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八の字の巣穴

八の字の巣穴

「この冷たい雨が」

『何処なりとも、お供させてくださいませ……そこがわたくしたちの在り処でございますれば……』





「何ものかが、おります……」
 氷雨が呟くように言った。
 五日が過ぎていた。一護も幾分山歩きに慣れ、踏破速度も上がり始めた頃だ。
「刺客……?」
 一護が問うと、氷雨は艶やかな微笑みを浮かべた。
「おそらくは。彼らにとって山は不利とはいえ、いつまでも手をこまねいているはずもございませんし」
 その微笑みは一護の心から不安など取り除いてしまう。
「迂回は百害あって一利もございません。突破いたしましょう」
「ああ、氷雨さんに任せるよ」
「はい。お任せくださいませ」
 華やいだ声で氷雨が頷き、二人は木々の中を前進する。
 それほどの時間は要らなかった。
 少し、開けた場所に出た。平坦で、ぽっかりと空の見える空間。
 そこに、一人の少年がいた。
 ちょうど十代後半になったあたり。背は高めで、容貌と雰囲気にはどことなくガキ大将めいた匂いを残している。
 そして、右手には鞘に納まった剣。
「よお」
 少年は気安く片手を上げる。
 氷雨は一護の前へと出て、少年へと優しげな微笑みを向けた。
「お会いするのは初めてですけれど……当代の?」
「第九十七代スサノオ、須藤竜也だ」
 竜也の名乗りの意味は、一護にも分かった。
 荒水波の話は氷雨から聞いている。目の前の少年こそが自分の命を狙う組織の統括者なのだと。
 知っていても、特別な感情は浮かばない。氷雨を信じるのみだと、この五日間で思った。
「しかし、この目で見ると聞きしに勝るいい女だな、あんた」
 竜也が感心したように頷いてみせる。
「うちの無愛想で偉そうな巫女と交換したいぜ、ほんと」
「光栄ですわ。けれど、わたくしは大蛇さまのもの……そうは参りません」
 くすりと、氷雨。
 竜也のこれでもかというほど羨ましそうな視線が一護に向いた。
「なあ、くれよー」
「……やなこった」
 一護もぶっきらぼうに返す。
 何も考えることすらない、当然の返答だ。
 氷雨が嫣然と微笑む。
「その剣を持ち出したからには、世間話をなさるためにいらしたわけではございませんでしょう?」
「まあな」
 竜也はにやりと笑い、無造作にそれを抜き放った。
 その途端に、竜也の周囲に生えていた樹木が幹から圧し折れ、重い音を立てて倒れる。
 刀身は1mを越えるであろう両刃の剣。柄は長めで、両手でも振るえるようになっている。
 だが、それは些細なことだ。
 鞘に収められていた間は発されることのなかった強大な神気を、それは今放っていた。解放されたというそれだけで、周りの木々を薙ぎ倒したのだ。
 一護は神気を感じられない。そのはずなのに、びりびりと、何かがあるということだけは悟った。
「教えてやるよ、大昔の神様らしいにーちゃん」
 竜也が剣を振るうと、硬質な音を立てて一護と氷雨の後方の岩だけが砕け散った。
 氷雨の纏う防護の力が無条件に逸らしたため、二人に被害はない。
「ちぇ……さすがに余波なんざ効かないか……」
 舌打ちをしつつも、竜也はむしろ嬉しそうだった。
「こいつは十握剣のレプリカさ。当然、十握剣は知ってるよな?」
「……まあな」
 一護も知っている。十握剣とは厳密には剣の種類を示す名なのだが、竜也がここで言っているのは神話において火加具土の首を刎ね、また八岐大蛇の首と尾を切り落としたという、天津神が元来所有していた中では最強の剣のことである。
 竜也は満足げに頷くと、続けた。
「ま、模造品だからな、本物にゃ遠く及ばねえんだけど……それでも本物の十握剣が発する神気の受け皿じゃああってな、そこらの山神くらいなら一刀両断できる」
 それは、とてつもないことだ。
 神の力は凄まじい。小さな山の神であったとて、人のみの力で勝つなど不可能なのだ。
 それなのに、それを苦もなく為してしまうというのだから。
 もっとも、神というものの力の程を知らない一護にはどれほどの代物なのかは実感できなかった。
 だが、竜也の次の一言は心に刻み込まれた。
「ありえねえほどの極悪な強さを謳われる<緋瞳の戦巫女>を過去に三度殺したのは、こいつだ」
 一護は息を呑んだ。
 氷雨も自分で、三度死んだことがあると言っていた。
 それを為したのが目の前の少年が手にしている剣だというのならば。
