幕間「前夜」あるとき、隣人が消える。社交辞令のように小さく頭を下げて顔を上げると、どこにもいない。 あるとき、姉が消える。 意見の相違から小さな言い争いをしている最中に、言葉の途中で幻だったかのようにいなくなる。 あるとき、学生が消える。 体育で持久走をして、授業が終わると二人足りなくなっている。そしてそのまま誰も見ない。 注文の料理を持ってゆくと客がいない。 スポットライトの中、ごとりとマイクが落ちる。 時速150kmの投球が審判に直撃する。 浴槽に延々と注がれ続ける湯、洗濯機の中で乾き切って固まった衣服。 捜索願いの山に警察は頭を抱え、やがて経験則は諦念とともに事実として受け止められる。 ある日あるとき、誰かが消える。 執務室から地上を見下ろし、鬼十郎はゆったりと息をついた。 通達の指令はつい先ほど出した。今頃、日本中の討滅の家は大騒ぎになっていることだろう。 『明晩富士の樹海にて<楽園>との決戦を行う。各家は一線級の戦力を派遣すべし』 あまりに唐突な通達だ。<楽園>を葬り去るその手伝いをせよと、前日に告げるなど本来ならば馬鹿げている。 だが、そうでなくてはならなかった。 <楽園>は取り込んだものの知識をも得るという。知る人間は、ぎりぎりまで可能な限り少なくしておかなければならない。通達を行うまでは、知っていたのは一月前のあの会議の場にいた者だけだ。 「……現在までの一月に、どれくらい消えてたっけなあ?」 「確認されているだけでもおよそ11%、おそらく16%は消失していると推定されています」 淡々と答えるのは理美だ。一切の表情はミラーシェイドの奥に隠されている。 <楽園>による人の消失は、緩やかながらも加速度的に増加している。昨日よりも今日、今日よりも明日、より多くの人間が消えてゆく。 現在までに、六億人から十億人ほどが消え去ってしまっている。 増加が加速度的であるからには、このまま行けばさらに一月半経った後には全人類が消え去っている計算になる。 無論、このような事態になっては統合本部以下各支部も<楽園>に本腰を入れてはいるのだが、決戦について日本支部と<カルテル>と<ブーツ>が口を閉ざしている以上、できることはやはり警戒しかなかった。 統合本部にすら知らせないでいたのは北斗の準備が整わないうちに強行させられてしまうことを警戒してだったのだが、結果的に正解でもあった。 統合本部の人間は前線の者ではなく、抵抗力も弱い。事実、重鎮が何人も消えている。もし知らせていればとうの昔に<楽園>の知るところとなっていただろう。 本当ならば、正真正銘誰にも知らせずにことにあたるのが最も安全ではあるのだが、今度は<楽園>への進攻の影響で溢れ出して来るであろうものへの対応が問題となる。 だから、作戦開始二十八時間前に通達したのだ。 「……決行は十二月二十五日午前零時。決戦はクリスマス、か。何ともはや、狙い済ましたようだな」 失われ行くものをただじっと見つめながら耐えてきた時は明日で終わる。 成功するにせよ、失敗するにせよだ。 「サンタクロースには、良い子のところだけではなく悪い子のところにも来てもらう必要がありますね」 さらりと応え、理美は僅かに笑った。 特定の誰かだけが救われるのでは意味がない、その意味を込めて。 博司は夜空を見上げていた。 いつものとおりの鍛錬、その最中にもたらされた通達。 最初は何の冗談かと思ったものだ。 史上最大の決戦。少なくとも、事態そのものは有史以来未曾有の危機だ。 何億もの人間が消えているこの状態で、事態など隠しきれるはずもない。 ニュースや学校での世間話にもあからさまなまでの不安が現れ、それを映してここ二週間で発生した新興宗教も山ほどある。 「博司様……」 紗矢香が傍に寄って来る。 腕に抱きついてきたその身体は明らかに震えていた。 