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八の字の巣穴

八の字の巣穴

「軸索丘にナトリウムチャネルは開く」


注)
 『鬱だ』で始まり『死のう』で終わり、文中に『スリーマンセル』という単語を入れる、というお題を受けて書いたものです。
 2006年12月においては嘘ではないはずなのですが、活性酸素やら他の蛋白やらに触れていなかったりするので全てではなく、ついでに大雑把なので信じない方がよいかと思います。あれから否定されたり発展した可能性もあります。

























 鬱だ。
 ……
 …………
 ………………
 待て、なぜ鬱だ?
 俺は何を考えていた?
 頭が痛い。
 待て、落ち着け。記憶を辿ればいい。
 ……
 …………
 そうだ、男だ。気味の悪い男と会った。
 そうだ、依頼に行ったんだ。
 それから……
 ……それからどうだったろうか。
 ……
 …………
 ああ、思い出してきた。こんな感じだ。











『不老か』

 そいつは笑った。
 どう笑ったのかはよく分からない。ただ笑ったとだけ思った。

『お前の求めるもの、現時点の世の知で語ろう。分子生物学的な見地からすれば、非常に難儀な代物だ』

 俺はこの時点で驚いた。
 俺がこの男を頼ってきたのは、科学ではない異様な力を期待してだ。
 だが男はやはり、おそろしく低い声で笑った。

『科学とは、広義には学問のことだ。事象の相関について仮説を立て、事実に基づく現実的な手法をもってその仮説を検証し、仮説の検証から得られた知識を体系化してゆく……それが科学であり、そうであるならば科学なのだ。言語一つも、突き詰めたならば広義には科学となる』


 そんな講釈はいい。できるのかできないのか。
 俺の研究は人間の寿命の間に完成するものじゃないんだ。


『そう急くものではない。すぐに骨と化す人とて、私が語るうちに朽ちるほどではない』

 俺は舌打ちをする。
 男は無表情だ。無表情に思える。

『ただ世話さえしておけば無限に増殖しうるだけの細胞ならば既に幾つも存在しているわけだが……求めているのは知性持つ生命としての不老長生だろう?』

 当たり前だ。
 誰がただの不死化細胞になりたいものか。

『肉に拠る生命というものは須らく創生と破壊、その間となる維持の繰り返しにより成り立っている。例えば指も一からその形で生えるわけではない。一塊の肉から誘導物質の濃度勾配によって細胞死する箇所が指定され、指が削り出される』

 前置きなどどうでもいい、と言いたいのを俺は堪え、相槌を打つ。


 創造から維持、破壊のスリーマンセル、か。


『そうさな、話を人間に限定しよう。多くは共通しているが、包括的に語ると余談や例外が増える』

 男の声は低く、そしてゆっくりと喋りながら途切れなく続く。 

『現在の分子生物学において、未だ解明への階を上っている最中ではあるが、老化の原因が創生と破壊の双方に仕込まれていることは判明している。創生における老化に関与するものはテロメア、真核生物の染色体末端部だ。反復配列のDNAと局在蛋白より成るこれは染色体の安定に寄与し、細胞分裂のたびに短縮する。テロメアの役割は直線状の染色体を持つ真核生物の染色体末端の保護であり、仮に存在しない状況でDNAが複製されれば不正な融合や分解を起こし、腫瘍細胞と化すこともある。それを避けるため、細胞はそれ以上分裂をしない老化細胞となる。ああ、ここで言う老化細胞とは老人の細胞という意味ではない。あくまでも別のものだ。もっとも、生殖細胞などにおいてはテロメラーゼ活性の高さからテロメアの短縮は比較的防がれる』

 ぞくりとした。
 なぜだか分からないが、とてつもない圧力を感じた。
 この男か?
 しかし男はゆっくりと、しかし滔々と語っているだけだ。
 まず間違いなく、男には俺に理解させるつもりなどない。ただ知識を垂流しているだけだ。
 とは言え、知識があるから俺ならばこれだけでも分かる。
 半ば聞き流しながら時間が過ぎてゆくことに耐える。

『次に破壊における因子だが、今述べた細胞老化にも関わっている。p16ink4a遺伝子と呼ばれるものがある。これは細胞周期の停止、つまりは細胞分裂の抑制にはたらく蛋白をコードする遺伝子なのだが、これが強く発現すると停止は不可逆的なものとなり、その細胞は老化細胞、場合によってアポトーシスとなる。話を戻そう。肉に拠る生命というものは創生と破壊、その間となる維持の繰り返しにより成り立っている。しかし老いから逃れようとしているからといって破壊のみを消すならば、そうさな、分かり易いところで言えばそれこそ悪性腫瘍か。細胞老化とアポトーシスは必要のなくなった細胞を排除するための機構だ。それがなくなってはすべては溜まるばかりとなる。では創生と破壊の両方をなくせばいいのかと言えば、そうもいかん。血流によってさえ血管壁は傷む、食物によって腸壁は傷む、外部刺激によって皮膚も傷む、病原微生物の駆除に白血球は死ぬ。しかし治ることはない。治癒とは細胞及び組織の再生あるいは新生に他ならない。今度は物品としての崩壊が待っている』

 男はここで一度口を閉じた。
 いや、そうだろうか。
 男は一度でも口を開いていただろうか。

『ならば、どうするか』


 ……どうするんだ?


