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八の字の巣穴

八の字の巣穴

其の一






其の一の一『群、あるいは軍』



 狭い庭に美しい桜が咲いている。
 小さな家の小さな窓から見るには不釣合いなほどだ。
 ひらりと一片が舞い込み、畳に降りる。
 その傍に広がるのは灰白色のドレスの裾。
 座しているとはいえ畳に触れるほどの銀髪。
「選べ」
 至近でじっと見上げてくる少女の声は、りんと鳴るようだった。
 一郎は眉根を寄せた。
 唐突に選べとだけ言われても何のことやら判らない。
 大黒一郎は、名にし負うかの如く、黒を感じさせる男である。
 齢三十、六尺を少し越える背丈、眼鏡の奥の黒瞳、いい加減に切っただけの黒髪、そして黒尽くめ。
 肌こそ黒くはないものの、仏頂面まで黒と言う色をなぜか思い起こさせる。
 少女、ゼフィータはじっと見上げてくる。
「我とともに戦うこととなる、汝が分身を創れ」
 得心がいった。
 契約者はただの人間だ。出来るとしても人間の戦いだけだ。だから、自分の代わりに魔神の剣となり盾となるものを、魔神の存在をもって創る。
 既定のものを召喚することも出来るが、それとは別に一人につき一つだけ、契約者独自の存在を創ることが出来る。
 ゼフィータが膝立ちとなり、一郎の頬を挟む。こつんと額が触れ合わされた。
 一郎の意識に広がったものは、純白。未だ何ものにもならぬもの。何色にも染まるもの。
『汝の思う、戦う力の群れを示せ』
 創られるものが如何なものであるか、如何ほどの力を持つかは、契約者に因る。魔神はあくまでも媒介だ。
 想像力で創るのではない。契約者のすべてをもって創る。例えば幼い頃のやんちゃによる火傷も、訳の分からない資料を睨みながら唸ったことも糧となる。
 今までの生そのものを材料とし、戦う力を創る。
 ただし、必ず群れとなる。大抵は軍となる。数は力、そしてその一群に足る力を単体で有することがあるのは魔神のみだ。
 一郎は示す。
 脆いもの。儚いもの。それが故に貪欲なもの。己を変容させてゆくもの。大量の死を糧として更に大量の生を作り出し、広がってゆくもの。
 完成などすることはない。変容するだけ。やがては世界に呑まれるもの。呑まれるとしても今、求め続けるもの。
 容は綺麗で恐ろしいものに似ているのがいい。
 示す。
 白が染まってゆく。
 望んだものになってゆく。
 その威容を見上げ、一郎は頷いた。
 儚くて、美しくて、恐ろしい。
「……これが私の代わりにお前を守る。趣味には合うか?」
 そう尋ねた時に、光景がほろほろと崩れた。剥がれ落ちた裏から現実が現れる。
 ずっとそうだったのであろう。じっとゼフィータが見上げてくる。
 ただ、今はほんの僅かにだけ表情があった。
「汝であればそれで良い」
「……そうかい」
 一郎は魔神の綺麗で素直な銀髪に触れた。







