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八の字の巣穴

八の字の巣穴

「羅刹のごと・三」






 鬼を一言で言い表すことは難しい。
 広義には、人ならざる不思議すべてと言えるほどに広い。元来は人が己の知らぬものをそう名付けたことからしてもそれは確かだ。
 だが、広義的にではなく狭義的に現在の日本で『鬼』と言い習わされる存在は三つある。
 まずは自然の猛威と脅威、未知の凝りとして生まれた鬼。
 続いて種族としての鬼。
 そして三つ目は、想念により鬼と成ったもの、あるいは想念そのもの。
 一つ目は須らく強大、しかし残る二つも強い力を持つ個体となれば決して前者に劣るものではない。
 しかし今の蓮花にとっては差異などない。その三つでさえあればいい。殺し尽くすのだ。肉の一切れ、骨の一欠け、血の一滴までも消し去るのだ。
 大太刀が虚空を薙ぐ。未だこの山に絡まる封の術法を切り裂く。兎にも角にも出てきてくれなくては殺せないではないか。
 金色に染まった瞳が炯々と輝く。傾斜も木々も、蓮花の足を緩ませることすら叶わない。肉体が成長したことによって露わになった太腿が艶かしくも力強く躍動する。
「……する……」
 熱い吐息。口許が歓喜に緩む。
「するよ……あいつらの臭いがする」
 逃しはしない。再び大太刀が、今度は封じの印を虚空に刻む。鬼のみをこの山から出さぬ結界を形成する。
 本来であれば十人単位で仕掛け、維持をする大術法だ。それを切っ先ひとつで成し遂げる。鬼を皆殺しにするためなのだ、そのくらいのことはやってのける。
「……いた」 
 捉えた。まずは三体。武装はないが、いずれも3m近い巨躯だ。こちらを敵と認識したのか、向かってくる。
 蓮花は雷光と化した。位置そのものを移動でもしたかのように、たった一歩で三体の中央にいた。
 最も近い一体の腹へと無造作に大太刀を突き入れたならば、腹はおろか胸と腰まで爆ぜ割れて、ごろりぼとりと巨大な手足や頭が落ちる。
 それで残る二体が気付いた。大気と地を揺るがすような咆哮とともに、唸りを上げて大人の頭よりも大きな拳が振り下ろされる。
 蓮花はその場から動くことすらなかった。一方は返す刃で肘から切断し、もう一方はこともあろうにそのまま頭で受けたのだ。
 鮮血の滝が渦を巻く。二体ともが、肘から先を失っていた。弾け飛んだのは頭ではなく拳の方だった。
「ははっ」
 蓮花は笑う。絶叫の暇も与えない。跳躍して一方の肩に乗ると空いた左手で首を捻じ切り引っこ抜き、勢いをつけて胴に叩きつける。まるで奇術のようだった。鬼の巨躯が山にでも圧し掛かられたように縦に潰れ、ただの血溜りとなった。
 最後の一体が敵わぬと悟ってか逃れようとするのも見逃さない。鬼の分厚い胸板の中央を角が貫いた。それは更に伸び、独立した生き物の如くにくねり、脚、腕、首と順に切り落としてゆく。肉片となるまで刻みに刻んだ後はしゅるりと縮み、蓮花の額に収まる。
「まず三つ」
 左手の指をぱちりと鳴らす。途端に鬼の血肉から炎が上がった。どこか黒ずんだ炎はまったく延焼することなく鬼の痕跡だけを消してゆく。
 今の三体は、名のあるとまではゆかずとも強力な鬼である。それでも戦いにすらならない。戦いになるようでは話にならないのだ。
「あとまだ百以上……」
 蓮花の被った血も燃えている。だがそのようなことは何の痛痒にもならぬ。囁きは熱く、蓮花の双眸は蕩けるように潤んでいた。







 違うんだ!
 違うんだ! 俺は悪くない!
 悪いのはあいつだ! あいつは化け物と通じてやがったんだぞ!?
 狐だよ! 一体どんな悪さを企んでたことやら知れたもんじゃない!
 信じてくれ、俺は本当は鬼なんかじゃない! あいつに呪われたんだ、俺は人間なんだ!
 そう喚く鬼を、甲太は一刀の下に斬り捨てた。
「いんや、自業自得やで?」
 甲太はこの山に封じられていた鬼たちの中心となる鬼の逸話を知っている。逸話が事実であるならば、因果応報と言う外あるまい。
 呟きはしたものの、表情は動かない。鬼への怒りも憐憫も見せない。
 今この場で甲太のすべきことはほとんどない。精々が逃げてきた鬼を斬り倒すくらいのものだ。苦戦もしない。逃げるようなものは封じられたうちの半数、大した力も思いも持っていない鬼たちだ。
 蓮花は鬼を逃さない。戦うことすらなく、ただ殺してゆくのだ。探し、追いつきながらでも二時間もあれば片がつくだろう。もし固まって向かってくるようなことがあれば百の鬼神をしてさえものの十数秒だ。
 蓮花の位階は上の座第六位階。鈴鹿のような家の力なくして最高位を与えられているということはつまり、<院>の切り札のひとつだということなのである。
 甲太は無造作な足取りで畳岩へと向かう。まともに自分の出番があるとすれば、其処だけだ。







