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八の字の巣穴

八の字の巣穴

第四話「繊手」

 目の前の異形へと、宗一郎は霊槍オオミナチを向ける。
 それは霊具と呼ばれるものであり、厳密には<武具>ではなく<武具>を模して人が造り上げたものだ。
 その力は第五階位の<武具>にも届かないが、誰にでも扱うことができるし受ける業もごく軽い。
 宗一郎にとって、霊具の業などあって無きが如しだ。
 右手を前、左手を後ろに、穂先を水平よりもやや上げた基本の構えで怪異を見据える。
 夜の中にその身体がさらなる黒の中に隠れて見えるのは錯覚ではない。
 <武具>は使用者に<力>を纏わせる。
 あるいは人間離れした身体能力、あるいは緩衝障壁、そして使用者自身には為しえぬはずの技をすら使わせるのだ。
 霊具もそれを小なりとはいえ再現できる。
 宗一郎は無言で穂先を怪異へと突き出した。
 対峙している怪異は土気色の肌の人型だった。
 人の飢えへの恐れをもって顕在化したとされている「餓鬼」だ。餓鬼そのものへの人の想念が餓鬼を生み出すのではなく、飢えへの幻想と観念が餓鬼として顕現する。
 前者の影響がまったくないというわけでもないが、後者の影響には到底及ぶべくもない。
 古においては小さく痩せ細っているのに腹だけは突き出しているというそんな姿だったのに、現代日本においては背も成人並みでただ単にどこもかしこも痩せているだけだ。
 だが、その動きは存外に素早い。
 穂先は空を突き、ひらりとかわした餓鬼が宗一郎に掴みかかる。
「……っ!」
 宗一郎は身体が流れそうになるのを何とか踏みとどまり、槍をくるりと返して柄で餓鬼を薙ぎ払った。
 こちらは見事に餓鬼の腹へと命中するが、大した打撃にはなっていない。
 餓鬼は少し後ろへとたたらを踏んで、体勢を立て直して再び向かってくる。
 それでもそれは宗一郎にとっても構え直す時間となった。
 再び穂先を餓鬼へと向け、基本の構えで迎え撃つ。
 踏み出しとともに突き出す。
 が、それはまたもやかわされた。
 そして今度は槍の返しよりも早く餓鬼が懐へと入り込んできた。
 後退しようとするのは遅れた。
 振り回された餓鬼の腕が宗一郎の左肩を殴打する。
「ぐ……」
 声が漏れたが、<力>による緩衝と打点をずらす技巧によって、痛みこそ強いものの実質的な被害は少ない。
「これでっ……」
 痛みを切り捨てながら、柄で餓鬼の足を払う。
 が、餓鬼は払われる前に自ら跳んでむしゃぶりついてきた。
 宗一郎は反射的に身を沈めつつ、柄を上へと跳ね上げた。
 霊具とはいえ、普通の武具と比べるならばやはり格が違う。
 餓鬼が中空に浮いた。
 宗一郎は一度側方へと飛び退き、餓鬼が地面に降り立つ前に基本の姿勢から一気に貫いた。
 さすがに空中で身をかわす術は餓鬼も持ち合わせていなかったようだ。
 赤い体液が飛び散る。
それを血と呼んでいいものかどうかは迷うところだ。地面に触れる前に消えてしまう。
 餓鬼は地面に転がったもののまだ滅びてはいなかったが、宗一郎はこの機を逃さなかった。かわされにくいうちに、何度も突く。
 止めを刺せたのは四度ほど突いた後だった。
 大きく息をつく宗一郎の目の前で、想念より顕現した餓鬼は世界へと融けて還ってゆく。
「おめでとうございます」
 後ろでずっと見守っていただけの緋雪がいつもの無表情にも見える澄まし顔で言った。
「けれど、突くときに少々力む傾向が抜けていません。だからあれほどかわされるのではないかと」
「いや、まあ……そういう話はまた後で」
 宗一郎は緋雪を制しつつ、朱鷺子が戦っている方を見た。
 人のない交差点に、今は二十体ほどの餓鬼がいる。
 怪異というものは、顕現するときに標的となる者以外を可能な限り排除する一種の結界とともに現れる。古より、標的とされた者以外の人影がなくなることが多いのはそのせいだ。
 <武具>は所有者をその結界から外してもくれる。
 そもそもこの戦いは奇妙だった。
 まずはとりあえず遥が昨夜通った道を調べてみようと来てみたら、何の脈絡もなく餓鬼が現れた。向こうにしてみれば何か意味があるのかもしれないが、少なくとも自分たちから見れば何の脈絡もなく現れた。
 しかも十字路の中央の空間から染み出すように、次から次へとぞろぞろと。
 是非もなく迎撃しつつ、何が起こっているのかを探ろうとしているのだが。
 実のところ、まだ増えているのだ。
 朱鷺子がいなかったら、今頃何体になっていたことやら。
 巫女装束を纏った朱鷺子を包んでいるのは朱い輝きだ。
 <力>の顕れたるこの輝きは、持ち主によって色が変わる。魂の色なのだとも言われている。
 輝きは隠密性を失わせるので、当人にとってはむしろ邪魔なだけではあるのだが、これも力の代償なのかもしれない。
 ちなみに宗一郎の場合は黒いので輝きに見えないだけだ。
 朱鷺子は朱い雷光の如く餓鬼の間を駆ける。
 懐に入り込んだかと思うと接触距離からの掌打の一撃で餓鬼の内部を崩壊させ、後ろから掴みかかってきた一体の腕を振り返りもせずにとってへし折りながらさらなる一体へ向かって投げ捨てる。重なり崩れたところへ追いつき、首を拳で打ち抜いて止めを刺す。基本的には一体しか相手にせぬように立ち回り、そして自ら攻勢に出た場合は一撃必殺。
 右の掌から前腕にかけて巻きつけられた材質不明の拳帯が、朱鷺子の<武具>だ。
 第四階位、<灯火の拳帯>ラフェル=ルフィアドネ。
 朱鷺子は極めて厳しい武術の修練と小柄ながらもそれに耐えうる頑健な身体、そして紛うことなき武への天賦の才を有する徒手武術の遣い手だ。
 加えて、<力>を過剰解放さえしなければ<武具>を使いながら三時間以上戦い続けることすら出来る。
 餓鬼など敵にすらならないと言っても過言ではない。
 その姿に宗一郎は見惚れる。
 自分が加わってもほとんど足しになどならぬであろう圧倒的な強さは幻想的ですらある。
 が、緋雪がどことなく冷ややかに聞こえる口調で名を呼んだ。
「宗一郎」
「ああ」
 宗一郎は朱鷺子の方へと駆ける。
 自分では一体を相手しているのが精一杯だが、無意味ではないだろう。
 朱鷺子が餓鬼を屠る速度は凄まじいが、餓鬼が現れる速度はそれにほんの少し劣る程度でしかない。
 なんとか屠りつくして餓鬼の現れる場所まで辿り着きたいところだった。