其の一の二『銀の大輪』



 ぽつりぽつりと、住宅。
 アスファルトの道路の両側に広がるのは主に田畑。地元の者しか名を知らぬ小さな山には人気のない神社。
 梟の鳴く声が聞こえる。
 一郎は陽が落ちてから大分して家に帰り着く。
 街の外れ、山の傍に建てられた小さな一軒家。和とも言い切れぬが洋とも言い切れぬ、古い平屋だ。
 外れにある割りには半時間も歩かずに最寄の駅に辿り着けるのは良いのだが、大きな店もやはり駅の周辺まで行かなければ存在しないので、まとめての買い物は帰りに寄ってとなる。
 左手に買い物袋、右手に黒の鞄を提げたまま、目だけでポストを確認すると、暗いながらも何かが投函されているのが見えた。
「……ん?」
 大きな封筒だ。珍しい。
 眉根を寄せ、鞄を腋に挟み、苦労して取り出す。
 宛名を確認。確かに自分宛て。
 差出人を確認。厚生労働省。
 自分にとっては突飛ではないが、自宅にというのは奇妙だ。
 はてさて何だろうかと考えつつ鍵を開け、中に入る。
 明かりを点けるのは以前と変わらない。ゼフィータは暗闇を気にしないのか、独りのときは消したままでいるのだ。
「……ゼフィータか」
 思い当たった。魔神関連のことは、日本では厚生労働省の管轄になっている。申請先もそうだったし、写真を撮るために連れて行ったのもその支局だ。あまりに当然のことで逆に浮かばなかった。
 一先ず自室に鞄を、台所に買い物袋を置き、そのまま台所で開封する。
 推測どおり、ゼフィータについての書類だった。認可の証明と、<戦>へ参加するためのパンフレット。
 <戦>は魔神の望むものである。現界しただけでは魔神は十全には程遠い。<戦>によって<力>を集め、階梯を駆け上り、真の魔神となるのだ。
 そして契約者にとって<戦>は義務だ。魔神が十全となるまでは、毎週土日に行われるこれに三ヶ月間出場しないと認可が失効する。補償金も下りない。
 一郎としては公正に貰えるものは貰っておきたい。金に困っているというほどではなくとも、どちらかと言えば貧乏の部類に入る。
 それに再申請の手順は非常に面倒なのだ。今度は身辺まで調べられることとなる。痛む腹はないが鬱陶しい。
 パンフレットをぱらぱらとめくる。
 今週末のものについては見どころ対戦、来週以降のものは対戦相手募集などが載っている。
「ふむ……」
 募集をじっくりと調べる。
 <戦>で最も肝心なのは緒戦だ。特に初戦で敗れるとそのまま再起出来ないことが多い。
 どれほどの素質を秘めていようとも、現界したての魔神は脆弱だ。十全となるまでの千の階梯、せめて百までは上らなければ軍を相手取ってはまともに戦えない。この時期を如何にして早く越えるかが鍵となる。
 それまで核となるのは先日生み出した自分の代わり。初戦で<力>の収支をなるたけ大きく正に持ってゆく。それを元としてゼフィータの階梯を増し、あるいは新たな軍を召喚して更なる大きな利益を狙いに行く。
 初めてであるこちらのことは、向こうには何も知られていない。一方、向こうのことは調べた上で選べる。
 誰を敵とするか。相性や今までの行動、余力を鑑みた上で弱過ぎず、強過ぎず、誰が最も益となるか。
 候補は十名くらい挙げておくべきだろう。自分であれば、何も分からない相手は断る。
 戦いは疾うに始まっているのだ。
 が、一郎は顔を上げた。
 腹が鳴った。
 そういえば当の戦神はどうしたのだろうか。
 居間へと向かう。
 果たして、畳の上、二つ並べた座布団に身を丸めて眠っていた。
 ゼフィータは人間で言うならば十代半ばから後半に差し掛かったほどの容姿だ。華奢な体躯は立っていても一郎の肩までしか来ない。
 それが今はいっそう小さく見える。
 銀色の大輪の中の無垢な寝顔も、やはりどことなく硬質ではあるものの、より幼く映る。
「む……」
 一度居間を出て、ゼフィータに割り当てた部屋から毛布を取ってくる。
 そして静かにかけた。
 魔神が身体を冷やして風邪を引いたなどという話は一郎にしても聞いたことがないが、こういったものは論理だけに拠るものではない。
 さて風呂を沸かそう。
 食事は準備も含めてゼフィータが起きてからでいい。
 睡眠も食事も、可能であるだけで魔神には不要のものではあるが。







