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八の字の巣穴

八の字の巣穴

第百一話「告白」

 夕暮れの社会科準備室。
 地図やら資料やらが雑多に積み上げられたこの空間に、宗一郎は初めて入った。
「それで、用事は何なんです?」
 中途半端な古さの地図は一体世界史に使うのか地理に使うのか、そんなことを思いつつも、目の前の巴に尋ねる。
 月曜日。
 今週は学園祭があるということで、放課後には学校中がその準備に追われている。正確には先週から既にこの状態ではあったのだが。
 宗一郎のクラスの敏弘と隣のクラスの光、二人が取り引きして騒動を一つ起こしたなどというのも先週の話だ。
 巴はぎこちなく笑った。
「……うん、ええと……」
 が、そこで止まってしまう。
 何かを言おうとして、しかし口に出そうとすると迷ってしまう、そんな感じだ。
 だが、宗一郎には本当の用件の種類くらいは推測できていた。
 巴は宗一郎のクラスの副担任なので、呼ばれたときは学園祭についてのことかと思ったのだが、それにしては呼び出された場所がおかしい。
 授業に関しての何かならば、ありえないということはないが宗一郎を呼ぶ優先順位は低い。
 そしてこの部屋の埃っぽさを考えると事実上碌に使われていない部屋だということだ。
 本当に聞かれないかどうかはともかく、聞かれたくない話をする場として選択肢の中には出てくるだろう。
 となると。
「……察するに、裏の話ですか」
 それを聞いた瞬間に、巴の表情が変わった。
 重苦しい顔になる。
 訪れた沈黙の中を、宗一郎は黙って待っていた。
 やがて巴が小さく息を吐き、スーツのポケットから一通の封筒を取り出した。茶色の素っ気無いもので、そして開封されている。
 差し出されたそれを宗一郎は受け取り確かめる。
 宛名はあるが住所はなく、差出人も示されていない。ポストに直接投函したということだろう。
 宗一郎もそんな手紙を受け取った経験が二度ほどある。
 そこで、一度巴に眼をやった。
「……読んでええんですか?」
 渡されておきながらわざわざ尋ねたのは、当の宛名が巴ではなく徳教の名だったことだ。
 二人が現在どのくらいの関係にあるのかを宗一郎は知らないが、徳教への手紙を自分が読んでもいいのか、と念を押しておかないわけにはいかない。
 巴は決意を秘めた表情でこくりと頷いた。
 徳教に了解はとっておらずよくないこととは知っての上で、というところかと宗一郎は推測した。
 入っていた紙を出し、そこに書かれた文面に眼を通す。
 ごく短い文だった。
 今夜零時に海岸で決着をつけよう、来なかった場合はこちらから推参する、とそれだけの内容。
 文の方にも差出人の名はなかった。
「……これが何か?」
 宗一郎は正面から巴を見据えた。
 一応宗一郎の方が身長は上回っているが、目線の高さはそう変わらない。
「このくらいのことはあると思いますが?」
 かつて<戦魔>と呼ばれ闘いに明け暮れていた徳教だから、果し合いの申し込みくらい今でも来たとしてもおかしくない。
 仮に毎日だと聞いても、忙しないことだと思うくらい。
 宗一郎としては、それが衒いない感想だったのだが。
 巴はかぶりを振った。
「私が知ってる限り……初めてなんだ、徳教さんが<戦魔>をやめてからこんなのが来たのは……それに、凄く嫌な予感がして……」
 その声は苦渋に満ちている。
「これ、私が先に見つけたから徳教さんはまだ見てない。いけないことだとは思うんだけど、見せられない……」
「……そのへんは分からんでもないですが……」
 宗一郎はこめかみを掻いた。
「それで私に何をせぇと?」
 巴が徳教のことを心配するのは分かる。
 なぜ先に巴が見つけているのかは置いておくとして、手紙を見せられないと思うことも分かる。
 だが、その上で自分に何を望んでいるのかは読みきれない。
 巴は視線を床に落とした。
「……私にはこれを出した相手に心当たり……っていうか予感がある。私が代わりに行って止めてもらえるように言ってみるつもりなんだ。葉渡君には、私がそうしたってことを一応誰かに知っておいて貰いたかったから。失敗したときのために」
 どこかで見たような展開だと宗一郎は思わずにはいられなかった。
 どうにも六月の紗矢香の行動を髣髴させる。
 目的が説得であることと他人には自発的に話しているあたり、こちらがましかもしれないが。
「小山さんと一緒に行っても説得はできると思いますが……無理な理由でも?」
「……うん。予想が当たってると危ない……あの人はなんだか……人の心にすごく波を立てるんだ」
 巴のその言葉に、宗一郎は左の眉を揺らめかせた。
 口にしようかどうか迷い、しかしすぐに決める。
「思いきり失礼なん承知で言いますが……いけますか、先生で?」
 巴は学生の悪戯やからかいに弱い。
 宗一郎のクラスでならば誰かが何かを仕掛けるとその場で朱鷺子が注意するので何も起こらないが、例えば隣のクラスの授業をしているときなどは声だけ聞いていても実によく遊ばれている。
