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八の字の巣穴

八の字の巣穴

其の八






其の八の一「武文少年悩む」



 正直、堪らない。
 春宮武文は重い重いため息を机に吐きかけた。
 夏休みの補習期間。窓際のこの席には真夏の日差しが降り注ぎ、後頭部を容赦なく焼く。
 疲れていた。今までの人生で間違いなく一番厄介な状況になっているのだと、考えるまでもなく悟っていた。
 複数の異性に言い寄られることは幸福なことのように思われがちだ。いや、本質的には幸福なことであるのだろう。ただ、少なくとも日本では倫理的に好ましいと思ってもらえるものではなく、そうでなくともやっかみを受け、好色であるようにも言われかねない。
 そこへ更に、本来であれば当事者たちの間での感情のぶつかり合いが泥沼のような状況を作り出すのだ。
 なぜか皆仲良くしてくれるからそのことについてだけは免れているが、替わりにあれこれと騒ぎに巻き込んでくれる。
 いっそ誰かを選べたらよかったのかもしれない。しかし武文には選びようがなかった。目移りするということではなく、根本的に付き合うであるとか恋人であるとかそのあたりのことに実感がない。
 無論、選ぼうとすることはできるだろう。が、それは無理に何か理屈をつけた結果にしかならない。
 そもそもだ、これは本当に現実なのだろうか。自分の願望を無責任に映した夢であったりはしないだろうか。
 学内でも屈指の容姿で知られる五人が揃いも揃って自分に。あまりにも出来過ぎた、あまりにも信じがたい状況。苦痛でさえあるほどなのに未だに現実味を感じられないでいる。
 しかし、では関わらなければよかったのかと言えば、そうは思わない。
 事故に遭って夢を捨てなければならなくなった同級生を見捨てればよかったとは思わない。
 幼いころの罪の影に怯える双子の先輩を放っておけばよかったとは思わない。
 広場恐怖症から縋りついてくる下級生を突き離せばよかったとは思わない。
 両親との諍いに心をすり減らし切っていた元クラスメイトを見なかったことにすればよかったとは思わない。
 後悔は、決してしていないのだ。
 してはいないのだが。
「困った……」
 周囲からの視線はもはや妬みですらない。かなり鬱陶しがられていることを武文自身も感じ取っていた。
 同じクラスの石神井沙姫など、偶にこちらを睨み殺しそうな目で見ていることがある。
「……正直なところ」
 背後から、涼やかな、それでいて困ったような声。
「私がこんなことをしている意味も、やっぱりなさそうに思えるのだけど?」
「俺もそう思う」
 武文は顔を上げ、椅子に横座りになった。ぐったりと窓枠に体重を預ける。
 学校では周りに大抵誰かがいるという状況になって久しいが、それでも隙はある。愚痴の類はこのような時にしか言えない。
「結構旨くいくんじゃないかって期待してたんだが……」
「だから無意味だと最初から言ってたのに」
 肩の位置を越える髪を揺らし、レーフがやれやれとばかりに小さく頭を振る。
 紫めいた色は染めているわけではない。はしばみ色の瞳とともに、人間ではない証だ。
 魔神レーフ。一月前に契約して以来の付き合いである。
「石神井が魔神と契約したって言いふらしてた時は間違いなくクラスのみんながドン引きしてたんだよ……」
 その様子を見て、五人も魔神を怖がって自分から距離を置いてくれるかもしれないと武文は思ったのだ。
 が、現実にどうなったかというと、肝心の五人はほとんど気にした様子もなく、周囲からの視線がより痛くなっただけだった。
「もう少しよく考えればよかったのに」
「いやいやいや、多分お前にも問題あると思うぞ、俺は」
「なんて心外な」
 言葉通り心外そうに、レーフは眉根を寄せた。
「あまり目立たないようにわざわざ衣装まで皆と同じようにしたのに」
「まさにそれが問題なんだよ、レーフ。つーか何回も何回も何回も何回も言ったはずなんだが」
 レーフが今、身につけているのは女子用の制服だ。
 そして人とは異なる容姿だけならばまだしも、外見年齢も二十代半ばほどであり、そのちぐはぐさがある種の愉快を引き起こしているのである。
「まったくもって理解不能」
「理解してもらえないことが俺には理解不能だよ」
 そう言いながらも武彦は半ば諦めていた。
 魔神は人ではない。その思考の根源もきっと人とは異なる。
 むしろ人間について理解できないことが偶にしかないだけでも上等なのだろう。
 いや、人間について人間自身よりもよく理解している魔神も多くいることも知ってはいるのだが。
 武文の苦悩など知ったことではなく、チャイムがいつものように鳴った。