其の一の三『慣れ』



 コーヒーを淹れる。
 まったくのインスタントではないが、本格的なものとも遠い。ポットを用い、濾紙で漉して淹れる、その程度のもの。
 湯気とともに香りが広がる。
 食卓の椅子に座り、ゼフィータはこちらをじっと見つめている。
 無表情。それでも待っているのだろう。感想も言ったことはないが、香りに気付くと食堂に来て座る。
「はいよ」
 カップに注ぎ、ゼフィータの前に置く。
 すると包むようにして両手に取り、くちびるをつけるのだ。
「一郎」
 珍しくも今日は喋った。
「我ではこうはならぬ。汝にはこの才があるのか?」
 どうやら昼間にでもこっそり自分で淹れてみたらしい。
 それでカップの位置が変わっていたのかと納得し、一郎は密やかに笑った。
 自分のものを手に向かいに座り、一口啜る。
 いつもの味。同僚にはそれなりに評判がいい。
「……いや」
 答えは否定だ。
「慣れとるだけやな。仕事んとき、必須とは言わんでも要ることが多い。どうせなら美味い方がええ」
「そうか」
 ゼフィータは頷いた。
「馴化か」
「そして体得へ」
 一郎は付け加えた。







其の一の四『ころころ』



「では、楽しみにしています」
 そつのない笑顔と言葉で締めくくり、対戦相手、正確には対戦相手となる魔神の契約者の女性は立ち去った。
 白い手袋が印象に残る。彼女にとっての強きものの姿が浄化の意義を纏うらしきことを思えば、潔癖症なのかもしれない。
 <戦>はひとつところに集まって行われる。
 何処でも構わないが、顔を合わせなければならない。
 今回の会場は首都圏の豪奢なホテルだ。私用では泊まったことのないような。
 旅費も宿泊費も国から出る。有難いことである。
 ゼフィータは何の興味も抱いていないようだった。本当に何も乗らぬ無表情だ。
 その灰白色のロングドレスは、此処でさえも浮いていた。
「ゼフィータ、気分は?」
 問えば、こちらを振り向きはしたものの、それだけだ。いつもの無表情で、じっと見上げてくる。
 さすがに、一郎自身は腹の底に冷たいものを呑んでいた。
 <戦>はそれぞれの対戦について賭けが行われている。胴元は世界の律とでも呼ぶべきもの。元手も還元されるものも<力>だ。分身を創った時のように魔神を媒介とし、行う。
 この賭けは、右手と左手に対価を乗せるものさえあれば、どれほどの比になろうとも実行される。今賭けられるすべてをゼフィータの勝利に乗せてある。オッズは1.1:9。勝てば九倍だ。
 敗北は即座の破滅となるだろう。ゼフィータも自分も世界に食われ、消えてなくなる。
 しかし、せねばならない。知っておくべきことがあった。自分たちの存在そのものを賭けることが許されるのは、他に賭けるものが何もない初回だけだ。行うことによって弾き出せる情報が一郎にはある。これを逃せば二度はない。
 あとは、勝てばいいだけ。
 効果的に敵を作った、そのはずではある。だが絶対ではない。ましてや人は己の信じたいものを信じるものだ。
 腹の底に呑んだ冷たいものを、しかし一郎は転がす。太く笑う。
「夕飯は何食おう」