 だが、氷雨は安心させるように、振り返りこそしないものの穏やかに一護へと語りかける。
「四十年に一度は、その剣を向けられておりますわ。ようやく傷付けることができる、その程度のものでしかございません。三度の不覚も、貶められ狂った神々を荒水波が利用したときの、それも十度は越えるうちの三度……」
 そして、竜也へと告げた。
「『薄暮』に隠れておられる方とともに戦われた方がよろしいかと存じますわ」
 それは相手の戦力を万全にさせようなどという考えから出た言葉では決してない。
 一護を守りながら戦う以上、予測できない攻撃が最も恐ろしい。自分だけならばどうということはないが、一護はただの一撃で死ぬ。一護自身は防ぐことはもちろん、かわすこともできはしない。どれほど必死に動いたとしてもだ。
 荒水波は霊的な意味において、天神側に属する人間の最強の戦闘集団である。隙さえ見つければ、必ずそれをものにして目的を達成する。
 だから、敵側のできるだけの情報を知っておく必要があるのだ。
 それに、竜也を倒すのに苦労はしない。十握剣はあくまでも攻撃のためのものだ。防御面において人の領域を出ない相手など、瞬殺できる。
 この提案も先制攻撃しなかったのも、『薄暮』に隠れた戦力を警戒するがゆえなのだ。
 竜也が笑った。
「いいぜ。出てきてくれよ」
 空が割れた。
 開いた空は、黄昏。
 その中から出てきたのは、一人だけだった。
「後ろの八岐大蛇を一緒に守るために、あなたの定常防護の力は半減する……今度は決して、かすり傷では済まない」
 彼女が告げる。
 豪奢な感のある巫女装束を纏った、髪の長い人物であることは一護にも分かった。
「そしてあなたの攻撃は私がすべて防ぐ。第九十七代スサノオは歴代屈指、もしかすれば随一。倒すことは生半可でできることではない」
 彼女がさらに告げる。
 そして『薄暮』は閉じ、その顔が見えるようになった。
 十五、六といったところだろうか。
 とても美しい少女だ。
 歓喜にも似た表情を浮かべている。
「直接会うの、二千年ぶりかしら……?」
「そう……そういうこと……」
 氷雨のその声に、一護は耳を疑った。
 いつも微笑んでいるような、敵に対してさえ艶やかに振舞うような氷雨の声だとは信じられない。
 ぞっとするほど、冷たかった。
 後ろにいる一護には見えないが、声だけではない。緋の双眸はどこまでも冷ややかに細く、少女の横の竜也が思わず目を逸らしたほどだ。
「おかしいとは思っていたのです……十握剣は対するその度に消滅させてきたというのに、いつまで経っても荒水波が所持したまま……」
 虹彩が淡く輝き、少女を消失させようとする。
 だが少女も瞬時に防御呪を構成、それに耐える。
「何度でも頂いて来たの。人間にとっては手どころか視線すら届かぬ境地に在る十握剣も、我が君にとっては模造品、粘土細工ですもの」
 少女の視線も極めて険しい。それでいて、口許には堪え切れぬが如き笑み。
 そして、無尽蔵に溢れ出るかのような霊気が装束をはためかせている。
「この場この時こそ決戦場……今度こそ、怨敵には滅びてもらうわ」
 少女の声は殺意に満ち満ちている。
 氷雨は、すぐには応えなかった。
 それでも己の内から溢れ出そうとするものを抑えようとして、やはり抑えきることはできない。
「……未知を恐れ、事実を知ろうともせず、安易な力に恭順し、騙まし討ちの手伝いすらした……」
 低く、氷雨は語る。
「許しがたいけれど、それは許してもよかった……」
 低くはあっても、それは情の籠もった声。
「事実を改竄し、都合のいい歴史を作り上げ、大蛇さまを初め数多の地祇たちをも貶めたこと、それだって許してもよかった……」
 人は未知を恐れるもの、無知は必ずしも罪ではない。歴史は勝者が作るもの、事実は過去に埋もれる。
 それはひとつの自然な在り方なのだ。
 だから、構わないと氷雨は告げる。
「……けれど」
 そこで初めて、怒りが含まれた。
「またもわたくしの許から大蛇さまを連れ去ろうというのね……?」
 艶やかな長い黒髪がふわりと揺れ、緋の虹彩の輝きが増す。
 しかし少女は恐れるでもない。むしろ笑い声すらあげてみせた。
「それが我が君の望みであり、私の望みだもの」
 氷雨には、少女の思いは分からないでもなかった。
 そうだろうとは思えた。
 だからこそ、完全に相容れぬ敵となるのだ。
 祈りなどしない。この手で切り拓くのだ。
「そう……いいでしょう。身の程を知るのね、櫛名田くしなだ……」
 氷雨の乾いた囁きとともに、戦いは始まった。





