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八の字の巣穴

八の字の巣穴

異邦




 思い起こす。
『お止しなさいませ』
 困ったように微笑む様も艶やかに、愁えげに告げる声すらも艶然と匂う。
 そして、緋の双眸は残酷なまでに優しく。
『わたくしは万に一つであってもと、取り戻しに参っただけにございますれば。残念ながら模造品ですらございませんでしたけれど』
 その手には、置いて来たはずの神剣。
 紛うことなき神器であるそれに皹が入り、彼女のたおやかな手の中で音もなく崩れ去る。
『皇子の得た名はとても強い言霊にございましょう。けれどそれが最後の武器。それをも失いたいと仰せであるのなら』
 冷たく張り詰めた大気の中、彼女は白大猪を庇うかのように進み出た。
『伊吹の御神に代わり、わたくしがお相手致しましょう』

 自分の得た最強の名は人々の畏怖であり、恐怖であり、希望であり、憧憬であった。
 強き者によって名づけられ、その名を知るすべての者が抱く思いによって形作られた絶大な呪力を、皇子という器は受け止め、加護にも似た力としていたのだ。
 そしてその力は、最強と引き換えにして致死を病に留め、自分を逃したのである。











 目覚めは吐き気とともに。
 だというのに意識が戻った瞬間にそれを堪えて晶は跳ね起きた。
 しかしいかに精神が戦いに備えようとも、身体は限界を訴えていた。
 目が眩み、為すすべもなく布団の上に倒れ込む。
 あるいはそのまま、また眠りに落ちていたのかもしれない。
 意識に漠然と陽の匂いが満ちて、その中にたゆたううちに、いつしか此処は何処だろうと思って覚醒する。
 だが、目覚めるとやはり吐き気が襲って来るのだ。胸には不安が満ち、頬は冷たく、動悸は激しくなる。
 これは淡路島に入ってからずっと続いている不安感が膨れ上がっているのだと、晶は自覚した。
 それでも今度こそしかと身を起こす。
 和室だ。自分が寝かせられている布団以外には本当に何もないが、障子は目に痛いほど白く、明るい。
「僕は……」
 呟く。
 続けようとした言葉は無意識が排除する。
 幼い頃ならばまだしも、今となっては自分が負けるなど、あってはならないことだ。
 四肢を伸ばし、確認する。大丈夫だ、どこにも痛みはない。なぜか服の脇腹が破れているが、これはかわし切れなかったのか。
 ぎり、と奥歯を噛み締めた。
「……馬鹿な」
 記憶と食い違う。脇腹はあの生成りの鋼棒で抉られた覚えがある。最後の方はまともに立てていなかった気もする。
 少なくとも、無傷ではなかったはずだ。
 しかし記憶は曖昧で、どうにも思い出せない。
「何が起きた? そもそもここはどこだ……?」
 立ち上がるとまたくらりと来たが今度は耐え、のろのろと光に向って歩き出す。
 一方で不快感はまったく治まっていない。むしろ程度は激しくなっている。
「これは……」
 そして、激しくなっったからこそ判ることもあった。
「恐怖、なのか……?」
 障子を開け放つ。瞳を灼く白光にしばし目をしばたたかせ、やがて視界に飛び込んで来たのは、豊かな緑だった。
 この屋敷は丘か小山の上にでも建てられているのか、庭の向こうにはどこまでも広々と続く大草原が見下ろせた。
 右手には霞を纏う山だ。蒼く鋭く、人を拒絶するかのように雄々しく聳え立っている。
「……ありえない。本当にどこなんだ、ここは」
 淡路島にこれほど広い草原があるとは考えづらい。本州か四国に連れて来られたのかとも思ったが、その可能性も薄そうだ。田畑ならばともかく、大草原なのである。
 命が、遠目にすら満ちていた。
 惹きつけられる。どこまでも青々とした世界は、不思議なほどに意識を吸い込む。おそらく古には、世界はこうであったのだろうと思わせてならない。
 感傷だと思う。なぜこうも心が動かされるのだろうか。
 その疑問が晴らされるだけの時はなかった。
「よお、目が覚めたのか」
 白と緋。いつの間にそこにいたのだろう、巫女装束に身を包んだ少女が庭からこちらを見て朗らかに笑った。
 日焼けした肌、少年めいた雰囲気。しかし少女であることは疑いようもない繊細で可憐な容貌。
 無論のこと、見覚えはある。二度と会うことはあるまいと思っていたのだが。
「また会ったじゃねえか。傷は……ま、大丈夫だろ、紅葉が治したし」
「……一体、何がどうなってる? 説明してくれ」
 場所、状況、それから正体。訊くべきことは山ほどある。
 胸に浮かぶのは警戒だ。地上最強を目指す女などと、そんな戯言で流しておける状況ではない。
 だが少女は屈託なく告げる。
「お前がぶっ倒れてて、杏姉ぇが拾って来て、紅葉が治した。それだけだよ。後は何も知らねえ」
 それは昨日と同じく裏表をまったく感じさせない笑顔で。
 だから晶は苛立った。
「証拠がないな」
「めんどくせえ奴だな。男は疑り深いよりちょっとアホなくらいが一般的にはいいって千草姉ぇも言ってたぞ? ってぇか、色々訊きたいのはこっちなんだけどな」
「……交換条件だ」
 こんな奴は知らない。天地院で接する輩は必ず裏に何かを持っている。無条件に信じられる人間などいないと晶は思っている。
「もう一度訊く。君は誰だ?」
「俺は如月若葉ってんだ。お前は?」
 警戒をあからさまに滲ませたはずなのに、返って来たのは真っ直ぐな視線。
 それはどうにも抗いがたい圧力に感じられて、気がつけば晶も名乗り返していた。
「……立花晶だ」