其の一の五『答えのずれている男と綺麗な子が好きな女』



「おう?」
 男が声を上げる。
 次の<戦>の組み合わせがディスプレイに示されていた。
「どうしたの?」
 女が問う。
 問いながら、組み合わせの詳細に目を通す。
 何か特別なものがあるのかと思いきや、特に何も見つけられない。
「これがどうかしたの?」
「どうかしたのか、と? 例えば、戦歴に差がありすぎるとは思うだろう?」
「よくあることじゃないの? 先週もこんなの見たわよ?」
 初めてなのに明らかに格上の相手に挑んでしまう、ということは珍しいものでもないだろう。
 今回の初参加者が挑んだ相手は、魔神リフローザと志藤絵里歌。<戦>に参加して既に一年経ち、魔神の階梯も五十にまで進んでいる。ここ二年で参加した中では一番華があると言われているらしい。
「最初からいきなりやられて潰れるパターンそのものなんじゃないかと思うわよ?」
「まあ、そういう言い方をすればそうなのだろうが……」
 男が横を向き、何やら検索を始めた。
 女は半眼になる。
「一体何が気になるのよ?」
「いやいや、最近なんだかアイドル気取りになって来ている気がしてな。ここで初参加に負けてくれると面白かろうにと」
「……なんか答えになってない気が」
 とは言え、男の言葉には同感だった。白い翼を生やした、まるで天使とでも呼びたくなる魔神と、戯化された天使の軍勢。しかも使うのは浄化の意義。格好をつけた台詞などもよく似合うのだが、確かにしつこい。最近云々は知らないが。
 一方、初参加の方の魔神はリフローザとは対照的に無表情だ。
「この子、凄く綺麗よね。好みだし、あたしもこっち応援しよっかなー……でも負けそうよね」
 リフローザは、第五十階梯としてはかなりの大軍を擁している。その<力>の総量は同階梯の相手の倍はある。初参加と比べれば、下手をすれば十倍にも達しかねない。
 無論、全軍を投入するとは限らないが、見たところこの対決で除外されているのは魔神自身の戦闘のみだ。リフローザも志藤絵里歌も、圧倒的な数で蹂躙という情景を好み、また荘厳に映えるがために他者にも好まれる。おそらくは全力でかかるだろう。
「……ちょっと、ほんと何調べてるわけ? もう始まるわよ?」
 かたかたとキーボードを打つ男を横目で見やる。
 男の答えはやはりずれていた。
「気になると一直線。それが俺の魅力だと自負している」