其の八の二「幼馴染」



「ところで武文」
 帰り道。
 正確には、五人に引き摺り回された後の、本当の意味での帰り道のこと。
「そろそろ<戦>に参加したいのだけど」
 右からレーフがそんなことを言って来た。
 今の格好はもう制服ではない。薄茶に色づいた、皮革製と思しきロングコートに身を包み、長靴の音をさせている。
「あー……そうだなあ……」
 契約して一月、申請が受理されて三週間。少なくとも三ヶ月に一度は<戦>に参加しなければならないという規則は、逆に言うならばあと二ヶ月ほどは問題ないということであるが、そもそも魔神は<戦>をしたがるものである。
「ねえタクちゃん、<戦>って危なくないの?」
 今度はレーフの逆から声がかけられる。
 心配そうな顔をしているのは隣に住んでいる前園明葉だ。呂律の怪しい幼児期、『たけふみ』と言えずに『たきゅみ』になっていたのを受け、未だに『タクちゃん』と呼ぶ。
 おかげで昔から親しくない人間に名前をよく間違えられることになり、あとは十歳になるころには呼び方そのものが恥ずかしかったので、直してもらうべく半年くらいは努力したのだが、明葉は頑として変えようとしなかった。
 ついにはどうでもよくなり、今ではまた慣れた。
「ま、問題ないだろ。前とは状況が違うからな」
 武文は歩きながら西の空を仰ぎ見る。
 真夏だというのに咲き誇る、おそろしく巨大な桜はここからでもよく見えた。
「でも一回見に行ってみたんだけど、<力>が切れてても知らないよとか書いてあったよ……?」
 明葉は心配症である。クラスでも低い方から二番目の身長にうつむきがちで気弱そうな表情、という外見的な印象を裏切らない。
「……わざわざ行ったのか、あんなとこまで? お前自転車持ってなかったよな?」
 思わず目を丸くした。
 自分たちが住んでいるのは学校から南へ1kmほどの場所だ。桜までは直線距離でも3kmほどある。歩いて行くには少々遠いと武文は思う。
「だってタクちゃんが心配だったんだもん……」
 口をへの字に曲げた、拗ねたような顔は幼い頃から武文だけに見せるものだ。
 しかしそれを向けられた武文は半眼で頭を振った。
「俺の心配する前に夏明けの試験の心配でもしとけ」
「……む」
「前の時、おばさん微妙な顔してたぞ」
「…………む」
 よく思い当たるのか、明葉も如何とも言い難い顔になる。
「……一応、四分の一くらいだもん」
「下からな」
 言い訳にもなっていない台詞に間髪入れず切り返し、武文は安らいだ気分で笑う。
「せめて真ん中辺目指せよ」
「タクちゃんだって別に成績よくは……」
「先輩に教わったおかげか前回は上から三分の一だったんだ」
「あ、ずるい!」
 じゃれ合う影が長い。
 その影を踏みながら、レーフは心中で呟いた。
 さてはて、知らぬは当人ばかりなり。







