第六十二話「潜みしもの」「……ほんまにもう、ちょっと眼ぇ離した隙に……」県道を行き交う自動車のライトに照らされながら、宗一郎は呻くように呟いた。 街の案内をしていたわけなのだが、ちょっと飲み物でも買おうとコンビニエンスストアに入って、出てきたらもういなかったのである。 とは言え、焦りはない。 「どこ行った?」 ずっとそこにいたはずの緋雪に訊く。 緋雪は、つい、と右手で少し離れた路地を指した。 「あそこへ入って行きました」 見ていたのなら止めてくれればよさそうなものだが、これが緋雪である。 宗一郎は頷き、すぐさまそちらに向かった。 意識を集中させると、漠然と感じるものがある。 緋雪も、いつもの無表情にも見える澄まし顔で続いた。 高速の応酬。 否、応酬と呼ぶのは正しくないだろう。 北斗は武士にまともな打撃を与えることはできていなかった。真っ直ぐな拳も蹴りも、ことごとくが捌かれ、絡みつくような密着からの打撃を受けてゆく。 それでも北斗は倒れはしなかった。口許に血を垂らしながら、身体中に痣を作りながら、闘志には一片の翳りもない。 「呆れたもんだな」 武士は苦笑する。 そうでありながら、理解していた。 北斗はぎりぎりのところでまともに入れさせていない。そして、物理的に身体が動かなくなるまでは動き続けるだろうと思える。 これは四肢を砕くしかないか、と判断、しかし苦笑が深くなる。 稀にではあるが、自ら砕いてでも、それを好機として来る者もいる。 それをこそ武士は警戒しているのだ。 このまま打撃を続けていてでも、確実に勝てるだろう。 ただ、時間をかけすぎている。もう誰かに気付かれてしまう可能性は高い。 俊之に由莉香を連れて逃げさせるにも、由莉香が我に返ればその瞬間に逃げられるだろう。 厄介なことだ。 そう思っていたからこそ、さらなる誰かが来ようとしていることに気付いた瞬間に、決めた。 「逃げるぞ」 「へ?」 驚いたのは俊之だ。 どう見ても有利に進めているのに退く意味が判らない。 が、武士は既に鞄を拾って俊之よりも奥に移動していた。 「女は捨てろ、危険だ」 「え?」 俊之はこの上なく勿体無さそうな表情を浮かべたが、逆らいはしなかった。 「ち……」 由莉香を突き飛ばし、武士に続く。 由莉香はよろけてたたらを踏み、しかし二本の腕に支えられた。 「大丈夫か?」 肩を掴んで支え、北斗が覗き込んでくる。 「だ、大丈夫です……」 由莉香はしっかりと自分の足で立ち、離れた。 元々肉体的には何ら被害を被っているわけではない。 「ありがとうございました……」 そう、礼を言ってから、酷い様となっている北斗を改めて認識して申し訳ない気持ちが湧き上がってくる。 「あの……すいません……」 「……何が?」 謝ると、北斗はひどくきょとんとした顔を見せた。 何を言われているのかまったく分からない、といった風だ。 と、そこへ宗一郎が辿り着いた。 「……なんか、少し見ん間に妙なことになっとるみたいやけど」 少々口許が引き攣っている。 「ええと……御堂の双子の……妹の方やな?」 「は、はい……」 由莉香は頷く。 無論、宗一郎のことは覚えている。 「あの……」 「竜座北斗いうてな、しばらくうちの居候することになって」 由莉香の言わんとすることを察し、宗一郎は告げた。 そして北斗が笑いかけてくる。 「竜座北斗だ。よろしく」 「御堂由莉香です……」 由莉香はもう一度頭を下げてから、おずおずと続けた。 「その……ほんとにすいませんでした……」 「ん?」 「いえ……私のせいでひどい傷……」 「……ああ!」 北斗もさすがに何を言おうとしているのかを察したようだった。 が、あっさりとかぶりを振った。 「男が女の子を守るのは当たり前だろ」 それは、聞く人間によっては怒り出しかねない台詞。 