其の一の六『奇譚』



 対峙より戦場を展開する。
 人の日常在る世界の紙一重隔てた未だ成らぬ場所のものを使い、己が仮初めの世界を、戦場を形作る。
 荒野。果てまで続く、草ひとつ生えぬ土と岩の大地。厚い雲に覆われて光は射さず、吹きすさぶ風も重苦しい。
 戦いの場には、このようなものが相応しいと思う。
 軍を展開する。
 乾いた大気より染み出すようにして現れるのは戯化された西洋鎧に翼の生えた人間大の存在、六百。同じものがさらに六つ。
 それぞれの右手には剣、左には盾。東西南北央のうち央式召喚によって呼び出される中では最強にも近い<天使兵>。
 その後ろには似た姿の、しかしこちらは何も手にしていない存在が千四百。契約者である志藤絵里歌の分身である、<ヘヴンズアーチャー>と名付けられた群れ。
 個体数五千六百、これがリフローザの用いる常の群れ、<力>の総量にして百二十万単位を越える精強の軍である。
 現界したての魔神の力はまず間違いなく契約者の分身のみ。それは平均すれば十万単位少々にしかならない。これだけでも過ぎると思えるほどだ。
 だが、波打つ金髪をゆったりと掻き上げ、さらに顕現させる。
 絵里歌とともに、侮ってはいない。こちらのことを知って来たのならば、間違いなくこちらに対して有利な属性であるはずだ。
 無論、多少相性が悪い程度でこれだけの<天使兵>がどうにかなるとは思わないが、苦戦になるのは好みではない。
 <雷鷹>が舞う。名のとおりに雷光を纏う鷹が五百。それが三つ。今日のために召喚した。
 神聖を侵すならば鋼、技術の象徴だろう。それを打ち砕くのは雷だ。
「今日も征きましょう、圧倒的に」
 高揚。宣言する。
 長身には白銀の軽鎧、背には一対の大きな白い翼、まさに光り輝く天使の如く。あるいは戦乙女と見る者もあるやも知れぬ。
 睥睨する中、向こうでも動きが起こった。
 盛り上がり、膨れ上がってゆく。
 最初は何かと思った。やがて、息を呑んだ。
 薄い薄い紅。人は桜色と呼ぶ。
 群れを成し、絡み合い、咲き誇る。それは桜だ。
 重い響きの風に花びらが散る。桜色に風を染める。
 美しいと思った。それだけならば、ただ美しいとリフローザも思えた。
「……何よ、あれは……」
 敵が現れたというのに、<天使兵>たちを向かわせるのも忘れた。
 巨大だ。一本一本が見上げるほどの巨樹であるというのに、それが更に狂ったように群生している。
 群生していると言うのもおかしいのだろう。山を染め尽くすように見えて、山などない。桜だけで山のように見えている。
 五百ではない。千でも足りぬ。あるいは千五百ですら届かないかもしれない。
 風を染めながら、それは動いた。
 地を這い蠢くのは根だろうか。枯れた大地を更に砕き、粉としながら向かって来る。
 絶え間なく散りゆくというのにいつまでも色褪せない。次から次へと狂い咲く。
 分身は千差万別だ。だがそれにしてさえも、このようなものなど出会ったことどころか耳にしたことすらない。
「……っ、いけない……」
 右手を握り締め、我に返る。
 異様さに危うく呑まれるところだった。
 だが大丈夫だ。どれほどの力を持っているかはまだ判らないが、こちらの<天使兵>の力は魔神の召喚する軍勢の中では屈指のものだ。<ヘヴンズアーチャー>も、純粋な攻撃力だけでは<天使兵>に及ばないものの、総合力ならば越える。
 数も間違いなくこちらが上。向こうの属性はおそらくは生命、予測とは違ったが何ら問題はない。相性は僅かに浄化の分が悪いだけでむしろ予測よりも良い。雷の有効性も大して変わらない。