 駆ける。人を百呑む幻術を児戯とばかりに踏み潰す。
 跳ねる。向かい来るのが一であろうが五であろうが十であろうが、そのすべては火に入る夏の虫。
 暗く澱む悪意を最早判別できない。荒れ狂う怒りは、歓喜は果たして誰のものだろうか。
 すべては蓮花を核とし、ただひたすらに鬼を屠る。
「ふ」
 吐息ひとつ。対して呼応するものは千あった。苔むした石に浮く一滴、緑深い葉から零れ落ちる一滴、それらが各々に夜を疾駆し、空間を蹂躙する。
 水気使役法、その初歩の、人知を超えた使い方だ。一滴をしてすら銃弾に勝る威に達していることが人を超えているならば、それが一時に千降り注ぐこともまた人を超えている。
 蓮花自身にはそのような真似は出来ない。しかし鬼を屠れるならば、やってのけるしかあるまい。
 狂おしく大太刀が哭く。鬼殺しの大太刀が哭く。殺せ屠れと衝き動かし、そのためならば技術と知識と無尽蔵とも思える力とを送り込んでくる。そのいずれも既に人のものではない。
 雫に打たれた鬼は瞬時に肉塊と化した。そして今度は焼き尽くされる。
「残してなんかやらない……消えろ、消えてしまえ……」
 うわ言の様に蓮花は呟く。
 否。此処に在るのは蓮花ではない。鬼殺しの大太刀、名を与えられぬうちにいつしか<鬼殺し>と呼ばれるようになった一振りだ。
 <鬼殺し>は鬼を逃さない。戦うことすらなく、ただ殺してゆくのだ。探し、追いつきながらでも二時間もあれば片がつく。もし固まって向かってくるようなことがあれば百の鬼神をしてさえものの十数秒だ。
 ゆらりと頭を揺らし、次の標的を見つける。
 封印の要、畳岩。この山に封じられた鬼たちの中核である一体は、その強大さゆえに今ようやく完全に封から解き放たれるところだった。
 言葉にならぬ声、慟哭が響き渡る。それは生あるものの恐怖を喚起し、心を壊さんとするものだ。
 人の十倍近い身の丈、黒洞と化した眼窩からは常に血涙を溢れ流し、左右のこめかみから額にかけて螺子くれた角が七本生えていた。
 それは人のすべてを憎んでいた。男を憎み、女を憎み、若者を憎み老人を憎み赤子をすら憎み、己が人であることさえも憎み、その想いから鬼と成った存在だった。
 この鬼ばかりではない。封じられていた鬼の半数は似たようなものだ。
 無実の罪で拷問死し、死に切れず死体を動かして鬼と化した男。血に逸る兵たちの景気づけのために両親を惨殺された少年。四肢を切り落とされながらも死ぬことが出来ずに慰み物にされ続けた女。
 死に物狂いなど何ほどのことだろう。涙も涸れ果て流れるはただただ血涙、そういった鬼たちが核となって形成されたのが、真の意味でこの山に封じられていた鬼たちなのだ。その時の戦力では相打ちを覚悟しなければ倒し切ることは出来ぬと見られ、だからこそ封印に留まったのだ。
 一晩と予定されたこの任務は、それほどの相手を葬り去らなければならないものなのである。
 蓮花は斜面を蹴り、大きく跳躍した。若草色の衣服の裾が唸る風にはためく。
 巨鬼が一際大きな咆哮を上げる。虚ろな眼窩は何処を見ているやも定かではないが、蓮花へと右腕を伸ばした。
 夜風が侵蝕される。吐き気を催す腐臭へと変わる。それは極めて濃密な瘴気だ。中てられた草木が一呼吸も経たぬうちに腐れ落ちてゆく。力ある術者とて被害は免れまい。巨鬼は在るだけで災厄だった。
 しかし蓮花は平然とその中へ飛び込む。手にした<鬼殺し>は形無き瘴気をも容易く、嬉々として切り裂く。
 巨鬼の右腕が蓮花を捕らえた。大人五人抱えはあった豪腕は八人抱えにまで膨れ上がり、ちっぽけな少女をそのまま握り潰さんとする。
 赤が夜を染めた。
 悲鳴はない。断末魔もない。ただ巨鬼の右腕が手の内から引き裂かれ、切り刻まれ、焼き尽くされた。
 悲鳴はない。断末魔もない。巨鬼は己が腕の喪失など蚊に咬まれたほどにも感じない。その胸にあるのは怨讐だけだ。人への憎しみだけだ。
 咆哮する。己がすべての憎しみを篭め、慟哭する。
 対して蓮花は、<鬼殺し>はこちらも憎しみで迎え撃った。
 結果は即座に現れた。巨鬼のすべてである憎しみを、一心不乱に抽出された悪意を、<鬼殺し>の憎しみはいとも容易く蹴散らした。
 巨鬼は天を衝くような火柱に包まれた。
 蓮花は既に次の標的を探している。中心であるこの巨鬼も、百を越える標的の一つに過ぎない。集まった烏の一羽に過ぎない。行うものは殺戮であって戦いではない。
「……ふふ、あははっ……」
 笑う。瞳は潤む。
 <鬼殺し>は飢えしか知らない。







