其の三の四「帰還」天井。 白い天井。 白とは言っても、目に痛いほどの純白ではない。 僅かな凹凸が作り出す陰影と、年月の手による淡い色付きが優しい落ち着きを見せてくれる。 ただ、電灯は眩しかった。 ここはどこだろう。 奏は思う。 覚醒したばかりの意識は、此処には違和感があるとだけしか認識できない。 身を起こす。 苦はない。少しふらついたが、爽快だ。 見回せば、テレビがある、襖がある、ソファがある。 寝かせられていた布団は若草色の絨毯の上、絨毯が敷かれているのは板の床。 知らない場所。ここはどこだろう。 路尾が困っていて、力を使って。 「……あれ……?」 不安が湧き出した。 「ここ……どこ……」 もう一度見回す。 外のことは、何かの行事で行く所か学校くらいしか知らないが、何も知らないわけではない。 この部屋はまるで普通の部屋ではないか。 「どういうこと……」 予感に肩を震わせる。 ちょうどそれと時を同じくして、襖が開いた。 その勢いは強く、しかしかけられた声はおずおずとしたものだった。 「よかった……目、覚めたのね……」 安堵のため息とともに緩む目許。 それでいて、どこか悲しげでもあった。 しかし奏は気付かない。それどころではない。 大きく身を乗り出す。 「ここ……どこ……? まさか……」 縋るように、あるいは食ってかかるように、見つめる。 亜樹はすぐには答えなかった。答えられなかった。覚悟していたはずなのに、口にしようとすると胸が詰まる。 布団の傍に膝を折り、囁く。 「身体……辛くない……?」 「そんなのどうだっていい、ここはどこなの!?」 奏の悲痛な声は、皮肉なほどに力に満ちていた。 桐の判断は正しかったのだと確認するとともに、今度こそ残酷な事実を告げなくてはならない。 「……ここはわたしのマンション。帰って来たの」 「どうして!?」 答えよりも先に察していたのだろう。奏は反芻することもなかった。 「どうしてなの!?」 ただ、何故と問う。 揺らぐ瞳の痛みに目を背けかけ、それでも亜樹は耐えた。 「奏ちゃんの、その眼の力とあそこの相性が悪いみたいなの。あのままいたら多分……………………死んじゃうって」 途中で言いよどみ、では何と言っていいのかは判らず、結局はその言葉を使う。 奏の肩が震えた。くしゃりと、歪む。 「やっぱりまた……これなの……?」 左眼を覆う手も震えている。 「どこまで……どこまであたしを馬鹿にすれば気が済むの……!?」 出会う前の奏に何があったのかは知らないが、浄眼に絡んでの何かであったのだろうとは亜樹にも判る。 「奏ちゃん……」 「馴れ馴れしく呼ばないでっ」 一転して、押し殺した声。 無意識に差し出そうとした手は、音を立てて打ち払われた。 「どうしてなの? どうしてあそこにいさせてくれなかったの?」 それは先ほどの問いと同じ響きをしながら別のもの。 「やっと逃げ出せたのよ? 誰にも見つからない場所だったのよ?」 「でも……」 「苦しいくらい何よ、もう一度家に帰るくらいなら死んだ方がましだったわよ……!」 声が再び大きくなる。 向けられるまなざしは恨み。 泣き出しそうで崩れそうで、堪らない。 亜樹は奏のことをよく知らない。胸の内は想像することしかできない。 「何のつもりよ、何様のつもりよ! あたしの邪魔して楽しい!? どうして連れて帰ったのよ!?」 返せる答えなどあろうはずもない。 奏も、望んでいる答えなどない。 「どうして……どうしてっ!」 繰り返される何故の問い。 返せぬ答えの替わりに、亜樹は奏を抱き締めた。 抗う力が弱いのが悲しい。 「ごめんね……」 死ぬなどと口にするものではない、と己のことを棚に上げてでも諭すのが為すべきことなのだろう、きっと。 「死にたいくらいのこと、あるよね」 だが、そんなのは、嫌だ。 吐息はいつしか濡れていた。 「ごめんね……何もしてあげられなくて……」 頬を押し当て、ごめんねと何度も。 そうしか、亜樹にはできなかった。 食卓に料理が並べられてゆく。 実際には炬燵なのだが、夏なので覆いをすべて除いてある。奏が寝かせられていた予備の布団をたたみ、亜樹の寝室へと退避してあった炬燵をこちらの部屋に戻したのだ。 自分が寝る必要はない上に寝るつもりもなかったのだから、最初から奏を亜樹の布団に寝かせておけばよさそうなものだが、そこで気付かず余計な手間をかけるのが亜樹である。 奏は黙って不機嫌に、湯気を立てる夕飯を眺めていた。 目蓋は腫れぼったいが涙はない。 既に二十二時、夜はカーテンで締め出して、室内にはいい匂い。 献立はご飯に味噌汁、ひじきの煮物。 ただし、ご飯以外はレトルトだ。 