しかし、由莉香の耳にも宗一郎の耳にも自然に響いた。 「それに、すっげえ強くてわくわくしたしな」 「待て」 そこで宗一郎が口を挟んだ。 「そもそも誰とやり合った?」 北斗がこうまでなる相手など、そうそういるものではないはずだ。 それが気になる。 「んー……そうだなあ……俺と同じくらいの背で……」 「……雨田武士さんです」 説明しようとする北斗を遮って、由莉香が言った。 「あと一人いましたけど、少なくとも一方はあの人でした」 「雨田武士やと……」 宗一郎は疑問に眉を顰める。 由莉香の言葉を疑ったわけではない。 だが、この街にいる理由が分からない。 自分が捜索されていることは当人も知っているはずだ。灯台下暗しを狙ったにしても、かつてのバトルフィールドで王者となっていた武士の顔を知る者の数は多く、むしろ愚策にしかならない。 だというのに帰って来たということは、この街に何らかの目的があるのだろうか。 ともあれ、日本支部に知らせる必要がある。 宗一郎は携帯電話を取り出し、まずは三峰家に連絡をした。 夜に風を切る音が唸る。 規則正しく一定の間隔を置いて、だ。 よく聞けば、ふたつの似た音が同時にしていることに気付くだろう。 学校。 生徒はもちろん、教師すらもいない。 その剣道場の裏で、風を切る音はする。 木刀を振る徳教と、長い棒を振る巴。二人並んで素振りをしている。 お互いにうっすらと汗が滲んでいるが、その繰り返しの動きに一切の歪みはない。 現在、六百七十三回。 とりあえずの目標は千回だ。 振り上げ、振り下ろす。ただそれだけの動作を正確に繰り返す。 いつもならば、一月前の日常ならばそれができた。 巴の姿勢が崩れる。 棒が土を叩き、声が漏れた。 「あ……」 手を離れた棒が、からりと音を立てて転がる。 膝を突いて拾おうとした己の手が震えていることを、巴は感じずにはいられなかった。 あれからずっとこうだ。 戦いに近い感覚を覚えるたびに、恐怖で身体が動かなくなる。 怪異とは昔から人間にとっての最たる恐怖の対象であり続けてきたはずなのに、桑折明日菜は今まで見て来たいかなる怪異をもはるかに凌駕している。 「大丈夫か、巴?」 「徳教さん……」 肩に手をかけられて、巴は徳教を見上げた。 「ごめんなさい……私のせいで……」 「馬鹿なこと言うな。何も関係ない」 徳教にしてみれば、関係ないというのは事実だった。 巴があそこにいようがいまいが、それどころか巴と出会っていようがいなかろうが、結果はまったく同じだっただろう。 「むしろ俺はよかったと思ってる。人間が昔からなぜ戦ってきたていう理由のひとつを思い知らされた気がしてる」 むしろ静かな気持ちで言う。 「……なあ、巴……闘神伝説って知ってるか……?」 巴は無言で小さくかぶりを振っただけだったが、徳教は謳うように続けた。 始めに才ありき 才は人を呼び、龍を呼び、やがて大いなる力を導く 力に溺れるならば、それは鬼なるもの 力を従えるならば、それは神なるもの 神なるものが守るべきものを得るならば それこそが『闘神』 異端の伝説だ。 古より伝わり、時とともに姿を変え、今に至ったと言われる。 「人より出でて人を超え、人の心を持って守るべきものを守るもの…それが『闘神』と呼ばれる存在だ」 守るべきものなく力を振るう神、それは破壊神と呼ばれる。 それでは人の敵にしかならない。 「目指すべきは、きっとこれなんだ……俺はまだまだ鍛錬が足りないんだ。きっと覚悟も」 あれ以来、疼くものがない。 戦いたいと思わない。 あれほど失くしたいと思いながらも叶えられないでいたものを、あっさりと失うことができた。 それでも、戦うことを虚しいと思うわけでもない。 人は大切なものを守るために戦うのだと、素直に思える。 「まだ始まったばかりなんだ……」 呟くように、言った。 