世間の不安に当てられているということもあるのだろうが、やはり最大の問題は実際の戦いだろう。具体的に何をすることになるのかは判らないが、今まででも最悪であると想定せずにはいられないのだ。 「……大丈夫だ、紗矢香」 そう言って宥めるように抱き締めた自分の身体も、震えてこそいなくとも明らかに硬いことは嫌でも自覚した。 動きのすべてがぎこちない。 「大丈夫だ……」 もう一度言う。 自分たち二人に言い聞かせる。 と、紗矢香が食い入るように見上げてきた。 「博司様……あたし、行く前に……行く前にせめて……」 「紗矢香……」 鈍い鈍いと方々で嫌というほど言われた博司だったが、なぜか今は紗矢香の言わんとすることがすっと理解できた。 思わず頷きそうになって、しかしぎりぎりのところで思い止まる。 そんなことをしてしまえば、本当に最後になってしまいそうな、そんな気がした。 だから、額に口付けるだけにした。 「それは……帰って来てからだ」 「でもっ」 「俺たちは絶対に帰ってくるんだ、だからこの約束も絶対だ」 それは願いであり、誓いだ。 死ぬつもりなどない、それを強く現す。 「俺には紗矢香がいて、紗矢香には俺がいるんだ」 「……そうですね。そうでしたね……」 未だ腕に抱きついたまま、それでも紗矢香を笑みを浮かべた。 「約束ですよ、博司様? 絶対に帰って来て……」 「ああ……絶対だ」 「それってどういうことだよ?」 『ああ、いや、それが……仕事が入っちゃって……』 電話の向こうの、翔子の申し訳なさそうな声。 こんな不穏な時期ではあるが仮にも恋人同士となったわけだしクリスマスには共に過ごそうか、となっていた予定を変更する電話。 「……仕事か……」 晃人は唸った。 楽しみにしていたものが消えてしまった憂鬱な思いは隠しきれないが、仕事では仕方ない。 事件は待ってくれるはずなどなく、放り出してデートをしていたら人死にが出ましたでは済まされないのだ。 「なら、俺も行くよ」 それでも共に過ごすことになることには違いないわけだし、と半ば屁理屈で自分を納得させつつ口にした言葉。 だが、翔子は少しの沈黙の後、告げた。 『……駄目よ、あんたにはまだ早いわ』 「またそれかよ……」 晃人はため息をついた。 またとは言っているが、そう頻繁なわけではない。既に晃人の腕は葉渡の霊具使いたちを明らかに上回っており、ここ三ヶ月ほどは置いて行かれることはなかった。 『ちょっと大きな件なのよ。ごめんね』 「……分かったよ、仕方ねえな……じゃあな」 『ん、じゃあね』 あっさりと、通話は切れた。 「……何なんだよまったくもう……」 ぼやきつつも、何かがおかしいと晃人は思う。 なんというか、翔子に余裕がない気がする。 翔子は<武具>遣いとしての自分に誇りを持っている。予定を変更することになってしまったことへの後ろめたさがあるにしても、普段ならそれでももう少し毅然としているはずだ。 「おかしい……よな?」 (そう思うのなら、行動してみてはどうじゃ?) クリストの思念。 「……そうだよな」 ふと浮かんだのは宗一郎。 宗一郎に訊こうというのではなく、宗一郎ならばどうしそうか。 「……あのブラコンの所為で俺の頭の中にまで出て来やがるのな」 翔子は自分でも昔はブラコンだったと認めてはいるのだが、それは違うと晃人は思う。 今でも充分ブラコンだ。 とにかく、時間は遅いが今からでも情報を集めてみようとそう思った。 「決戦、か……」 徳教は呟いた。 現実味がない。 今ひとつぴんと来ない。 戦うべき相手が<楽園>という不明瞭なものだからだろうか。 ただ、それだけに得体の知れぬ恐ろしいものではあった。 それでも迷わない。 戦うことに明確な答えを手に入れ、戦いの果てに得るものが確実に見えている今ならば。 「……<双頭剣>にはむしろ感謝すべきなんだろうな」 あのときの<双頭剣>の依頼とやらが何だったのかは分からない。 