第四十二話「海水浴・其の一」打ち寄せる波。蒼とも碧ともつかぬ海は水平線で青みがかった白い空へと移り、さらに視線を上げてゆけば青みが強まって、中天にはぎらつく太陽。 砂浜には思い思いの水着に身を包んだ人の群れ。 海水浴場とは、そんなものだ。 そんな中、宗一郎は砂浜に敷いたビニールシートに座ってぼんやりと海を眺めていた。 その右斜め後ろには緋雪がいつもの無表情にも見える澄まし顔で座っている。 宗一郎はトランクスタイプの紺の海パンだが、緋雪は巫女装束のままだ。奇妙な感じで目立っている。 が、緋雪は周囲の視線などどこ吹く風で宗一郎を見ている。 宗一郎が深い思考に入っていたりぼぅっとしていたりするのは昔からよくあることではあるが、最近頓に多い。 何故なのかは判っている。しかし緋雪は、それを応援しもしないし止めもしない。 太陽が燦々と降り注ぐ。 潮風が熱い。 海の日を幾日か越えた日付。 夏、真っ盛りだ。 今日、宗一郎は海に来ていた。 遠い親戚筋にここで旅館を営んでいる人がいるのだが、幼い頃から懇意にしていて、夏ごとにここに来ていたものだった。 五年前からは来ることがなかったのだが、なぜか今年は招かれたのである。 正直な気持ちを言えば、海は嫌いではないが海で遊ぶのは特に好きなわけでもない。しかし招かれて行かないのも悪いので、やって来たのだ。 ちなみに、一人ではない。むしろ大所帯ですらある。 「どうした、宗?」 覗き込んできたのは朱鷺子だ。 着ているのは泳ぎやすさのみを追求した競泳用の水着。 かなり小柄ながらも、しっかりと鍛えられた全身は凹凸に富んでいる。実戦に即した柔軟な筋肉ゆえに、引き締まったウェストを始めとする身体のラインはやわらかいが、やはり華奢には見えない。 それでも魅力的な肢体であることは間違いないが。 「いや……夏は暑いなあ、と」 宗一郎は、斜め後ろからかけられ始めた無言の重圧に冷汗をかきながら、とぼけた返事をする。 実のところ、朱鷺子のこの格好は水泳の授業で見慣れていて、今更どうというわけではない。 「夏が寒いのでは、碌なことにならんぞ」 朱鷺子は真顔で返す。 まさにその通りだ。さぞかし厄介な怪異が顕現している可能性が高いということになる。 「ともあれ、不景気な顔で座り込んでいても仕方あるまい。海に浸かるくらいはしてきてはどうだ? 人並み以上には泳げるのだろう?」 「……まあ、なあ……」 宗一郎は立ち上がり、緋雪を振り向いて眼鏡を渡した。 「なら、行って来るわ。荷物番頼む」 「宗一郎」 緋雪はいつもの無表情にも見える澄まし顔で告げた。 「素敵なお土産をお願いします」 「…………善処する」 「じゃん」 「じゃじゃん、なのさ~」 翔子と遥はそれぞれ右手と左手を上げて掌を合わせ、逆の手は各々の腰に当ててポーズをとった。 着けているのは同じデザインの水着。 南国風味溢れる緑系の色彩で描かれた熱帯樹柄のビキニ。腰に巻いたパレオが潮風でふわりと軽やかに揺れる。 少し高さの違う笑顔が、二人ともに眩しい。 「どうかな~?」 「なのさ~」 蠱惑的よりは、圧倒的に爽やかな印象。 二人とも全体的にすらりとした体躯であるせいだろう。胸元の印象の差は大きいが。 三峰遥、姉と対照的なものは非常に多い。 「お揃いにしたんだね」 「……またあんたはそういう詰まらん台詞を言う」 笑って答えた雄介に、翔子はポーズを解除して小さく肩をすくめる。 そして、雄介の隣にいる晃人に視線を移した。 目が合うと、晃人はふい、と逸らした。 翔子の口許でごくわずかに、獲物を見つけた猫の如き笑みが浮かぶ。 「鼻の下伸びてるわよ?」 「気のせいだろ?」 晃人はむすっとした顔で返す。 視線は戻したが、今度は無意識に顔を微妙に背けている。 「照れてるのさ~♪」 「照れてるわよね、どう見ても♪」 無闇矢鱈と楽しそうに頷きあう二人。 雄介が、ぽんと晃人の肩に手を置いた。 「もうこうなったら翔子は性質悪いから」 「……充分知ってる……」 出会ってから三ヶ月、思い知らされるには充分な期間だ。 言われたことを内心では否定しきれないとき、男は弱い。 苦笑する男二人を他所に、遥と翔子はもう波打ち際に向かっていた。 