「おやおや……」
 博司は呟いた。
 それは偶然だった。
 実戦を前提とした武術系の修練とは、屋外で、しかも様々な状況を想定して行うものである。今日は海の方まで出て砂浜で行っていた。
 主に相手となるのは紗矢香だ。厳密に言うならば、博司が紗矢香の鍛錬を行っているという意味合いになるだろう。
 実力からすれば、事実上そうなってしまっている。
 とは言えど、その剛力を生かす戦い方を主とする博司にとって得るものはある。速度主体となる紗矢香を捉えるのは存外に難しいのだ。
 ともあれ、今日もそんな修練のその帰りだった。
「戦っ……」
「戦っているな」
 口を開きかけた紗矢香の台詞を奪う形でイセリアが言う。
 紗矢香がきっ、と睨みつける。
「見れば判ることをいちいち口にしないでよ、武具!」
 が、イセリアは無視して博司を見下ろした。
「常として人払いもなされているようだが、どうする?」
「そりゃ、もちろん加勢する」
 博司はのしのしと足音のしそうな足取りで歩を進める。
 と、慌てたように紗矢香が前に回りこんだ。
「博司様、あのようなものども、博司様が加勢するまでもありません。あたしが……」
「いや、数が多いからな、紗矢香には向かない」
 博司はにやりと笑って言う。
 自分の欠点を指摘された思いの紗矢香は言葉に詰まった。
 しかし次にすべきことを思い出して携帯していた大きな鞄を探り始める。
 博司は歩きながら右手を出した。
「紗矢香、サミダレを」
「はい、博司様。ここに」
 阿吽の呼吸で紗矢香がその手に斧槍を手渡す。
 霊具サミダレを握り締めた博司の全身から光が吹き出した。
 博司のまなざしが一気に鋭くなる。
「おおおっ!」
 それもあるいは<力>の産物なのだろうか、地響きを立てて博司は駆け出した。
 ぐんぐん十字路が近付いてくる。
 餓鬼の一体がこちらに気付き、振り返った。
 向かってくるそれを斧部で肩から股まで叩き切り、博司は戦いに加わった。
 朱鷺子とも宗一郎とも緋雪とも一回ずつ眼が合う。
 誰も何も言わなかった。
 が、朱鷺子が苛烈な攻勢に出た。
 博司もそれに合わせ、次なる標的を定める。
 問答無用に腹部を貫き、放り上げて空中で叩き切る。
 餓鬼は為す術もなく真っ二つになった。
 だが、他の餓鬼のうち二体がその隙に背後から掴みかかってくる。
 一体は石突で弾き飛ばしたが、もう一体の拳は博司を殴打した。
 しかし博司には何の痛痒もない。鍛え上げられた筋肉と衝撃を吸収する脂肪に加えて<力>による緩衝まである今、この程度の打撃など蚊が刺したほどですらない。痒いだけ蚊の方が迷惑だ。
 振り返りざまにその餓鬼を蹴り飛ばし、よろけたところを仕留める。
 宗一郎が一体と苦闘を繰り広げている間に餓鬼の数はどんどん減ってゆき、ようやく止めを刺した頃には、すでにそれが最後の一体となっていたのだった。