 畳岩に腰掛け、刀の峰でぽんぽんと肩を叩きながら甲太は蓮花を待っていた。
 この岩も、かつては濃密な霊気を帯び、精を宿していたのだろう。封印に霊気を費やし切り、今はもう本当に巨大なだけの岩となってしまった。また精が宿るとしても、数百年の後になる。
 蓮花が何処にいるのかは火柱で判る。外からでも目立つはずだが、騒ぎになる様子がまったくないところを見ると<鬼殺し>による結界は上手く働いているのだろう。
 いや、そもそも<鬼殺し>は鬼を葬り去ることに関して不手際を見せることがない。あれは鬼を殺すためだけに打ち上げられた太刀なのだ。そしてその刀匠を始めとして、歴代の継承者たちの怨讐の念を喰っている。
 蓮花は、自身は鬼への憎しみを持っていないという稀有な例だ。だから逆に、蓮花は歴代の継承者の中では最弱だろう。
 それでも蓮花が負けるとは思わない。いかほどの憎しみをもってしても、人より変じた鬼が<鬼殺し>の憎しみに並ぶことは出来ない。
 鬼を憎み、無銘の太刀を打ち上げた刀匠は、己自身をその憎む鬼へと変じてまで完成させ、己が<鬼殺し>によって殺されることには鬼を一体殺したと歓喜したという。以降、時折現れた<鬼殺し>の継承者は己を鬼と化しながら鬼を斬り続けて来た。
 <鬼殺し>の憎しみは極めて純粋だ。全身全霊を篭めて最も憎むものへ己を変じさせることを厭わない、そのような矛盾を当然のものとして両立させるほどに純化されているのである。
 歓喜の下に鬼を屠る異形、まさに羅刹のごと。そう囁かれる。
 甲太は畳岩に腰掛け、蓮花を待つ。
 此処は封印の要だった場所だ。すべての鬼を葬り去った後、最も鬼の臭いが強くなるのはこの畳岩だ。必ず蓮花はやって来る。
 火柱が上がらなくなった。
 風にそよぐ木々のざわめきを聞く。ゆらりゆらりと胸の内の水面が揺れる。
「……よう蓮花ちゃん、思たより早かったな」
 気配に、瘴気に甲太は腰を上げる。
 冴え冴えと輝く<鬼殺し>を手にしたまま、夜から染み出すようにして小道から姿を見せた蓮花は微笑んだ。
「そう? あたしとしては、時間かかり過ぎたと思うんだけど」
 その額からは一本の長い角が伸びたままだ。
「欲求不満なの。もっと血が見たいのに、もう鬼がいないの」
 時間がかかり過ぎたと言った端から殺し足りないと口にする。
 蒼褪めた月の光の下、赤々と色づいたくちびると濡れた双眸が艶かしい。
「だから……ねえ、甲太さん? あたしに血を見せてくれる?」
「はっはっはー、俺は強いでー?」
 甲太はからからと笑う。笑いながら、既に戦闘は始まっていた。
 何故を問う必要もない。<鬼殺し>の遣い手は徐々に鬼と化して行く。普通は十年も保たない。蓮花とて、例外ではない。
 無論、蓮花が鬼を屠る時の力を発揮したならば甲太に勝ち目のあろうはずもないが、完全に人である甲太へと発揮出来る力は元から有している技術と鬼となりかけている身体能力だけだ。
「ふふっ、あははっ!」
 蓮花が前方に跳躍した。距離を詰めるのに要したのは一歩だけ。それほどの脚力と推力に乗せ、右手のみで把持した<鬼殺し>が突き出される。
 しかし切っ先が貫いたのは熱い夜の大気だけだ。甲太は無造作に、必要なだけ左へとその場を退いていた。
 片手での刺突を放った際、使用した腕と同じ側にかわされた場合、次へと続けることは難しい。だからこそ甲太は左へと避けた。そればかりではなく、更に大きく跳び退いた。
 刺突をかわした瞬間に放たれたもう一つの切っ先が一度は足下を狙い、そして喉元へと跳ね上がって来たのだ。しかも、なおも止まらない。続けて前後左右上下、人には為し得ぬ多角攻撃を仕掛けて来る。