 立花家は遠く父祖を辿れば橘氏に連なると晶は聞いている。
 橘氏と言えば源平藤橘のひとつであり、平安時代中期までは代々公卿を輩出した家柄だ。
 権勢が衰えて後、地方に土着して武士となった子孫の中に晶の祖先はいる。退魔の業を伝えながら、やがて響きはそのままに字だけを変えて今に至るのだと。
 あくまでも聞かされた話だ。真偽のほどは定かではない。
 晶自身も家柄には何の興味も持ってはいなかった。
 だが。
「あり得ない話では……ないと思います……」
 若葉の背に半ば隠れるようにして、紅葉が囁くように言う。
非時果実ときじくのかくのこのみのように、橘は永遠を象徴します……その名は力となって代々受け継がれたとしても、不思議ではないと思います……」
 なんとも妙なことになって来たと晶は思う。
 燦々と降り注ぐ日差しの下、縁側で問われるがままの世間話。周囲にいるのは若葉に紅葉、そして千草だ。
 倒すべき敵を野放しにしたままであるというのに実に悠長な、この状況を甘んじて受けている。
 無論、焦る気持ちはある。しかし自分のものとは思えぬほどの身体の重さを否定出来ない。このままでは力を十全に発揮することは不可能だ。
 それでも戦わねばならぬときもあるだろうが、今はそうではない。少なくとも無理を利かせることの出来る領域まで調子を持って行かなければ、あの生成りに対しては自殺行為となるだろう。
 それに、無理に行こうとしても果たして出られるものだろうか。あまりにも自然に満ちたこの広大な景色はやはり淡路島のものではない。おそらくは異界なのだと推察していた。
 異界に入った経験ならばある。これほどのものではなかったとしても。
「さてさて、口が柔らかくなったところで質問はあるかな、美少年クン?」
 若葉や紅葉とは逆隣に腰掛けた千草が顔を覗き込みながらにんまりと笑う。
 緩んだ目許が優しそうではあるが、その中にほんのりと嗜虐の色。何か機会があればからかう気でいるのだろう。
 晶は容姿のせいでこういった形のちょっかいを出されることにも慣れてはいたのだが、今回は殊のほかやり難かった。
「どうしたの?」
 巫女装束とは神に対するための、人ならざるものに接するためのものだ。普通であれば特別な出で立ちである。
 しかし、千草たちの装いは何の特殊性も感じさせない。まさに普段着であるとしか思えぬほどにこなれて、だからこそ何の違和感もなくそれぞれの固有の印象を強く顕している。
 千草の肩の細さや、あからさまに存在感を醸す胸元の急峻な曲線は、それでさえ包み隠されて印象を薄めているであろうというのに堪らぬほど蠱惑的だった。
 天才であるという周囲からの期待を受け、ほぼ退魔師としてだけ育てられてきた晶にしても、年頃の少年であることは間違いのない事実だ。決して異性に興味がないわけではないのである。
「……僕が訊くべきことは二つだ」
 目は合わせない。遠くを見たままで問う。
「この場所は何なんだ? そして君たちは何者だ?」
「あたしたちのことならさっき説明したと思うんだけど」
「信じろって言うのか、神話上の登場人物の姉だなんて戯言を?」
 無茶苦茶である。地上最強を目指す女だと誤魔化される方がずっとましだ。
 しかし千草はきゃらきゃらと笑うばかりだ。
「だってほんとのことだもの。ちなみにこの世界は大蛇様……八岐大蛇の世界ね。根の国、常世のひとつと言うべきかしら」
「真面目に答える気がないのなら最初からそう言え」
 晶はどちらも信じない。
 信じられるわけがない。そんなものが現代に存在しているなど、聞いたこともないのだ。
「うぅん、そんなに無理に隠してるってほどじゃないはずなんだけど、つまり天地院としては徹底的にガセだと思ってるのかな。まあいいわ。重要なのはそんなことじゃないし」
 千草は自らのくちびるに人差し指を触れさせ、立ち上がる。そしてポニーテイルに結った長い黒髪を躍らせ、くるりと振り返ると、ぐっと身をかがめて晶の顔を覗き込んで来た。
「それで、君の今回の仕事は何なのかな?」
 甘い匂い。
 前髪の触れそうな距離で見つめて来る瞳も甘い。
 だが、晶も惑わされはしなかった。あくまでも、やり難いだけだ。
「教える必要はない」
 きっぱりと告げれば、あら残念と千草は身を起こしてにこりと笑う。
「じゃあ……そうね、交渉といきましょう」
「交渉?」