「何もない……か?」
 餓鬼が出現していた空間のあたりをうろうろとした後で、宗一郎は緋雪を振り返った。
 目の前の餓鬼が全滅してからは、それ以上現れる様子はなかった。
 それどころか、すでに異様な気も結界も消失してしまっている。
 既に普通の十字路に戻っている。
「そのようですね」
 緋雪もいつもの無表情にも見える澄まし顔で頷いた。
 怪異に関して感じ取ることは、<武具>そのものへの干渉に長けている者ほど得意とする。朱鷺子よりも宗一郎の方が、こういったものは得意だ。
「ふむ、そうか……」
 朱鷺子は少し残念そうな顔をしたが、すぐに気を取り直して博司を振り返った。
 紗矢香とイセリアも追いついて来ている。
「助かった、礼を言おう」
「ほんとは必要なかったみたいではあったけどな」
 サミダレを紗矢香に渡しつつ、博司は笑った。
 朱鷺子は、そのことについての直接の答えは返さなかった。
「何が潜んでいるやも判らんからな、戦力は多いに越したことはない」
「ふむ……」
 博司の視線が宗一郎と合った。
 お互いの存在は知っていたが、話したことはない。
 理由は至極単純で、博司がほとんど学校にいないために、同じ時間において同じ場所にいることがほとんどないからである。
「や」
 宗一郎が軽く右手を挙げる。
「やあ」
 博司も右手を挙げ返す。
 奇妙な構図だった。
 次に口を開いたのは博司の方だった。
「あんまり喋らないんだな」
「……いや、朱鷺子がおると僕の分まで喋るから」
 微妙に口の右端を吊り上げ、宗一郎は答える。
 嘘ではないが、初対面の相手は苦手だという理由もある。
 理由はさらにもうひとつあるが。
「それではまるで私がお喋りのようだな、宗?」
 朱鷺子が振り返って大きく見上げながら不服の意を表す。
 宗一郎はこめかみを掻いた。
「いや、そういうつもりやないんやけど……」
「そう聞こえるのだ、馬鹿者め……」
 朱鷺子は珍しくも拗ねたように眉を寄せ、しかしその表情はすぐに消えた。
 再び博司へと向き直る。
「ともあれ、聞きたいならば説明をするが……聞くか?」
 説明をしなければならないわけではないが、急いでいるのでもなければ簡単な説明くらいはしておくのが礼儀というものである。
 朱鷺子はそのあたりのことを律儀に守る性質だ。
 博司はしばし考え込んでいたが、やがてゆっくりと頷いた。
「ああ、聞いておく」