 その源は蓮花の額だ。活殺自在の独角が、蓮花のもう一つの刃なのだ。
 むしろ、人間にとっては角の方が<鬼殺し>よりも余程恐ろしい。この速度と距離で全方位から加えられる攻撃を凌ぐことは、術法を扱えぬ人間にとってほぼ不可能に近い。適した術法を心得ていてさえ極めて難しい。文字通りに活殺自在の攻撃なのである。
 それなのに、甲太はかすらせもしなかった。変幻自在の軌道を読み切っているかのように、角の行く手に身体を存在させない。
 水門の奥義である<水妙剣>は御門八門の中で最も身を守ることに長けている。そして同時に、時間をかけて追い詰めてゆくことにも長けている。活殺自在の独角に生じたほんの僅かな齟齬に、甲太の刃は割り込む。
 甲高い音が響いた。角が流れる。
 それでも隙とはならなかった。踏み出そうとした位置に水の槍が突き立てられる。術法で<鬼殺し>へと集めて纏わせておいたのであろう夜露を蓮花が一斉に解き放ったのだ。
「今回はそう簡単に逃がさないんだから!」
 生き生きと、蓮花は笑う。血に酔っているということもあるが、何よりも束縛から解放されているからというのが大きいだろう。
 <院>の中にも知る者のほとんどないことだが、蓮花は現在十六歳だ。本来の容姿はこちらであり、普段の姿は鬼と化してゆくのを幼若化の呪いによって引き留めているのである。
 だがそれも限界に達している。以前は鬼を全滅させれば自動的に十歳の姿に戻っていたのが、一年前からは戻らなくなった。
 希凛の言っていた、最近不安定であるということ。表現そのものは正確ではないが、的を射てはいる。
甲太は薄く笑ったまま応えない。唸り狂う独角にもどかしさを抱くことも無く、足下に突き立てられた水槍に歯噛みすることもない。まなざしはどこまでも透明だ。
 御門八門最強との評は伊達ではない。戦う時に甲太のいる世界は、余人とは異なる。その世界で甲太は活殺自在の独角をかわし続ける。
 何の拍子であったのか、解るのは甲太自身のみだったろう。あるいは拍子などなかったのか。甲太はいつしかするりと牢を抜け出していた。
 ぐん、と気味の悪い早さで蓮花に肉薄する。
 間に合わぬ独角よりは、蓮花は右手の<鬼殺し>を選んだ。片手と言えど、ほぼ鬼と化している蓮花の膂力は人のものを超えている。ごく単純な力というのは恐ろしいものだ。人では刃を合わせることすら敗北の第一歩となる。
 だから甲太は斬撃をかわし、掴みに来る左手もかわし、横から小さな動きで刃を繰った。
 斬の意を表すに至った刃に音はない。蓮花の表情が凍った。動きも凍りついた。
 根元から、角がころりと落ちた。
 鬼の第一の特徴は角だ。特に、人が変じて成るならば象徴であると言ってもよいほどだ。その角を根元から切り落とすことによって鬼であることを否定する、それが一年前に即興で試し、一応の成功を見た方法だ。
 蓮花がぐらりと揺れる。<鬼殺し>を取り落として倒れ込むのを左腕で抱き止め、甲太はいつものようにからからと笑った。
「はっはっはー、今回の手ぇも俺には通じへんかったなー」
 前回は山を駆けずり回っての長期戦、前々回は術法中心、更にその前は最初から白兵戦。蓮花は毎回戦い方を変えて来ている。
 だがこちらは御門だ。命を受けたならば妖から術者、場合によっては軍隊までも相手にして勝利しなければならない身なのだ。想定される状況の多彩さだけからでも、この程度ではびくともしない。
「ほな帰ろか、蓮花ちゃん」
 気を失った蓮花から返事があるとは思っていない。それは独り言だった。






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