 ただの学生のからかいでそれでは、人の心に波を立てるのが上手い相手に歯が立つとは思えない。
 だが、巴は強い笑みを作った。
「大丈夫。徳教さんのことだから私は大丈夫」
 一転して自信すら滲ませたその表情は魅力的ではあったが、むしろ宗一郎はかぶりを振った。
「先生自身のことならどうですか?」
 誰かのために、という者は己自身の足元が危ういことが多い。たとえ徳教のことならば本当に大丈夫だったとしても、巴自身のことになればどうなるかは怪しい。
 そもそも徳教のことなら大丈夫だと言っていることも、本当に巧みな相手であった場合は危険な兆候だ。
 強い思いというのは簡単に利用できそうに言われるが、状況が有利に働いていなければ目的とする方向に導くことは存外に難しい。その方向と思いとが同じ向きになる形をうまく作ることができなければ、撥ねつけられるだけだ。
 だが、不可能ではないだけの状況とその形を巧く作ることのできるだけの腕とがあれば、格好の材料になってしまう。
 それまでも撥ねつけることができるというのは、もはや想いの強さやら心の強さやらと一般的に囃される類の問題ではない。
 そして、そうでなくとも煽るだけならば簡単だ。
 なまじ強いだけに自滅し易い。
「実際はどんな相手なんかよう分からんので何とも言い難いんですが……危ないと思いますよ。私が知っとる……まあ、推測ですがそういう類のことに関しては最悪の相手……より少々ましなくらいやったら、確実に碌なことにならんでしょう。それだけで致命的なことになることもありえます」
 告げる宗一郎は、口調もまなざしも真摯だ。
「葉渡君……」
 巴は少し気圧されたように目を丸くしたが、すぐに強い表情を取り戻した。
「それでも私は行かなきゃならない。止められても」
「そうですか」
 宗一郎はまなざしを細めた。
 巴はそれを諦めと取り、笑う。
「じゃあ、うまくいかなかったら……お願い」
「うまいこといかんようなら伝えます」
 宗一郎は少し強めにそう返した。
 すると巴は安心したように笑い、宗一郎の横をすり抜けて社会科準備室を出て行った。
 ドアが開けられたままなのは、宗一郎が続けて出てくることを前提としてのものだろう。
 宗一郎は振り返って小さく吐息をついた。
「……さて、一応嘘ではないけど……嘘みたいなもんか」
 薄く笑って呟く。
 宗一郎が巴に言ったのは、『うまくいかないようであるならば伝える』ということだ。
 巴の求めた『うまくいかなかったら伝える』ということにも頷いていない。
 『うまくいかないようであるならば』というのは結果が出た後も指すが、結果が出る前の推測でも使える。
 ほとんどこじ付けなのでかなり気付きづらくはあるが、頷かずにわざわざ言い直したことにも気付かないところを見ると、葱を背負った鴨と化す可能性は高いだろう。
 うまくいかないようであるので、知らせる。
 無理に止めようとしても思い詰めている巴は止められてはくれないだろうから、人の悪い手段をとる。
 何はなくとも知らせるならば徳教と、それからやはり朱鷺子だろうか。増やそうと思えばまだまだ増やせるが、そもそも徳教の解決すべき問題のはずなのだから、傍観者ばかり増やしても仕方がない。
 それに、と宗一郎は遥か虚空に思いを馳せる。
 言い知れぬ感覚が疼いた。
 ただひとつ問題となるのは、見せられた手紙そのものが贋物である可能性が捨てきれないことだ。
 巴の性格からはそんなことは考えつくことすらないのではないかという気はする。
 宗一郎は教師である巴の字を知っており、あの手紙の字は確かにそれとは別物ではある。だが、手紙の送り主そのものが作成した、誰かに見せるための偽りの文であることは考えられる。
 本当はもう一枚あって、そちらで行動まで指示されていたということだ。
 そうであった場合は、巴を先走らせた上で徳教に追わせることを狙っている、そんなあたりだろうか。
 あるいは偽の情報で徳教を誘き出す、とも考えられる。
 この件、情報が少なすぎて何が最も危険なのかが判らない。誰がどう行動すれば誰の危険となるのかも、推測しきれない。
 それは巴を止めなかった理由の一つでもある。
 例えば巴に注意を集中させて別の何かを狙っていることもあり得る。
 それとはまったく逆に、ありえない話ではないというところまで考慮すれば、こちら側の考えすぎであって差出人はごく普通にただの試合がしたかっただけなのかもしれない。
 ともあれ、そのことまで伝えておこうと決め、社会科準備室を出て教室へと足を向ける。
 先に見つかり易い朱鷺子を探すべきだろうと思ってのことだったのだが、探すまでもなく階段で出くわした。
「宗」
 先に呼びかけてきたのは朱鷺子の方だった。
 そのまなざしには、溢れる覇気とともに緊迫したものもあった。
「<楽園>の手掛かりになるかもしれんものが見つかったそうだ。本拠へと行くぞ」
「……それはまた」
 宗一郎は、予定を変えざるを得なかった。