其の八の三「守護」



 冬馬は大いに混乱していた。
 不機嫌そうな上級生三人に囲まれているということは無論のこと認識しているが、何故そうなったのかは推測することすら出来なかった。
 三人の誰とも面識はない。気に障ることをしたとも考えにくい。ならば何故、この人たちはこんな目をしているのだろうか。
 後ずさると背が壁にぶつかった。草の生い茂ったクラブハウス裏は狭い。
 悲鳴は喉の奥に押し留める。そんな格好の悪いことはしたくない。
「まったく心当たりがないって顔だな」
 正面の生徒が苛立たしげに言った。背は高いが痩せた、随分とひょろりとした印象の男子だ。
「まあ、ないだろうさ。ないだろうともさ。けどお前のせいで彼女と別れる破目になったんだよこっちは!」
「……え?」
 それでもやはり、訳は分からない。
「僕は別に誰とも……」
「弟にしたい男子ナンバー1なんだそうだよお前は」
「可愛げのない男と付き合ってるのは馬鹿らしくなったとさ。なんだよクソッ!」
 右と左も口々に、吐き捨てるように言う。
 八つ当たり以外の何ものでもない理由を、冬馬もようやく理解した。
 上級生のお姉さんたちに可愛いと言われているのは元々知っていたのだ。しかしやはり男としては可愛いと評されて嬉しいはずもなく、単に困っていただけだったのだが。
 謝った方がいいのだろうか。しかし悪いことは何もしていないはずだ。
「なんだよその顔は? 自分は悪くないとでも思ってるのかよ?」
「でも僕は何も……」
「うるせぇっ!」
 逆上の叫びとともに大きく腕が振り上げられた。
 冬馬はぎゅっと目を閉じ、身を固くし、しかし次に感じたのは痛みではなく上級生の苦悶の声だった。
「くああっ!? 腕、腕……!?」
 おそるおそる目を明けてみれば、自分を殴ろうとしていたはずの一人が地面に転がり、苦痛に身をよじっている。押さえた腕は前腕の半ばから折れ曲がっていた。
 残る二人は呆然としている。
「……え?」
 冬馬は戸惑う。
 冬馬は知らないのだ。