夜道を四つの姿が行く。 向かう先は祖父江家だ。 由莉香はこれから話を聞かれることになる。 朱鷺子から鬼十郎に連絡は行っているはずだから既に警戒は始まっているが、さらに判明することもあるかもしれない。しかし家ごとに日本支部に所属するという形をとる以上、御堂家の本家である祖父江家を無視するわけにはいかないのだ。 とは言っても、帰り道で既に宗一郎へ話はしていた。 何も分からない、というのが正直なところではあったが。 だから話などすぐ終わった。 しかし沈黙などない。 「でさ、そこで師匠ってば寝てるんだよ。すげえよなって、本気で思った」 沈黙が訪れた次の瞬間から、北斗がずっと喋っているのだ。 ドイツでの綺麗な景色から失敗談、師匠のこと。 それを黙って聞きながら、大したものだと宗一郎は感心する。 豊富な話題、喧しいと感じさせない程度に活力に満ちた声、話題によって抑揚を変えた語り口。 聞く者を飽きさせず、引き込む。 天賦の才だけでこれなのか磨かれたものなのかは判らないが、本当に大したものだ。 由莉香も時折笑顔を浮かべながら頷いている。 そうさせるために北斗は喋り始めたのだろう、と宗一郎は察していた。 由莉香が状況を説明している間は黙っていたのに、話し終わった由莉香が暗い顔で俯いて沈黙が訪れた途端に喋り始めたのだから。 沈んでゆこうとする由莉香の心を察して、自分の話で引き上げているのだ。 自分にはこんな芸当は到底できるものではない、と宗一郎は思う。 そうこうしているうちに、祖父江家に辿り着いた。 「……なら、ここまでか」 宗一郎が告げる。 話を聞くのは宗一郎の役目ではなく、支部本拠から来るエージェントの役目だ。 ここまで来たのは、念のために送って来たに過ぎない。 「ありがとうございました……」 由莉香が門の前で振り返ってぺこりと頭を下げる。 宗一郎は特に何も言わなかったが、北斗は進み出た。 「また会えるといいな」 「え?」 「俺、まだ話してないことがいっぱいあるんだよ」 北斗はにぱっと笑った。 幼い子供のようにすら映る笑顔に、由莉香も自然と微笑んでいた。 「……そうですね」 自分がそう答えたことに驚きながらも、改めて否定することはしなかった。 宗一郎たち三人が角を折れて消えるまで見送り、それから門をくぐった。 武士は俊之を従え、広い空間に立つ。 「寂しくなったもんだな、ここも……」 声には感慨。 かつての様子と比べると、本当に物寂しい。 あの熱気、闘争の空気、バトルフィールドと呼ばれた空間。 それが今は、風の吹き溜まり。 場所が移されたことは武士の耳にも届いてはいた。 それでも此処に来た。 用は、バトルフィールドではなく此処にある。 「早速始めるか……」 見つからないうちに作業は終わらせておかなければならない。 鞄を開け、あのとき奪取したSランク<魔具>を取り出す。 俊之が唾液を飲み込んだ。 武士を赤黒い光が覆う。 <魔具>に特有の色だ。 「出て来いよ……消え切っちゃいねーんだろ?」 呟き。 まるでそれに呼応するかのように、地から同じ色の輝きが漏れ出した。 武士はにやりと笑い、俊之が擦れた声を出す。 「ほんとに……あの女が言ったとおりだ……」 「相変わらず得体の知れねー女だが……言ったことが実現されるのも相変わらずでやがるな……」 武士は女を思い出した。 見た目は高校生、といった辺りの少女だろうか。 かつてとはまるで違う姿だが、あの時の女、正確に言うならあの時あの女であった存在であると判る。 貼り付けたような笑みがそっくりだった。 赤黒い光は、やがて凝集して剣の形となってゆく。 「来いよ……下んねーもんをぶっ壊してやろうぜ?」 武士は<魔具>たちに呼びかける。 俊之は声もない。 <魔具>たちは、まるで頷くかのように明滅した。 |