 屋上は、綺麗な夕陽からの輝きによって茜色に染まっていた。
 その中に立ち、翔子が振り返る。
「どうしたのよ、こんなとこまで連れてきて?」
 冷たい風が髪を揺らし、影もそれを映す。
 肩にかかった髪を払う仕種は無造作なのに、それだけで魅力的に見えることを晃人は知った。
「……あー、ええとだな……」
 屋上を選んだのは、最も人の目につかないであろう場所だからという、それだけのことだった。
 しかし、夕暮れの屋上はあまりにも出来過ぎた情景だった。
 勇気が萎むほどに、雰囲気がありすぎた。
 沈黙。
 翔子はただ黙って待っている。
 いつもであれば、からかいに出ているところだというのに。
 ただ、晃人の緊張ばかりが高まってゆく。
 そもそも翔子は男女を問わずかなりの人気がある。ある程度以上の親交のある者のうち、僻みを持つ同性と装飾品が欲しいだけの異性以外の大半には好かれていると言っても過言ではない。
 言い寄ったことのある者も、晃人が知っているだけで片手に余る。
 葉渡翔子は、少なくともこの学校の華のひとつなのだ。
 偶然葉渡家に出入りするようになったから身内に近い感覚があって忘れがちなのだが、これから自分が思いを告げようとしている相手はそんな存在なのである。
「……茶々入れねえのかよ?」
「かなり真面目な話みたいだから。これだけの時間、切り出せないくらいにね」
 ふわりと、翔子が笑う。
 本当に、大事なところでは優しい。
 この優しさに甘えるわけにはいかない。
 決定的な一歩を踏み出す。
「……俺はお前が好きだ」
 短く、端的な言葉。
 前置きも何もない、不意打ち。
 翔子は少しだけ目を丸くした。
「……正気?」
「ちょっと待て、『本気?』とかならともかく、『正気?』って何だよ? どういう意味だよ?」
 さすがに予想外だった晃人は思わず食って掛かる。
「俺は正気だし本気だぞ? こういう冗談は嫌いだからな」
 言ってしまってから恥ずかしさが込み上げてくるが、一度口に出した言葉は消えてはくれない。
 消えて欲しいとも思わなかった。
 多分顔も真っ赤だが、この夕焼けの中ではばれない。
「……そう。ありがとう」
 翔子は微笑んだ。
 どこか胸を締め付けられるような、寂しさを感じる微笑みだった。
 駄目なのか、とそう思った瞬間に、翔子は続けていた。
「答えはね、何日か待って欲しいの」
「……分かった」
 何でだよ、と言いかけたのを呑み込む。
 晃人には一月の準備期間があったが、翔子は今聞かされたばかりなのだ。
 たとえ生殺しだろうと、数日間くらいなら待つべきだと思い直した。
「……じゃ、それだけだから。俺、行くな?」
「うん。じゃあね」
 校舎内に入ってゆく晃人を、翔子は微笑みのままで見送る。
 そして、姿が消えてからフェンスに歩み寄った。
「……いつも尖ってるのに……晃人くん今日は素直なこと」
 苦笑する。
 見下ろした校庭では、ちょうど宗一郎と朱鷺子が並んで歩いてゆくところだった。
 皆から見れば、まるで腐れ縁から発展した恋人同士に見える、しかし実際はまったく違う関係。
「兄貴と朱鷺子さんも謎よね……」
 翔子からは、宗一郎と朱鷺子の関係は男同士の真友とでもいうのが一番しっくりとくる。
 あれだけちぐはぐなのにあれだけ息が合って、きっと敵同士になることがあってさえ崩れることはない、そんな風に思える。
 自分には、多分出来ない関係だ。
「…………晃人、か…………」
 そっと呟いた。










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