 竜也が剣を片手に迫る。
 早い。
 とてつもなく早い。
 まるで時を盗みでもしたかのように、既にそこにいて斬撃を放ち終わっている。
 今までの、いかなる刺客の比でもなかった。
 一護には何も見えないに等しい。
 ただ気配だけはある。濃厚な、殺そうとする気配だけは。
 風圧すら感じる。尾骨の辺りがむず痒い。
 死を感じているのかもしれない。
 一護は動かない。力を抜いて突っ立っている。
 風を感じても、脂汗が流れても、死んだと思っても、ただ突っ立っている。
 ほとんど密着するくらいの距離にいる氷雨を感じながら、すべてを任せている。
 気にしない。
 何も気にしない。
 それが、信じるということだと思って。
 氷雨も何もしていないわけではない。ほとんど位置すら動かせぬ状況で二人分の守りを、十握剣に対して素手で行っている。
 守りの隙を見て神の領域の力を行使してくる櫛名田の術を片手間に破り、緋の邪眼は竜也と櫛名田へと折を見て行使。
 非常識の桁を幾つ越えているのかさえ分からぬ力量である。
 しかし、一進一退ではない。お互いに、ひとつたりとも進みも退きもしていない。
 均衡を破ろうとしたのは、櫛名田だった。
「八岐大蛇!」
 一護へと呼びかけてくる。
 一護は戦いが始まって初めて、彼女のことを考えた。
 氷雨は櫛名田と呼んだ。
 櫛名田姫、八岐大蛇が倒されることと引き換えに素戔鳴尊の妻となった女性。
 二千年ぶりと言っていた。
 おそらくは当人。神との係わりのために神話には神として記されたのであろう人物。
 事実は、巫女。氷雨が八岐大蛇の巫女であるのと同様の、素戔鳴尊の巫女。
 一護はそう推測した。
 櫛名田が続けて告げる。
「何を勘違いしているのですか、何の力も振るえるわけでもないのに、何か特別なものにでもなったつもりですか?」
 それは正鵠ではあった。
 事実、一護は何ができるわけでもない。こうしてただ守られているだけだ。
「下らぬ特権意識など捨てなさい。あなたはその女に祭り上げられているだけなのです」
 櫛名田の言葉の群れに、一方氷雨は口を挟まない。
 挟めぬほど余裕がないというわけではない。
 それでも挟まない。
「そもそもその女が見ているのは、あなたなどではない。容姿も人格も能力も、何も必要としていない」
 櫛名田の言葉は止まらない。
 調べていたのかもしれないし、観察してきたのかもしれない。
 滔々と、糾弾するように、諭すように告げる。
「その女があなたの名を呼んだことが、一度でもありますか?」
 ない。
 一度たりとも、ない。
 最初からずっと、必ず「大蛇さま」だった。
 氷雨は仕えるべき神である八岐大蛇を求め、ずっと生きてきたのだ。
 そう、ずっと。
 一護は櫛名田を見つめ、言った。
「問題ないやん」
 一言。
 世間話の一環のようなあっけなさで。
 傲慢だといわれたことにも肯定。
 さらにもう一言だけ付け加える。
「僕が八岐大蛇なんやろ?」
 惑いがまったくなかったわけではなかった。
 それでも、口にしたことは本気だった。
 一護は氷雨を信じている。当初よりすべてが偽りである可能性すら知った、その上で信じている。
 櫛名田の表情が凍りついた。
 対して、笑い転げるような勢いで高らかに笑ったのは竜也だ。
「小っちぇえことは気にしねえって? 気に入ったぜ八岐大蛇、一世一代の山場にゃそうでなくちゃな!」
 同時に一護へと神速で突き出された剣の腹を押し、氷雨が逸らす。
「大蛇さま……」
 喜びで編まれた呟き。
 一護の選択に口を挟むまいと、我慢していたのが報われて。
 続けて、櫛名田と竜也に向け、告げる。
 二人の力量は読み取った。少々無理をきかせ、屠りにかかろうと決める。
「覚悟は……よろしいですね?」
「あなた方のね」
 だが櫛名田は、笑みを浮かべた。
 その笑みの不吉さに、氷雨は過去を思い出す。
 騙まし討ち。
 今、この状況でするならば、ひとつだ。
 しかし気付くのはほんの少しだけ遅かった。
 一護の足元の地が跳ねた。
 山であるからには、山神がいる。山神の存在は氷雨も感じ取っていた。
 だが、山神は地祇だ。だから味方ではなくとも第三者として受け取っていた。
 調略されて向こうの戦力になっていたと分かってさえいれば防げたが、もう間に合わない。
 一護は横へと跳ね飛ばされた。
 予め打ち合わせてあったのだろう、竜也が神速で追ってくる。
 地に打ち付けられ、転がり、膝をついて立ち上がろうとしながら顔を上げた一護の目に映ったのは、自分を殺そうとする切先。
 湧き出してくるものが恐怖なのか何なのか、それすらも定かではない。
 ただ、力を望んだ。
 自分が死ねば氷雨が悲しむのだと、そう思って。
 強く。
 強く。
 どこまでも強く。
 鼓動の一度にも満たぬ時間。
 それでも引き伸ばされ、長く長く感じる。
 その中で強く思う。
 強く思って。
 それだけだ。
 力が湧き出したりはしない。
 何かを感じたりもしない。
 目の前の死をもたらすものが無慈悲に近付いてくる、そのことだけが事実。
 そして、朱いものが広がった。






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