 元来、生命は攻撃において大半の属性と相性が悪い。防御面でも、浄化や侵蝕など以外には分が悪い。あまり<力>のかからぬ弱い軍でしか見たことがないほどだ。
 弱気になる要素など、何もない。
 振り上げた手を前方に突き出した。
「殲滅せよ!!」
 群れを成す七千百が応えた。
 まさに迅雷、先陣を切るのは千と五百の<雷鷹>。一直線に急襲する。
 続いて<天使兵>は大きく左右に広がりながら包み込むように移動、<ヘヴンズアーチャー>は更にその後方を着いて行く。
 まずは雷で裁きを与え、そして聖なる剣で切り伏せ、最後は浄化の光で消し去るのだ。
 その威容に対し、桜の群れが蠢いた。ざわりと葉が鳴り枝が鳴り、花びらが舞い狂う。
 根が、伸びた。地を這うものだけではなく、あるいは幹の間を擦り抜けるように、またあるいは渦巻く花びらの最中を貫くようにして伸び、幾重にも重なり、天を衝き、広がる。
 さながらそれはひとつの巨大な『手』。思えば指のように見える箇所も五つある。
 『手』が、<雷鷹>の三分の一、丁度一部隊分を握り潰した。
 無論、近付けば隙間だらけだ。擦り抜けることは出来る。出来るように見える。だが今度は根が細やかに遮り、捉え、突き立て、吸い、磨り潰す。
 無論、雷は焼く。根は黒焦げ崩れ落ちる。地へと潜ってから突き出したものとて同じこと。魔神とその軍勢が使うものは意味、人の解するものとは異なる。裁きの光はその程度では怒りを緩めない。
 しかし無論、桜は怒りを恐れない。樹液が火を消し止める。崩れ落ちる端から覗くのは瑞々しい新たな根。それが崩れ落ちようとも更に新たな根が伸びる。伸びて吸い、磨り潰す。
 『手』が再び開かれたときには、その掌からは焦げた古い根であったものが零れ落ちただけ。<雷鷹>五百は桜が喰った。
 それでも三分の一、残る二は『手』を迂回し、本体を襲う。
 既にぱらぱらと古い樹皮が焦げて落ちている。『手』を襲った雷が伝わっている。
 そこへ更に、千の<雷鷹>が嘴と鉤爪を閃かせた。幹を穿ち、雷を降す。枝を圧し折り、雷を降す。
 『手』が解け、戻る。戻るよりも前にそれとは別の新たな根が生える。
 戻る根と生えた根、その双方が<雷鷹>を襲う。
 けれども先ほどとは異なる。今度は<雷鷹>が覆われてはいない。自由に飛び回り、掻い潜る。掻い潜り、幹を穿ち、雷を降す。離れては枝を圧し折り、雷を降す。
 それでも根は<雷鷹>を襲う。幹が穿たれたその時に、幹と挟み、潰す。枝を圧し折られたその時を陥穽とし、羽ばたく翼を圧し折る。
 これでも捉え切れぬ。埒が明かぬ。
 ならばと枝が蠢いた。ならばと花びらが吹き付けた。幹すら移動する。
 <雷鷹>を眩ませ、懐に抱き込み、焼かれながら喰う。そして新たな萌芽を見る。焦げた黒い衣を脱ぎ捨て、次へと移る。
 <天使兵>による包囲が終わるよりも前に、<雷鷹>千は食い尽くされた。
 桜吹雪。雷に打たれ同胞は死そうとも、桜は未だ此処に在り。
 待たない。仮初めの大地を揺るがし、根を伸ばし、三方の<天使兵>を襲う。
 浄化の意を持つ剣などいかほどのことか。切り落とされたならばまた伸ばす。伸ばし、盾ごと貫き、吸う。
 <天使兵>は光となり、次々に砕け散る。半円が内側から金色の光となり、押し広げられてゆく。
「……っ!!」
 ぎり、とリフローザは奥歯を噛み締めた。その瞳には、眼前の光景がおぞましいものとして映る。
 退けと命じたいが、出来ない。剣を手に向かっているからこそこの程度で済んでいるのだ。退がればその瞬間に、あの津波のような根によって食い尽くされることになる。
 そしてそれがなくとも、敵を圧倒することを美とするリフローザにとって、退けとの命は屈辱だった。