くるりとこちらを振り向いて、遥が大きく手を振ってくる。 「ほら~! 雄介くんも晃人君も来るのさ~!」 「うん、分かったよ。さあ、行こうか。精一杯楽しまないと」 雄介の言葉は、前半は遥への返事、後半は晃人への台詞。 自然な、実にいい笑顔だ。 「……そうだな」 晃人も頷く。 皆で楽しくやるのは、好きだ。 ゆらゆらと波間に揺れる。 立てば精々腰あたりでしかないが、肩まで浸かってゆらゆら揺れる。 宗一郎はぼんやりと青空を見上げていた。 朱鷺子は宗一郎を海に放り込んだ後、早々にどこかへ行ってしまった。 やることがない。 考え事をするのはどこででもできるので、とりあえず流されないように気をつけてさえいればここでもいいのだが、一応義理は果たしたような気もするので帰ろうかと思う。 となれば、問題は土産なのだが。 何を持って帰れというのだろうか。 困った。 眉を顰めたときのことだった。 「えいっ」 悪戯っぽい声とともに、ぴしゃりと軽く水を顔にかけられた。 「む……」 ざばりと音を立てて宗一郎は立ち上がり、頭を振って水気を払う。 「蓮花か……」 裸眼の宗一郎の視力は相当に悪いが、声だけでも誰なのかは判る。 声のした方を振り返って見えたのは、薄紫の恐らくはワンピースタイプの水着を着ているのであろう、蓮花と思しき人物だった。 距離が2mあればこんなものである。 「……どした?」 訊くのもおかしい気がしたが、他に特に思い浮かばなかったので尋ねてみる。 が、蓮花は少し気弱な声で答えた。 「うん……あたし、こんなに知らない人がいるところで泳ぐの初めてだから……」 「……なるほど」 得心した。 蓮花を侮ってはいけない。 五年前から変わっていなければ、プライヴェートビーチと貸切のプールと私有地の渓流でしか泳いだことがないはずだ。 千堂家の娘が人前に肌を晒すとは何事か、という父親の意向の所為である。 そして変わっていないのだろうとも推測できた。蓮花はこちらに来ても水泳の授業をすべて休んでいる。 だからこういうものは初めての経験で、不安なのだろう。 「けど、ここで水着になっとるんはええんか?」 「あはは…………内緒なの。授業の方は、もう学校に言われちゃってて……」 妥当な問いに、蓮花は苦笑で答えた。 宗一郎も微苦笑を浮かべる。 「相変わらずの困ったおっちゃんやな」 それは温かい文句、ではない。 これも昔と変わっていなければの話なのだが、蓮花の父、千堂聖史は子煩悩などではない。 家のことを第一に考え、それを構成するものとして人間を捉えている。 例えば、決まった人間の前でしか蓮花に水着姿を許さないのは、千堂家息女としての価値を下げないために他ならない。 そのことは宗一郎も、蓮花自身も知っていた。 「……お父様は、ああいう人だから……」 細かな表情は見えないものの、どこか諦めたような暗い響き。 が、蓮花は思い切るようにしてさらに続けた。 「……あのね、宗一郎くん……あたしがあの街に来たのは……」 「僕に恩を売るため、やろ」 「あ……」 あっさりと先に答えられてしまい、言葉を失う。 編入した日に訊かれてあのときは秘密と誤魔化したが、もしかするとあの時点で既に気付かれていたのかもしれない。 「昔もあの手この手で僕を懐柔しようとしよったからな、まあ、一番に浮かんどったわけやけど……的中みたいやな」 宗一郎は先ほどよりも大きな苦笑を浮かべる。 蓮花をわざわざ手助けとして送り込み、あわよくば貸しを作り、少なくとも縁を保っておく。 千堂家息女という立場は重圧にもなる。 そういうことを考えるのが、千堂聖史という男である。 しかし同時に、自分の知らないところで有形無形の力となってくれてきたはずだ。 千堂の名だけでも生半な相手は退け、自分を手元に置こうとするがゆえに、実際の力を振るったこともあるだろう。 それでも、すべて押さえ切れたわけではないのだが。 「まあ、気にすることはないやろ」 宗一郎には特に感慨はない。 知っているし、推測もできるし、慣れてもいる。 蓮花を正面から見て、事も無げに言った。 巴は恨みがましい目で徳教を見上げていた。 パーカーを羽織り、己の身体を抱くようにしている。 涙ぐんですらいるような気がする。 