其の八の四「<守護神>」



 閉鎖世界が展開される。
 夕暮れの街の景色を切り取り、仮初めの世界が形成される。
「<白炎>の、そんなに急いでどこへ行く?」
 朱の光に七色の髪を揺らめかせ、カナトは悪戯っぽく笑う。給水タンクに腰掛け、流し目を送る。
 一方、クシャンドラは普段の慈母めいた表情を完全に失っていた。
「何のつもり? 冬馬が怖がっているの。待っているの。待っているのよ。行かなければならないの」
 鬼気迫る形相。
 怖い怖いとカナトは頭を振った。
「冬馬がいじめられでもしたの?」
「殴ろうとしたのよ? 私の可愛い冬馬を殴ろうとしたの」
「別にいいじゃない。あなたのことだから防いだんでしょう? 確か<守護神>だったはずよね?」
 <守護神>。
 魔神の有する神格のひとつであり、絶対数は少ないものの調べれば見つけるのに苦労はしない、ありふれたもののひとつだ。
 しかし、ある意味においては異様とも言える能力を発揮するのである。
「相手も可哀想に。素手だったら少なくとも折れてるでしょうね」
 カナトが肩をすくめる。
 <守護神>はたとえ星の裏側からでも、閉鎖世界の中からでさえも、契約者を害するものをすべて代わりに防ぐことができる。れっきとした攻撃は無論のこと、毒の類にも対応しているどころか誰の意図も関わらぬ天災からさえも護れるのだ。
 クシャンドラの契約者である冬馬を殴るということは、クシャンドラを殴ったに等しい。心得のない人間の攻撃など、何の対応もせずとも殴ったその力の反動だけで自滅するのである。
「可哀想? ふざけないで。ふざけないで。これ以上冬馬が怖がるといけないからやめておいたけど、本当なら粉々にするつもりだったのに」
「いやいやいや、粉々にしたら怖がるとかよりもっと冬馬が困ることあるから。落ち着きなさいな、あなただって分かってるでしょうに」
 カナトは嘆息する。普段のクシャンドラはとてつもなく温厚で、何を言われても笑顔を崩さないくらいなのだが、冬馬が害されようとすると目の前が見えなくなる。
 今も自分が気付いて閉鎖世界を展開したからよかったようなものの、放っておけば一目散に冬馬の許へと飛んで行き、暴力を振るおうとした相手の髪を真っ白にしてから校長にでも談判、色よい返事があるまで居座り散々脅していたに違いない。
 いや、これはまだ楽観的な推量なのだ。少し方向が変わるだけで死傷者が続出することは免れなくなってしまう。
 クシャンドラが無茶をするとそれは冬馬に返って来る。そして皺寄せは春臣にも押し寄せるのだ。そうなると色々と面白くない。
「家で出迎えてあげることを、あたしはお勧めするけど?」
 軽く、ごく軽く、カナトは告げる。
 しかしクシャンドラは既にその身を揺らめかせていた。
「あくまでも私の邪魔をするの? するならただではおかない……」
 炎だ。僅かにだけ朱の混じった、白い炎。身体の内側から漏れ出すようにして燃え盛る。
 カナトはもう一度、やれやれと言わんばかりに頭を振った。
 <白炎>のクシャンドラ。有する四つの神格のうち一つが<武神>である高位魔神。
「同じ階梯、正面から一対一でやり合えばあたしがあなたに勝つのはまず無理。でもね、クシャンドラ……」
 カナトは悠々と座ったまま、言葉だけで相手をする。
「正面から戦うわけないし、一対一でなんて馬鹿げたことはしないし、そもそも階梯はあたしの方が四倍以上に達してるわけね。あなたの可愛い冬馬のことを考えなさいな。学校の人間を脅すために冬馬を死なせたい?」
 本気で戦いを仕掛けてくるなら容赦はしない、などと改めて言うことはない。魔神にとっては意識の根底にあることなのだ。
 クシャンドラが消滅すれば、その契約者である冬馬も死に至る。あまりにも明らかなことを指摘し、刃とする。
 炎こそ収めないままであるものの、クシャンドラは苦しげに口許を歪めた。
 表情を読み取り、カナトはさらに続ける。
「過保護は冬馬を腐らせるわ。あの子は可愛くてあたしも結構お気に入りだけど、腐ったらさすがにいただけないわね」
 白炎が迸った。餓狼の顎の如くに襲いかかったそれは、カナトを覆ったところで内側から弾け飛ぶ。
 打ち破ったのは三つの雷球だ。そしてそのままカナトの周囲を旋回する。
「大丈夫よ、盗らないから。見て愛でるだけ。何の心配もないわ」
 カナトはその一つに手を伸ばし、掌に転がした。
「そう、何を心配することがあるの? <守護神>を有するあなたは、あらゆる災厄から契約者を守ることができるのよ?」