だが少なくとも、答えを得させるために追い詰めてきたような気はしていた。 何の意味があるのかまでは想像がつかないが。 「しかし……怒涛のイベントだな……」 苦笑する。 明日の決戦、それを過ぎると誕生日、さらには大晦日から正月、それから結婚式。 今から一月以内に、これだけのものが予定されている。 「なあ、巴?」 同じ布団の中で眠っている婚約者に、囁いた。 葉渡家の庭。 蓮花はそこに宗一郎の姿を見つけた。 「何やってるの?」 「……お前こそ、こんな時間に何でうちにおる?」 宗一郎は呆れたような声とともに振り返る。 傍に緋雪の姿はないが、それが顕していないだけなのか本当にいないのかは蓮花には判らない。リィゼア=フォウンに訊けば判るのだろうが。 「宗一郎くんに会いに来たんだよ。急遽決戦前夜になっちゃったからね」 蓮花はにっこりと笑って見せた。 しかし、その言葉に宗一郎は驚きもしなかった。むしろ呆れたような色を強くする。 「家に帰って来い言われとるんちゃうか?」 「うん、そうだよ」 蓮花は千堂聖司にとっては駒のひとつなのだろうが、正確には重要な駒だ。 それは、蓮花が父親に歯向かう姿勢を見せ始めている今でもそうである。利益が得られるのかどうかも怪しい上に生き残れるのかどうかも判らない、そんなものに行かせるわけがない。 「でも、別にあたしが聞き入れる必要はないよね。戦力はどれだけあってもいいんだから」 「まあな」 宗一郎は止めることもしない。 蓮花は宗一郎に並んだ。 「……ねえ宗一郎くん?」 「ん?」 「あたし、宗一郎くんのこと好きだよ?」 「ああ」 至極あっさりとした頷き。 蓮花は気を悪くしたように眉を顰めた。 「……そんな気のない返事されると拍子抜けしちゃうんだけど」 「動揺せなあかん方の意味ちゃうやろ?」 「……それは確かにそうなんだけどね」 蓮花としては、からかってみようと思ったのだ。 折角口にするのだから、昔からあれこれ驚かされ続けた意趣返しにしてしまおうと。 動揺してくれたら、そういう意味ではないと意地悪く言ってやるつもりだったのに。 「なんで判ったの? あたしがほんとに宗一郎くんに恋してる可能性だってあったんだよ? 状況的にはむしろそっちにとる方が普通だと思うんだけど……」 「……なんとなくな」 宗一郎は苦笑しただけだった。 蓮花は大きくため息をつき、それからこちらも苦笑する。 「もう……」 そして、不意に問うた。 「そういえば宗一郎くんって……」 「ん?」 「緋雪さんのこと好きでしょう?」 「ああ」 またも事も無げに首肯。 本当にからかい甲斐がない。 「そっか……昔から怪しいとは思ってたんだけど……やっぱりそうなんだ?」 「まあな」 昔馴染みの他愛ない会話。 しかし、蓮花はそんなものをしに来たわけではなかった。 今までのものは前振り。いよいよ肝要な部分に入る。 「あのさ、宗一郎くん……はっきり言って宗一郎くんは好かれてないことが多いけど、あたしとか……好きな人も確かにいるんだからって言いたかったの」 「知っとるがな」 「……こんなときくらい、あたしに話の主導権握らせてよ……」 一度、見られるものならば心の中を覗いてみたい気すらする。 くじけそうになる心を、蓮花は奮い立たせる。 「とにかく、帰って来てね? そのまま消えたりしないでね? 約束だからね?」 袖を引いて自分の方を向かせてから真摯に言う。 どこかに行ってしまいそうな気がして、言わずにはいられなかった。 夏祭りでの朱鷺子との会話を思い出す。 宗一郎は誰かにどこかへ連れて行かれるのではない。自分でどこかへ行くのだ、と。 宗一郎は、ほんの僅かに口許を歪めた。 「……相も変わらず心配性やな」 その表情はあまりにいつも通りのものだった。 決行まで、あと二十四時間。 |