「……えっと……一応ちゃんとお料理はできるのよ? でも、さすがに冷蔵庫の中のものは全部駄目になってて……」 訊かれもしないうちから言い訳をして、亜樹も座る。 「明日からなら、言ってくれたら大抵の普通のものは作れる……と思うんだけど……」 反応がなくて、語尾が小さくなってゆく。 奏はこちらを見ることもしなかったが、やがてぽつりと言った。 「……で、いつあたしを連れて行くの?」 「……連れて行く……?」 面食らったのは唐突だったからだけではない。 そのようなことは完全に思考の外にあった。 しかし考えればどのような意味であるかには辿り着いた。 困ったように笑う。 「わたし、奏ちゃんがどこに住んでたのかも知らないわ?」 「それくらい……」 「ずっと、ここにいればいいと思うの」 調べれば、あるいは警察に連れて行けば、という言葉は言わせない。 「家の人にさえ見つからなければいいのよね?」 二人分の生活費くらいはきっと稼げる。光熱費や水道代はほとんど変わらないし、食費も自分の分はなくすことが出来る。 亜樹はそう思う。 奏は、ひどく冷たいため息をついた。 「……いつまでそう言っていられるやら」 「信じて欲しいんだけどな……」 そう呟いてはみたものの、仕方がないかとも思う。 急がなくともいい。時が経てばいずれは。 「とにかく、冷めないうちにどうぞ? ……レトルトだけど」 「……いいけど」 やはりこちらを向かぬままではあったものの、奏は素直に手を合わせ、箸を取る。 食べてくれるのならきっと大丈夫だ。元気になれる。 希望を見出し、亜樹は微笑んだ。 「ご飯の後はお風呂に入ってね、それから、明日は洋服も買ってこようと思ってるの。浴衣も可愛いけど、今のままじゃ迂闊に洗濯もできないし……」 暗い天井を見上げる。 布団の中で、奏は眠れずにいた。 目覚めてからまだ五時間程度しか経っていないのでは眠くない。 心は存外に静かだ。 あれほど帰りたくないと思っていたというのに。 自身ではよく理解していない。こちらに帰って来てしまったのだと認めたときに、奏は諦めてしまっていた。 ゆっくりと、左眼を押さえる。 何か力が近付いていたが去ってしまったのを感じる。 どうして、こんな眼を持って生まれてしまったのだろうか。 この眼と生まれた家が自分の生を縛り続ける。 家で心を開ける誰かはいない。学校で友達と呼べる対等の相手はいない。 皆、高価な宝石のように大事にしてくれる。あるいは極力近寄らない。 そのことが異様であることくらい、分かる。 重く、ため息をつく。 今までにも、そうではない接し方をした者はいるのだ。 だが祖父が、佐々木光芳がその目の前に立ったとき、ことごとく屈してしまった。掌を返してしまった。 何度も何度も、一度の例外もなく裏切られた。 亜樹の気持ちが嘘ではないことは判っている。この眼は、はっきりとではないが偽りも感じてくれる。 しかし本物だとしても、裏返らないとは限らない。今まで裏返らなかった者を知らない。 だから奏は人間の大人を信じない。社会と権力に従わざるを得ない人間を信じない。信じなければ、裏切られることもない。 子供の方はそれ以前の問題だ。奏が通っているのは<院>と深い関係を持つ学校、最初から徹底されていて、皆が皆同様の反応を示すだけ。 それでも、裏切られるのではないだけ奏にとってはましだった。 もう一度、大きなため息。 寝よう。 何も考えたくない。 なるようになれ。 蝶々が夜を舞う。 極彩色に毒々しく、何とも知れぬ蝶々が舞う。 帰って来たと、そう主に伝えるために蝶々が舞う。 蝶々は蝶々を呼び、ひとつ、またひとつと街から舞い上がってくる。 それを、横から招くものがいた。 「おいでなさい」 蝶々を形作る力を見て取り、うっすらとした笑みを浮かべる。 蒼い双眸も笑みの形に緩められる。 「そう、そういうこと。この舞踏会の主催者は貴方ですの、グノスサイラス」 招かれた蝶々は、目の前で羽ばたくのみだ。 しかし逃れられない。す、と伸ばされた手、掌の上から出ることは許されない。 「ならば趣味の悪さにも納得できるというものですわ。守護者、などという『設定』にも」 あくまでも優雅に、あくまでも笑顔で、告げる。 向こうには届いている。 こちらに招いたとき、蝶々に干渉を感じた。 「ともあれ、あと一人揃えばようやく本格開始というわけですわね。正直、待ちくたびれましたわよ」 帰って来たとの意味を知りながら、おくびにも出さない。 グノスサイラスは一筋縄でいく相手ではない。 「では御機嫌よう」 蝶々を放してやる。 ひらひらと、蝶々が夜を舞う。 見送り、蒼いドレスを翻す。 「面倒なことになりましたわね」 家令は小さく頭を垂れて応えとする。 二つの姿は夜へ消えた。 |