 分かってはいるのだ。このまま向かい続けても勝てはしない。やられて余計な<力>を失うだけだ。<天使兵>そのものは<雷鷹>よりも格段に強いが、あれを相手とするならば<雷鷹>の方が大きな戦力となる。
 分からないのだ。何故に、こうなのか。どうしてあの程度の被害で、あれほどの早さで千五百の<雷鷹>を葬り去ることが出来るのか。炎と雷の意は生命という意にとっての天敵であるはずなのに。
 惑いながら、右手を挙げる。込められた力が溢れ、震える。
「やはり……やはり退けないっ!! 撃てっ!!」
 命令ではなく指示でもなく、それは悲鳴に近かった。
 千四百の<ヘヴンズアーチャー>がついに動く。溜め込んでいた力を解き放つ。
 その手に何かを現すわけではない。その身から何かを撃ち放つわけでもない。
 力は最初から仕込まれている。
 天に黄金の円が描かれる。それは桜のすべてを覆って余りあるほどに。
 地に白銀の円が描かれる。それは桜のすべてを捕らえて逃さぬように。
 天から金が降り、地から銀が昇る。金銀入り混じる光の柱となり、捉えたものを浄化し消し去らんと満ち満ちる。
「これで……!」
 呟きに望みが漏れる。屠れはせずとも大きく削ることが出来れば、と。
 だがその願いはあまりにも儚いものだった。
 意に留めてすらいないかのように、桜は<天使兵>を屠り続ける。切り落とされながらも新生し、喰らい続ける。
 効いていない。いかに浄化への多少の耐性を持つとは言え、まるで影響を受けていない。
 どうしようもなく背に寒気が走る。魔神が恐怖を覚える。
 まだ五十階梯にまでしか達していないものの、完成しさえすればリフローザは魔神の中でも比較的高位に位置することになる。長大な突撃槍、神器<浄化の光>を手に戦陣を縦横に翔ける戦士となる。
 それでも、完成してさえも万全のこの桜と戦えば敗れるのではないかと、そんな予感に身を震わせた。
 今度こそ悲鳴となった。
「何、それは……何なのよそれはっ!?」
 それは異能を用いた呼びかけでもあった。あの桜の群れの向こうにいるはずの対戦相手に向け、響かせる。
 返答は即座、端的だった。
『愚問』
 契約者の思う戦う力の群れ、それ以外の何ものでもない、と。
 酔いの欠片もない平坦なその三つの音がリフローザの心を打ちのめす。あの灰白色の魔神は、力に満たされたならばどれほどのものになるというのだろう。
 桜は喰らい続ける。もう<天使兵>は一体も残っていない。最後に<ヘヴンズアーチャー>が喰われ始める。
 もう何も出来なかった。出せる指示などあろうはずもない。
 恐慌も抜けてゆく。虚脱した身と心で今一度見下ろした。
 薄い薄い紅。人は桜色と呼ぶ。
 群れを成し、絡み合い、咲き誇る。それは桜だ。
 重い響きの風に花びらが散る。桜色に風を染める。
 美しいと思った。それだけならば、ただ美しいとリフローザも思えた。
 巨大だ。一本一本が見上げるほどの巨樹であるというのに、それが更に狂ったように群生している。
 群生していると言うのもおかしいのだろう。山を染め尽くすように見えて、山などない。桜だけで山のように見えている。
 五百ではない。千でも足りぬ。あるいは今もって千五百ですら届かないかもしれない。
 風を染めながら、それは其処に咲き誇っていた。七千と百の軍勢を喰らい尽くし、其処に美しく在った。
 頬にかかる髪を払い、もう一度だけ尋ねる。
「それは、何……?」
『名はない。なれば名付けよう』
 桜は生と死を巡らせている。敵するものを呑み込み糧として、風に枝を揺らし、花びらを散らせている。
 さながら墓標のように。
『<奇譚・桜塚>』