其の八の五「明葉と沙姫」



 月明かりに影が落ちる。
 あまりにも巨大な桜を明葉は見上げていた。
 また来てしまった。用もないというのに。
 帰ろうと思い、しかし踵は返せない。
 迷い、俯いては見上げ、そして。
「こんな夜中、こんな場所に何か用でもあるの? 前園さんが魔神と契約したなんて話は知らないけど?」
 張りのある、毒を含んだ声に明葉は身を竦ませた。
 驚いたというだけではなく、誰の声であるのかに気付いて怯えたのだ。
 おそるおそる振り返る。
 果たしてそこには、予想していた顔があった。
「……石神井さん」
 クラスメイトである石神井沙姫だ。
 沙姫は冷たく笑みを浮かべた。
「なんて顔してるの、クラスメイト相手に」
「う……」
 明葉も昔は沙姫のことが苦手ではなかった。
 今ほどではないにしても少々口の悪いところがあるくらいで、ごく普通に喋ることのできる相手だったのだ。
 そして、今怯えるのは後ろめたさが理由の大部分を占める。
 沙姫はこの四月に入ってから急にいじめの標的にされるようになった。男子の目には極力留まらぬよう女子の間だけで、一度沙姫が教師に告げてからは徹底的に水面下で続けられた。
 そうでなければあまり酷い状態にまではならなかっただろう。
 男子が女子の視線を気にするように女子も男子の目が気になるものだ。幼い頃であればいじめに参加することもあるだろうが、高校生にもなれば男にとっての女のいじめなど見ていて気分が悪いだけだ。必ず誰かが止めてくれたはずである。
 少なくとも気づきさえすればタクちゃんは止めたはず、と明葉は思う。
 一方、自分は止められなかった。見て見ぬふりだけで精一杯だった。
 魔神と契約してからの沙姫は変わった。
 魔神の力を背景とすることにより、無力だった敵意は無形の力を得た。実際に振るわれたことこそないが、同じく魔神をしてしか対抗し得ない暴力は絶大な圧力となった。
 そしてそればかりではなく、沙姫自身、容赦がなくなった。
 かつてのように友人を盾に取られても、好きにすればいいと答えるようになった。
 いや、きっと既に友達のつもりはないのだろう。現在、明葉の知る沙姫は孤独だ。孤独で、冷やかに教室を見渡し、多く毒を含む。
 その無造作に抜き放たれた刃のような様こそが周囲を威圧しているのだ。
 魔神を背後に置こうとも、本当に人間に対して力を振るわせればそれは契約者の罪となる。しかしそれでも、今の沙姫には何かあれば躊躇なく振るわせかねない雰囲気がひしひしと感じられるのである。
「それで、何か用でもあるのか……って、わたしは訊いたわけだけど、答えはないの?」
「あ、その……」
 喉が大きく動くが、それだけだった。何も呑み込めない。口の中がからからだ。
 クラスメイトだ、クラスメイトだと自分に言い聞かせ、なんとか答えを絞り出す。
「用は……その……<力>は……そう、タクちゃんが借りられる<力>は余っ……」
 言葉は途切れた。
 沙姫の視線が睨み殺しそうなものになったことに気付いて震え上がった。
 ゆっくりと歩み寄って来る沙姫から逃げようと、無意識に後ずさる。
 恨まれている、その確信が明葉にはある。沙姫は時々、こんな目で自分を見ている。
「……ご、ごめんなさ……」
「どうして前園さんに謝られてるのか、わたし全然分からないわ」
 もう沙姫の姿は目の前にあった。表情はまた冷ややかな笑みに戻っているが、近くで見れば口許の弧がわざとらしいことに気付いてしまう。20cm近い身長差も大きな圧力だ。
「し、四月に……」
「四月に?」
「何も……できなかったから……」
「ああ、知らんふりしてたこと?」
 沙姫は鼻で笑った。
「そんなことでは怒らないわ」
「でも……」
「怒るわけないのよ。前園さんには最初から期待してなかったもの」
 むしろ、怒っていると言われるよりも容赦のない言葉。
 明葉は絶句した。
 沙姫はそのまま押しのけるようにして明葉の立っていた位置を通り過ぎ、それから改めて振り返った。
「帰った方がいいわよ? ここには二度と来ない方がいいわ。前園さんが春宮君のために<力>のことなんて心配する必要はないの」
「でもタクちゃんはあたしのっ」
「うるさい黙れ」
 ぞっとするほどに粘ついた熱さ。武文のこととあって取り戻した、明葉の立ち向かう気力は一言で粉々にされた。
 この暑いのに、どうしようもなく寒い。
 これ以上、いられなかった。沙姫を視界から外すと、言い知れぬ恐怖に背を押され、転がるようにして山道を下った。