「そう、あたしたちは君の目的について、絶対にとは言わないけどできれば教えてもらいたいの。一体何が起こっているのか、それは本来傍観していいことなのかどうか」
 その台詞に、晶は若葉の口にしていたことを思い出していた。平和を乱そうというのであれば止め、逆なのであれば自分たちの敵でもある、とそう言っていたはずだ。
「交渉ってことは僕にも得るものがあるはずだが、それは一体何になる?」
 正直なところ、交渉事は得意ではない。そういったものは大抵上が行ってくれていた。晶はただ標的を葬り去る刃であればよかったのだ。
 あるいは、その刃が交渉材料になるのであれば経験は幾度かあるが、敵ではないどころか助けてくれたはずの相手にまさか切先は突きつけられない。逆にその事実を向こうの材料にされそうである。
 ところが予想は至極あっさりと裏切られた。
「あたしたちが解決するか、せめて手伝うわ」
「傍観していい事態でもか?」
「今の体調だと君だけじゃ目的は果たせないでしょ? そんな簡単なものならあんな傷だらけで倒れてない。そういう意味では傍観していい事態というのはないってことになるわね」
 何ともあっけらかんと千草は告げ、どこか悪戯っぽい表情で続ける。
「もちろん、君たちが悪いと判断した場合は君を止めるためにあたしたちも付いて行くというわけ。ここに引き留めとくだけでもいいかもしれないけどね」
 晶は少し迷った。言っていることが本当であれば、止められることはまずあり得ない。標的は自らを鬼と化そうとしている術者であり、既に十名以上の死傷者を出しているのだ。
 しかし、彼女たちの正体をどうにも信じられない。
 力はあるのだろう。その証拠に、自分が受けていたはずの負傷が傷跡すら残されていない。即効性のある治癒術というものは体系を問わず極めて難度の高いものである。
 それに加え、世界の霊的な側面についても当然のように知っていて、こんな場所に住んでいる。
 間違いなく、常人ではありえない。戦力としては確かに役に立つのかもしれない。
 それでも迷うのだ。騙されてはいまいかという疑念、巻き込んでもよいのかという躊躇、自分独りで解決すべきだという矜持。胸の内で混ざり合い、答えを示さない。
 その混迷のうちにもう一度、生成りに対する認識を改める。
 最初はただ淡路島に逃げ込んだのかと思っていた。中国地方は荒水波の目が密に存在しているから不思議ではないと思っていた。
 だが、おかしいのだ。昨日傷を治している間に生成りは逃げることができたはずだというのに、それどころか向こうから襲って来た。
 淡路島自体に用があるのか、あるいは自分に用があるのか。あの憎しみの様子を思い返せば後者の方が可能性は高いだろうか。
「もう、そんなに怪しい?」
「怪しいな」
 晶は深い溜息をついた。答えは示されずとも、無理にでも結論を出す。
「だがそれ以上に、巻き込むつもりはない。だから悪いが何も教えられない……と言ったらどうする?」
「仕方がないから独自に動くわ」
 相変わらず目許を甘く緩め、しかしくちびるに浮かんだ笑みはどこか不敵に、千草は小首を傾げる。
「あたしたちが片付けるまで、君もここから出してあげない……って言ったらどうする?」
 それは晶の真似のつもりなのだろう、からかうような響きがあった。
「……だからそれよりは一緒に連れて行けと言いたいわけか」
「協力し合うのが、お互いにとって一番無難な選択だと思うわ。あるいは、怪しいと思うのなら監視が要るんじゃないかしら?」
 晶は無言で口許に苦さを浮かべた。
 立場自体がそもそも対等ではないということに気付いたのだ。行動すると彼女たちが決定している以上、自分が独りで戦いに行こうとするならば、彼女たちに行動させないようにした上で、この世界をどうにかして脱出しなければならない。
 しかし、まさか一応は恩のある相手を力づくで叩きのめすなどという真似は晶にはできない。それならまだ提案に乗った方がましだと思える。
 それでも最後に、正面から睨みつけて脅してみた。
「死ぬぞ?」
 あまり様にはなっていないが、響いた声は充分に不吉な音をしている。
 だが、千草は微笑んだ。
「そうね、そういうこともあるかもしれないわ」
 ただの笑みではない、不思議な表情だ。
 我が意を得たりと、喜んでいるかのような。
「だって、生きてるんだもの」






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