩山幸氏と同じ齢に、筑前、陸前、日向出身の方にも幸あれと乾杯。
次回は日本百名山で一番低い、孫も一緒の「筑波山(877m)」トレッキングの予定です






最終更新日  2009.09.19 06:41:22
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2009.09.12
テーマ:愛しき人へ(867)
  日本人がロマンを感じる邪馬台国と卑弥呼、畿内説と北九州説との論争が続いています。
そんな中で弥生時代(紀元前3百年~紀元3百年頃)の最大規模を誇る環濠集落が発掘された佐賀県吉野ヶ里遺跡、もしかしてここに邪馬台国が・・・と注目され、昭和61年から発掘が継続され、現在は国営「吉野ヶ里歴史公園」として管理・公開されています。
そこで今回は、佐賀県旧神埼町・三田川町・東背振村に跨る吉野ヶ里遺跡のご案内です。
吉野ヶ里遺跡の全景
ほぼ全容が明らかになった吉野ヶ里遺跡、復元作業も並行して進んでいます。
「魏志」倭人伝に描かれた物見櫓、城柵、宮室、邸閣などセットの発見はここだけです。
  弥生時代の特別史跡「吉野ヶ里遺跡」、45haの環濠集落としてだけでなく、多数の竪穴式住居、高床倉庫、甕棺墓などが発見され、市や倉が強化・整備された集落になっています。
特に長径40mという墳丘墓(甕棺・石棺・土杭墓)は他に例を見ない規模を誇り、このことからすでに大きな墓が造られていたとの見方が強まり、古墳時代の定説が約50年も早まっています。
また、発掘での集落様子が、中国の史書「魏志」倭人伝に記述された邪馬台国に似ているぞ・・・卑弥呼(247~266年が死亡推定時期)の墓はどこだ・・・とも話題になりました。
狩猟・漁労・採取で食料を得ていた縄文時代、それが中国~朝鮮を経由し伝播した農耕(水稲)により定住が始まった弥生時代、人の常として持てる者と持たざる者とが現れ、土地・利水・収穫物など奪い合いが起こり、そのため吉野ヶ里遺跡では物見櫓を設け、大きなV字の壕、柵、逆茂木、乱杭などを備えた防衛集落(これが環濠集落)が造られました。
竪穴式集落と遠方に高床式倉が 高床式の倉 竪穴式住居と遠くに物見櫓が
ここには間近まで海が迫っていた好立地条件もありました。
  弥生時代の6百年は稲作農耕が始まり定住文化が根付いた時、吉野ヶ里遺跡の遺物・遺構の変遷から、日本に原始的国家が形成される過程を知る貴重な発掘資料にもなっています。
この時代の北部九州は大陸や朝鮮半島から技術や文化を摂取した日本で一番の先進地、当時の生産力、政治力、文化力を測るバロメータ「鉄の出土」が二千点以上、因みに畿内では殆んど出ていませんから、邪馬台国や卑弥呼の北九州説を支える大きな根拠になっています。
正面奥が北内郭の主祭殿 主祭殿入口付近 主祭殿での祀り(王やリーダが集う)
復元された高さ12mの物見櫓、床高2mの高床式倉庫、主祭殿など規模に驚かされます。
縄文を代表する青森県三内丸山遺跡と比較して、生活様式や時代の違いがよく分かります。
物見櫓 物見櫓から見た集落 柵と物見櫓
物見櫓や二重の環濠(外濠約2.5km)、土柵、土塁、乱杭は防衛性格が強い集落です。
  そもそも日本古代史に関する最古の資料「魏志」倭人伝という書き物は無く、これは中国で三国時代(魏・呉・蜀)を統一した晋の陳寿という人が書いた「三国志」の中の魏書、その三十巻中の東夷伝の中の倭人(日本人)の条になり、その記述の邪馬台国へのルートは対馬、壱岐、九州北部(福岡県糸島郡)までは特定出来ますが、その後の方位 or 距離の記述が曖昧のために分かっていません。方向間違いであれば畿内に、距離間違いであれば北九州になるようです。
こんなに邪馬台国論争が注目されるのは、日本最初の統一政権となる大和王朝成立への道筋・謎解きに役立つからで、考古学、歴史学の研究から貴重な判断材料と考えられています。
邪馬台国が東進し大和王朝を樹立、大和王朝が西進し邪馬台国を滅ぼしたのか謎です!
吉野ヶ里歴史公園入場券 佐賀牛コロッケ定食 纏向遺跡の箸墓古墳(奈良県桜井市)
  今春、奈良県桜井市にある纏向遺跡の箸墓古墳が、卑弥呼の墓ではないかと学術発表されました。これで畿内説に決定と思いきや、考古・歴史の専門家からは白眼視の状態、まだまだ熱い論争が続きそうです。箸墓古墳は日本書紀に崇神天皇の大叔母の墓とあり、宮内庁管理の天皇陵で発掘調査は出来ません。大物主神(大国主神の別名、正体は蛇)と結婚しますが恥をかかせて怒らせ、後悔してしゃがんだら朱の箸が陰部に突き刺さり死亡した神話が残ります。
佐賀牛コロッケ定食の古代赤米ご飯、以来、我家では五穀米と共に時々食卓に供されます。
次回は弘法大師(空海)、悟りを開いた由縁の室戸岬あれこれを予定しています。






最終更新日  2009.09.12 07:27:46
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