其の八の六「対価」



「……本当に、馬鹿なんじゃない……?」
 ンキュルコス=フェ=カレンが細い声で嘲笑う。
「……あの子がさっきの顛末を話したら、想い人からの印象は最悪。頭悪いわね、沙姫……」
「盗み聞きなんて趣味が悪い」
 負けず、沙姫は言い返した。
 そしてンキュルコス=フェ=カレンをしかと見つめ、ふと気付いて狼狽する。
「ちょっと待って、想い人って何のこと?」
 とぼけてみるも、不意を打たれて頬が熱い。今が夜でよかった。そうでなければ真っ赤になっているのを隠せなかったろう。
 しかし沙姫のその思いはいとも容易く砕かれた。
「……頬が赤いわ。鼓動が二倍の速さになっているわね……」
 含み笑い。
「……あなたが向けていた妬みの感情と、あの子が何を言った時にあなたがどう反応したか。そこから簡単に推測できるわ。気づかれないとでも思っていたの? あなた馬鹿なの? 真性の馬鹿なの……?」
 何度か話しているうちに覚ったのだが、実のところンキュルコス=フェ=カレンの言葉には稀にしか悪意がない。だから沙姫もそれほどは腹も立たなくなってきたのだが、やはり不快ではあった。
「……それで? あの子とは違うあなたは何をしに来たのかしら? 私に馬鹿にされに来たの……?」
「……オキュレイのことを教えて」
 胸を押さえ、そうすることによって動悸が治まるのではないかという埒もない空想を実行しながら、ここに来た理由をはっきりと告げる。
「エクサフレアから聞いたわ。あなた、すべての魔神を知ってるんですってね」
「……そうよ? でも教える義理はないわ……」
 ンキュルコス=フェ=カレンのくちびるが嘲弄の弧を描く。
「……だから取り引き。情報と引き換えにあなたは何を貢ぐの? 何を差し出すの? 大事なもの? 下らないもの? どちらにせよ馬鹿だけど、どっちの馬鹿になりたいの……?」
「ああっ、もう! 馬鹿馬鹿うるさいわね、馬鹿しか言えない馬鹿なの?」
 そんなことを言っている場合ではないと分かってはいるのだが、こうも連呼されると一言くらい言い返してからでなければ気が済まない。
「逆に訊くけど、あなたは何が欲しいの? わたしにできる範囲でなら叶えてあげるわよ」
 それはあらかじめ考えてあった台詞だ。
 ンキュルコス=フェ=カレンは他の魔神についての知識に対価を求める可能性がある、とエクサフレアが言っていた。むしろ求めない時こそ危険なのだとも言っていた。
 正直なところエクサフレアのことは苦手なのだが、助言は素直に受け取った。
「……嫌がらせならいくらでも浮かぶけど、欲しいものというのはないわね。精々無い知恵しぼって考えなさい……」
 また、含み笑い。ンキュルコス=フェ=カレンは迷いを見せなかった。
 欲しいものはないけれど私を楽しませなさい、というつもりなのだろうと沙姫は思った。
 それでもまだ食い下がってみる。
「本当に何もないの? クォレアーカはあれこれ欲しいもの言ってくるわよ?」
「……次に訊くと交渉決裂……」
 <歌姫>はにべもなかった。とても細い、それなのにぞくりとするほどよく響く声で宣告する。
 沙姫の思考を読むかのように、仮面の奥から覗き込んで来た。
「……あなたが考えることに意味があるの。役に立たない脳なんか掻き出して替わりに豆腐でも詰めておきなさい……」