 何か手伝えることがあれば呼んでくれ、と言い残した博司たちと別れ、今日はもうやめておこうと朱鷺子とも別れての帰り道。
 宗一郎と緋雪は並んで帰っていた。
 正確には、緋雪がほんの少しだけ後ろになっている。
 宗一郎は難しい顔。
 緋雪が問うた。
「オーキスのことですか? 事態が事態ですから仕方ありませんが」
「あ、いや、ちゃうんやけど……って、なんで『ダークセラフィム』読んだらあかんわけ?」
 思い出した宗一郎が逆に尋ねる。
 今週号を読んでいないのは、緋雪にひったくられたからなのである。
 緋雪はやはりいつもの無表情にも見える澄まし顔できっぱりと言った。
「わたしが読んで欲しくないからです。それよりも、オーキスではないとすれば何なのですか?」
「ん、ああ……」
 疑問を無理矢理封じ込められた宗一郎は、迷うように応える。
「……なんか、祖父江君にくっ付いてた女の子に睨まれよった気がするんやけど……」
 話している間中ずっと、小柄な少女にこちら三人を睨まれていた気がする。
 反対方向の金髪の女性も探るような視線を向けていたのだが、少女の方は妙に気合が籠っていた。
「警戒していたのでしょう」
 緋雪が即答したが、宗一郎の疑問は晴れない。
「あんな露骨に?」
 あれは威嚇していたと言ってもいいほどだ。
 少々警戒が過ぎると思う。いかに討滅が家単位を基本とするといっても、排他的というほどではない。
 その宗一郎の考えを読んだかのように、緋雪は告げた。
「勘違いしています、宗一郎。彼女が睨んでいたのはわたしと朱鷺子です。宗一郎は歯牙にもかけられていません」
「歯牙にも、て……」
 あまりにも身もふたもない物言いに宗一郎はこめかみを掻いた。
 が、それならば何だろうと緋雪を振り返る。
 緋雪は無表情にも見える澄まし顔で小首を傾げた。
「分からないのですか、宗一郎?」
 風が彼女の長い黒髪を少しだけ流した。
 非難するような響きを感じ取ることができたのは、誰よりも近しい宗一郎ならではだった。
 す、と緋雪の手が伸ばされた。
 緋雪から言葉以外の行動をとることは少ない。
 伝えたいことがあるのだと、理解する。
 宗一郎はその手をとった。
 すると緋雪は寄り添うように近くに身体を寄せる。
 甘やかな、華の薫り。
 それが彼女自身の匂い。
 人ではない証のひとつ。
 それでも何よりも大事だと思えた女性の薫り。
「緋雪……」
 うるさいほどに早鐘を打つ鼓動を己自身で聞きながら、宗一郎は名を呟く。
 緋雪は吐息のかかるような距離で囁くように告げた。
「これほど近くで触れ合っていても、どこかへ行ってしまわないかと不安になる……一度知ってしまえば、失われることは何よりも怖い……」
 握る手にはほとんど力が込められてはいない。
 黒瞳の奥はどこまでも透明に宗一郎を見上げる。
「宗一郎、あなたは……」
 緋雪の言葉の途中で、たまらなくなって宗一郎は抱きしめた。
「終わりのときまでずっと一緒、やろ?」
「……はい……」
 儚げな吐息が耳をくすぐる。
 それ以降の言葉は宗一郎の耳には聞こえはしなかった。
 宗一郎が感じていたのは、腕の中に納まった華奢な体躯と豊かな胸のやわらかさと、華の薫りと艶やかな長い髪の感触、そして息遣い。
 くちびるだけを動かして緋雪が呟いたことまでを、息遣いから知ることはできなかった。



 渡さない。
 朱鷺子にも遥にも、誰にも渡さない。
 宗一郎はわたしのもの。
 わたしの宗一郎だもの。
 愛することを、愛されることを知ってしまったのだもの。










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