「……徳教さん……」 「どうした、巴? パーカー羽織ってたら折角の水着が勿体無いぞ?」 わざとらしいまでにからからと笑う徳教。 が、あくまでも恨みがましい視線に口許が微妙に引き攣る。 「いや、見せて欲しいかなーと思うわけなんだが。切実に」 「……目が怖いぞ、主……」 突っ込んだのは、紺のワンピースの水着に身を包んだジルだ。 声音にはからかうような色。 「なっ……!?」 見抜かれて、慌てて後ろを向いて顔を捻る徳教。 こうも警戒されたままでは、到底見ることなど出来ない。 がしがしと顔を捏ねて、にやけていたのであろう表情を押し消す。 そしてきりっとした顔を作って再び振り返った。 が、そのまま言葉を失った。 巴が立ち上がってパーカーを脱いでいたのだ。 白のビキニ、それもマイクロビキニと呼ぶべき代物。 肌を覆っている面積が、少ない。背がかなり高いために尚更小さく感じる。 巴は真っ赤な顔で俯いて、膨らみ顕わな胸を抱くようにしている。 「むう……」 主にその胸に目をやりつつ、徳教は唸った。 腕で寄せられてることを考慮しても云々かんぬん、などと思いながら無意識に本心を垂流す。 「なんていうか……服の上からでもなんとなくわかってたけど……すごいな、いろいろと」 「……恥ずかしいからあんまり見ないでほしい……」 勇気を出してパーカーを脱いではみたものの、こうも無遠慮に見られると顔から火が出そうだ。 慌ててまたパーカーを羽織ろうとする。 が、そこで不意に徳教の視線が逸れた。 しかもなぜか、嬉しいのを抑えようとして微妙に滲み出ている表情。 視線の先にいたのは見知った姿だ。 「剣先生と小山殿ですか。奇遇ですね」 朱鷺子だ。 徳教の視線はその胸元に注がれている。 競泳用の水着だからかなり押さえられているのだろうに、しっかりとした確かな膨らみがそこにはある。 こいつは解放されたらどれくらいだろう、という思考が頭を巡ったときだった。 背後からがっしりと肩を捕まえられ、強制的に後ろを向かされた。 「な、何だよ、とも……え……」 「何を見てるんですか?」 巴は実に『いい』笑顔だった。 徳教はその場で凍りつく。 「私にこんな格好させておいて、な・に・を、見てるんですか?」 「そ、そんなに怒らなくても……」 ぼそぼそと窘めようとしてみるが、巴は上から圧迫するように笑顔を近づけてきた。 「三峰さんは私の教え子です。毒牙から守る義務があるんです」 「毒牙って……俺何もしてないんだけど……」 「変な目で見てました」 「いや、それは、その……」 徳教は巴の迫力にどんどん押されて仰け反っていく。 が、そこで朱鷺子が苦笑した。 「ああ、お気になさらず。肌も顕わな装いをしていればそういうこともあるでしょう。私に限れば、多少であれば気にしません」 「でも、三峰さん、こういうことは……」 巴が慌てたように言う。 しかし朱鷺子は、苦笑のままで続けた。 「それ以上の血迷った行動に出るならば、心身ともに再起不能にして差し上げますが」 「ぶっ!?」 とんでもない台詞を聞かされて、徳教は噎せた。 本当にやりかねないし、成し遂げかねない予感がする。 「ともあれ、皆を待たせているので私は失礼します」 ビーチボールを手にした朱鷺子は一礼、何事もなかったかのように立ち去ろうとして、何事か思い出したのかもう一度向き直った。 「そうそう、お二人のことなので口出しは差し出がましいことかとも思いますが……剣先生自身の趣味ではないのであれば、その格好は止した方が良いのではと」 真顔で告げる。 そして、では、と今度こそ立ち去って行った。 徳教と巴が顔を見合わせ、次に巴の水着に視線を落とし、愉快そうに言ったのはジルだった。 「傍目にも相当際どいということだな」 「っ!!?」 巴は真っ赤になってしゃがみ込んだ。 緋雪はじっと座っている。 遠巻きの視線を知りながらも、気にも留めない。 人には成し得ぬ領域の美しさと場にそぐわぬ衣装は人々の興味を大いに集めながらも、同時に醸す問答無用の神秘性が近付かせない。 後々に幻想として人々に語られることはあろうと、今この場においては注目にまで沈静させてしまう。 まるで場違いでありながら、人々の意識に刻み込まれながら、当たり前のように緋雪はそこにいた。 |