其の八の七「水鏡」



 今夜は珍しい客を迎えている。
 一郎は彼女の前にコーヒーを置き、ちゃぶ台を挟んで向かいに座った。
「コーヒーは飲めたな、確か」
「ああ……」
 両手で包むようにして熱さを確かめ、クォレアーカは頷いた。
 クォレアーカだ。
 沙姫が連れて来ることはよくあるが、独りで来たのは初めてなのだ。
 クォレアーカは手の中でカップを右左と回しながら液面の波紋を眺める。
 気にせず、一郎も自分のものを啜った。今日はブラックだ。飲み方にさほど拘りはない。気分によって変える。
 隣ではゼフィータが、こちらもクォレアーカと同じくカップを両手で包んでいる。
 ほとんど音のないままに時が過ぎてゆく。虫の鳴く音が外から僅かに入ってくるのと、一郎がちゃぶ台にカップを置く音がすべてだった。
 が、やがてクォレアーカが躊躇いの末に口を開いた。
「……いつもみてーに何かやんねぇのか? 年中沙姫に背中向けてる気がするんだけどよ?」
「嬢ちゃんに私が必要なときはほとんどなかろうに」
 沙姫は遊びに来ているのだ。それも大抵は、ゼフィータにちょっかいをかけては無視されるかクォレアーカとゲームでもしているかのどちらかであり、其処に一郎がいる必要はない。
 しかし今夜のクォレアーカは違う。初となる独りでの来訪、迷うような様子から思えば、何か相談したいことでもあるのだろうと推測することは難しくない。
「話があるなら聞く。ゼフィータに用なら私は外す。どうする、クォレアーカ?」
 低い、しかしその割にはやわらかな声。
 その時、クォレアーカは確かに戸惑いを見せた。両手で口許にカップを近付けたまま視線を彷徨わせる。
「えと……行かなくていい」
 そしてまた沈黙。
 一郎は促さない。コーヒーを更にもう一杯淹れて来て、また啜る。息を吐いたら眼鏡が曇った。
「……何やってんだよてめェはよ」
 思わずというようにクォレアーカが呆れ声を出す。
 一郎は何事もなかったようにハンカチでレンズを拭き、かけ直した。
「そういうこともある」
「ンだよ、それ」
 小さな笑い。それで胸につかえていた最後の惑いが抜けたのか、クォレアーカはくちびるを閉じることなくそのまま続けた。
「……実はさ、群れのいい動かし方を教えて欲しいんだ」
 単刀直入に望みを告げたその言葉は内容からすればゼフィータに向けたものだが、眉を動かしたのは一郎の方だった。
 極めて珍しいことなのだ、戦いに関することで魔神が他者に教えを請うなどということは。
 しかし眉をぴくりと撥ねはしたものの、驚きはそれだけに留めた。
「まあ、なんだ……色々あって、次の<戦>は絶対に勝ちてーんだよ」
 クォレアーカは視線を逸らして頬を掻く。どこか照れたような印象があった。
「沙姫が本気なんだ。負けるわけにはいかねえんだ」
 ゼフィータは無言でじっと見上げている。是と肯うか否とかぶりを振るかは一郎も知らないが、漠然と伝わるものはあった。
 クォレアーカもまた、じっと見つめ返している。
 ゼフィータの瞳はまるで水鏡だ。そこには、己が映し出されるのだ。怯えて息を荒げれば、歪んだ己が見えるのだ。







其の八の八「鉢合わせ」



「んー…………あれ?」
「よっ、と…………ん?」
 沙姫とクォレアーカは大黒家の前で出くわし、互いになんとも微妙な顔で見つめ合った。
「てめ、一体なんだってそっちから来るんだよ? 風呂入ってるんじゃなかったのかよ?」
「クォレアーカこそ、どうして大黒さんの家から出てくるの? コンビニに買い物に行って来るんじゃなかったの?」
 既に半ば答えを悟りながら、間の抜けた質問を投げ合う。
 返事はない。可笑しさが込み上げて来て、次第に肩が揺れ出す。
「なによ、下らないんじゃなかったの?」
「るせェよ。てめーに言われたかねぇな」
 沙姫がクォレアーカの頬を突けば、クォレアーカは沙姫の頬を両手で伸ばす。
「ひたいはね、ひゃべりにくいひゃないの」
「まあ、なんだ……目にもの見せてやろうぜ」
「言われるまでもないわ」
 クォレアーカの手を払い、沙姫はにやりとしか表しようのない笑みを浮かべた。









其の八の九「無色」



 ゼフィータは、知らないと言う。
 ゼフィータにとって知っているとは、存在を知っていることでもなければ、理解していることでもない。
 知識ではなく、完全に己がものとして体得して初めて、それを知っているとするのだ。
 だから何も知らないと言う。
 そしてじっと見つめるのだ。
 その灰白色の瞳に映る己は果たして何を体得しているのだろうかと一郎は思う。
 忸怩たる思いではない。色のない自問だ。










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