『一つの姿へと向け、必要なだけの創生と必要なだけの破壊が常に行われるようにすれば、事実上の不老となる』


 ……なるほど。
 しかしそれができるんだろうな? 今の医学じゃ到底できるわけがない芸当だとしか思えないんだが。


『それ以外を私に求めたのではなかったか?』

 男のその言葉は、つまりは肯定だ。
 いける。
 この正体不明の黒衣の男の力は、よくは解らないが凄まじいものだという。
 理屈も通っている。
 何から何まで訳も分からずにいるより、一部不透明な部分があってもある程度システムが判っている方がいい。
 後で何かに応用できるかもしれない。
 今の状態に固定する機序が理解できない部分になるのは仕方がない。

 なら、やってくれ。


『容易く頷くものだ。本当にこれでよいというのか? お前の知識の体系からは程遠いが、他の手もある』


 いいんだよ。


「後悔する覚悟はよいな?」

 やはりだ。
 今初めて男の口が開いた。
 いや、そんなことはどうでもいい。

 後悔なんかするかよ。
 それより、代金はどうするんだ? 口座なんかないだろ?


「必要ない。対価は必然として訪れ、支払うことになる」


 そういえば訊いてなかったな。あんた、名前は?


「好きに呼べ。名も私を規定できぬ」

 男は低い声で言って、手を俺の方に伸ばしてきた。
 意識が薄れてゆくのを自覚しながら、俺は……


















 そうだ、それで俺は……
 ……どうなったんだ……?
 黒衣の男の姿は見えない。
 そもそも古ぼけた和室で話していたはずなのに、見回せばホテルらしき部屋のベッドの上だ。
 一体どうなっている?
 夢だったとでもいうのか?
 俺はもう一度部屋を観察する。
 やはり、ビジネスホテルの一室という感じだ。
 俺はベッドの上に座っている。
 ……シーツがえらく乱れてるな。
 床に皿が落ちてる。
 腹が減った。
 …………
 どうにも頭が冴えん。
 やはり憂鬱でかなわん。
 なぜだ?
 と、視界にメモが入った。
 ベッドの横に据え付けられてるただのメモ帳なんだが、何か書いてある。
 手に取って見てみると、俺の字だ。
 しかも殴り書きで、自分でも読みにくい。
 それでも解読する。

一枚目<馬鹿だった>

 腹の奥が冷たくなる。
 嫌な始まり方だ。

二枚目<あの男は懇切丁寧に答えを言ってくれてやがったんだ>

 …………
 答え?

三枚目<次の俺よ、あるいは次の次の次の>

 何だよ、これは。
 酔っ払ってたのか、もしかして?
 それで記憶が飛んで、気分も悪くて。

四枚目<とにかく俺よ、俺を笑え。基本的なことを忘れていた自分を嘲笑え>

 基本的なことだと?
 ああ、それにしても苛つく。
 次の俺というのは何だ?
 頭がもやもやする。

四枚目<シナプスには可塑性があるんだ。なあ、基本だろ?>

 ああ、基本だとも。
 そこらを歩いている大人に訊けば、当たり前のように知ってても不思議じゃない。

五枚目<分かった。俺で何度目だ? こんな滑稽なことがあるか>

 何度目だ?
 次だの何度目だのと……

六枚目<時間がない。長くしすぎるとやばい>

七枚目<分かった>

八枚目<駄目押しだ。脳も細胞なんだよ>

 …………
 何を当たり前のことを……
 …………
 ………………
 ……………………
 ああ、なるほど。
 なるほどだ。鬱だったのも殴り書くのも錯乱するのも、大いになるほどだ。
 俺は天井を仰いだ。
 むしろ笑いたい。
 ああ、嘲笑ってやりたい。
 人間の身体で一番劣化に弱いところは脳だ。
 不老長生を果たすなら、脳こそを最優先すべきだ。
 ここを外せば、見た目だけ若いまま老衰死だ。その前にそこらを徘徊してるうちに事故死しそうだが。
 だから脳が影響から外されているはずがない。
 思考も記憶も、すべては神経細胞同士の接合と発火の仕方に他ならない。しかも結合は容易く変容する。
 何かの力が俺をあの瞬間に固定しようとしているならば、当然脳細胞の接合もあのときと同じになろうとしているはずだ。
 可塑性の高いシナプスは、笑えるほどすぐに元に戻ってしまうことだろう。
 逸っていた。
 あの男はわざわざ、肉に拠る生命は、と繰り返していたではないか。
 忌々しい。
 俺は今の人間にはどうにもならんことをあの男に求めていたはずだというのに、自分の理解できるものに飛びついてしまった。
 忌々しい。
 あの男はそれにも念を押していたではないか。
 忌々しい。
 他の手とやらを選んでいれば精神だけは進行できたかもしれないものを。
 本当に忌々しい。
 …………
 ………………
 だが仕方がない。
 俺は後悔しないと言った。
 頭がもやもやする。
 これがおそらく、戻りつつある証なんだろう。
 俺が今の俺を認識していられる時間は多分もうない。
 ないだろう。だからメモも枚数を気にしている。
 俺はペンを取り、八枚目を捲って白紙の九枚目を出す。
 目の前が明滅する。
 いよいよ次の俺だ、最初の俺だ。
 メッセージは一つだけ。
 泣き言じゃない。
 最後にして唯一の選択だ。
 歪みつつも何とか書きつけ、俺の意識が泡の中に沈んでゆく。
 八枚目で止まらずにちゃんと気付けよ?









九枚目<死のう>










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