其の一の七『初収支』




 <戦>において全滅させた群れの<力>はすべて、壊滅させた魔神とその契約者のものとなる。
 一方、受けた被害は、容さえ残っていればそこに<力>を補填することによって元の状態にまで復元できる。それは新たに同じものを召喚したり分身を創るのと比べ、単位あたり半分の<力>で済む。
 この差異が、<力>を得るための唐繰りとなる。
 一郎は今週の収支を反芻する。
 収入。
 魔神リフローザ以外の一切の群れを滅ぼしたことにより、百三十七万単位。
 懸けていた八万相当の八倍が加わって六十四万単位。
 総収入、二百一万単位。
 支出。
 <奇譚・桜塚>と名付けられた分身の損耗補填により八万単位。
 純益は百九十三万単位。
 加えて、懸ける際の、分身を除いて八万との評価の意味の確認。それから次回以降への仕掛けも問題はない。
 上々だ。







其の一の八『否定する男と合いの手を入れる女』



「あれま、勝っちゃった」
 女は笑う。
 苦笑に近いのには訳がある。
「面白くもあり詰まらなくもあり、複雑なとこね」
「それは同感だな」
 対戦の途中でさすがに調べものも終わったのか途中からはしっかりと見ていた男も頷く。
 女は机を人差し指で叩きつつ、頬杖を突いた。
「下馬評をひっくり返して初参加がってのは素敵だけど、単に分身が強かっただけってのはちょっとね~」
「馬鹿を言え。そこだ。そここそが面白いところだ。お前本当に魔神か?」
「あたしの力で覗き見しといて何を言う」
 ディスプレイが消えた。
 対戦の様子は、会場では担当の魔神が情景だけを大きなスクリーンに映すが、近くにいれば介入して盗み見ることは難しくない。元々閉鎖する意図のない情景だからだ。
「あれは浪漫の体現ではないか。理解というものを欠片も解っていない輩がせっせと作り上げた砂上の楼閣を蹴り倒す痛快な事実ではないか」
 男は言う。
「よくある空想だ。生命は弱い。弱いがその分必要な<力>は小さい。もしも極めれば、そのコストの低さから凶悪な力を発揮するのではないか、と。妄想も大概にして現実を見ろと嘲笑われ、あるいは心配される空想だ。しかし極めれば強いのではないかと思ってはいても証明するものがなかった。召喚できるものでは南式召喚の<小妖魔>くらいのものだ、生命の属性で攻撃を行うのは」
 男は続ける。
「おそらくは分身を創る際に試みた者は他にもいただろう。だが誰も成し得なかった。空想でしかないからだ。分身は小手先やただの想いで創られるものではなかろう?」
「ま、そうね」
「だが奴は成し得た。何によってかは知らんが、強いという確信を得ていたのだろう。いや、体得の域にすら足を踏み入れていたからこそあれは創られたのだろうさ。初参加なぞ下らん要素だ。奴は肩書きだけではない、紛うことなき専門家だ」
 男はここでため息をついた。
「面白いのはここまでだ」
「ほほう?」
 女は逆に面白そうに目を細めた。
「その先はどうして詰まらないわけ?」
「魔神自身すら理解し切ってはいない魔神という存在、世界との関わり方、それを切り口として世界を読み解こうとする学問を魔神学と通称する。これを見ろ」
 横のコンピュータの画面を示す。
 そこに映されているのは文字と記号の羅列。論文。
「大黒一郎。どこかで聞いた名前だと思った。奴は魔神学の若き急先鋒だ。それどころか社会に関わらない純然たる魔神と世界の在り様を求める分野においては第一人者だ。初参加であろうと少々勝手の違うものであろうと、基礎中の基礎へと、深みの最奥へと潜らんとする男にしてみれば大した駒落ちにもなるまいよ」
 にやりと口許を歪める。
「だが……だが、だ。エキスパートが、スペシャリストが強くて何が面白いのか。戦略段階で既に勝っていて何が面白いのか。勝って当然の者が勝って何が面白いのか。素人が綱渡りをしながら奇跡を引き当てることにこそ胸躍るというものだ。そうだろう?」
「はいはい、ま、分かるけどね」
 女は肩をすくめる。
「じゃ、来週から早速参加する? 挑んでみる? 趣味で調べてるうちに素人にしては既に色々知り過ぎてしまった気がする春臣くん?」
 魔神カナトよりの問いに、春臣は不敵に笑った。
「挑むわけなかろう、あんなのとやったら負ける。俺は俺の勝てる相手とやる。こちとら大学入ったばかりなんだ、せめて同い年くらいと」
 口調は強気で、台詞は気弱だった。







其の一の九『春雨なれども』



 細い雨。
 街灯に白い糸が浮かび上がる。
 遅くなることは珍しくもない。そもそも定時というものがない。終わりどころを見出せなければいつまでも続けられてしまう。
 家の古いブロック塀。一応は存在する小さな門。
 そこに、灰白色のロングドレス姿がいた。
 前に立てば、じっと見上げてくる。
「……春雨とは言え……風邪引くぞ」
 魔神が風邪を引くなど、一郎をしても聞いたこともないが。
 応えはない。じっと見上げてくる。
 ドレスは重く濃く濡れている。今までどれほどの時間を此処に立っていたのだろうか。
「どうした?」
「出迎えたかった」
 ゼフィータはほんの僅かにだけ、口許を綻ばせた。
「……そうかい」
 一郎は魔神の綺麗で素直な、濡れた銀髪に触れた。









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