其の十三其の十三の一「疑問と答え」 それはまさに、沙姫にとってこの上なく重大な質問だった。 「明葉を敵視する理由を教えて欲しい。このままじゃすっきりしないからな」 昼休みの屋上。今日はその手前ではなく本当に屋上に出て、先を行く武文が振り返りざまに放った言葉だ。 何の衒いもなく、真摯にして単刀直入。 きっとわたしに良い印象はないはずなのに決めつけることなく話を聞いてくれるのだ、と沙姫は胸が熱くなる。行動している理由が前園明葉のためであろうことは気に食わないが。 くちびるが動く。 あなたのことが好きだから、と言いかけて、実際には何の音も出なかった。わずかに息が漏れただけで噤まれる。 さんざん悩んで、まだ決められない。今言えばどうなるだろうかと計算がはたらいてしまう。 「明葉は虐めのときに云々とか言ってたけど、多分違うんだろ? それだと明葉だけってのはおかしいからな」 「……そうね」 それは肯定。問題はない。 本当にどうしよう。少し目を伏せる。 すると、武文がやや語調を弱くして言った。 「その時は気付いてやれなかった俺も同罪だけど。済まなかったな」 「いいの」 ふと、小さく笑みが漏れた。 「あれは自分で叩き潰すべきものだったのよ」 馬鹿げたことをやったのだとは思っていても、何と言うのだろうか、むしろその愚かしさがある種の誇りだった。今抱える様々な問題の原因なのだとしても、過去の自分を否定する気持ちはまったくなかった。 少しでも笑えたことで首のあたりの重りがするりと抜けた。 屋上は汚いが、顔を上げると空は綺麗だ。 「ねえ、春宮君」 「なんだ?」 「やっぱり誰しも敵っていると思うの」 真正面から見詰めながらそんな言葉を告げたからだろうか、武文が明らかに気を張るのが分かった。 言うことを間違えたかもしれない。それでも口にしてしまったからには、続けた。 「わたしも敵を作りたいわけじゃないの。それでも敵にしかなり得ない相手っていうのはいるのよ」 「それが明葉だって言うのか? あいつは誰かに恨まれるような奴じゃ……」 「どんなに人畜無害だって関係ないわ。現に、本心でなら何人もいるはずだもの」 武文に想いを寄せているあの五人にとって、明葉は本来敵である。しかし明葉自身への好感のためか、あるいは武文までも敵に回しかねないという計算があってか、むしろ仲間になることを選んだのだ。 「春宮君の周りに集まってる子たちのことよ。あの不自然なほど仲良しな集団。分かってる? どんなに抑えても、心のどこかでは妬ましいはず」 「……明葉はそういうんじゃない。幼馴染だ、別問題なんだ」 さすがに武文も歯切れ悪く、苦い表情で応える。否、苦いどころではない。半ば泣き笑いのようですらあった。 ああそうか、と沙姫は察した。武文は多数から言い寄られることに苦労しているばかりではなく、苦しんでもいるのだ。 ここで自分までも打ち明けたらどうなってしまうのだろうと不意に思ってしまった。 「ねえ、春宮君……」 胸の内で幾つもの衝動が湧き起こる。 例えば追い詰めて、追い詰めて、そして武文とあの集団との関係を壊してしまうように持って行けたとしたらどうだろうか。そしてその後に自分が入り込むことは出来はしないだろうか。 そんな馬鹿な。これ以上苦しませてどうするというのだろう。自分の胸だって痛いのに。 ならば引き下がるか。それも出来ない。何となく好意を抱き始めた頃ならまだしも、今ここまで来ておいて。 「……本当に、ただの幼馴染? 間違いなく? 絶対に?」 いずれの衝動も表には現れなかった。替わりに尋ねた。 そうも重ねた質問の意味は武文にも通じたようだった。唇をきつく引き結んだのだ。 沙姫は投げかける疑問を確かなものとするため、最後にもう一つ加えた。 「もし前園さんが恋人になりたいと言っても、春宮君は断るの……?」 風のない空には一切れだけ雲が留まっている。校庭からは、何か球技で遊んでいるのか歓声が聞こえて来た。 しかし屋上は静かだ。 武文の沈黙は肯定も否定も意味しないが、少なくとも迷いと可能性を示していた。 「ねえ、春宮君」 沙姫は三度名を呼んだ。 「その沈黙が私に教えてくれる。やっぱり前園さんはわたしにとって敵にしかなり得ない。最低でも六人目なわけだから、これが最初の質問に対する答えになってるって分かってくれるわよね?」 其の十三の二「残されて」 よもや。 よもやこんなことがあろうとは。 沙姫が立ち去った後、残された武文はフェンスを両手で掴み、額を押し当てていた。 ドアの向こうに消える直前に沙姫が言い残した言葉を反芻する。 『心配しないで。わたしは今までと同じくらいにしか近付いたりしない。答えだって急いでくれなくていい。ただ、冷静に心が決まるまでは覚えておいて。何年でも』 そこで彼女は一度沈黙して。 『春宮君が苦しんでるのは分かってるんだけど……ごめんね』 そして消えた。 どうすればいいのだろう。自分は一体何を思っているのだろう。 分からない。自分自身の心なのに、何よりも訳が分からない。 フェンスがぎりぎりと絞り上げられる。 「どうしろってんだよ……」 呻きを聞くものは、音のない空だけだった。 其の十三の三「懊悩という空回り」 「武文、次の<戦>の準備を……」 契約者の部屋を覗き込んだレーフは、机にがんがんと頭を打ち付けんばかりの空気を撒き散らす武文に気付き、途中で言葉を止めた。 帰って来てからずっとこうだ。事情は既に聞いたが、困ったものである。 実際のところ、<戦>に関しては構いはしない。元より戦略も戦術も独りで充分ではある。ただ、初戦のときのように思わぬ案を出してくれるかもしれないので相談するに越したことはない。 真剣に悩むのは武文の美徳だ。決して過剰に真面目なわけではないが、他人の思いに気付けばいちいち律儀に受け止めてしまう。 中途半端なのだ。それぞれと絶妙な距離を上手く取れるほどにまで器用であるか、逆に最初から突っぱねざるを得ないほど不器用であれば、同じ悩むのでももう少し楽だったろうに。 むしろ欠点と呼んでいいのかもしれない。だから美徳なのである。 そうであるから惹きつけ、そうであるから誰も諦めて退いてくれないのだろう。良くも悪くも因果応報だ。機会を得たことすら踏み込むと決めた自分自身のもたらした結果なのだ。 しかし殊の外、今の武文は苦しそうではあった。 「石神井沙姫は割と特別ということ?」 部屋に入り、尋ねる。 武文は振り返ることもなく乱暴に頭を掻き毟った。 「特別っていうんじゃなくて、なんていうんだろうな……何もかも訳が分からん」 どうやら思考力そのものが碌にはたらいていないらしい。 「とりあえず気を落ち着けてから、改めて考えればいいのに」 マルベリーの髪を揺らして至極冷静に指摘してみるが、聞き入れる余裕もなさそうだった。 岡目八目。レーフは少なくとも今の武文自身よりもその心情を的確に推測することが出来ている。 しかし口にすることはなかった。それではあまりにも不公平になるからだ。 選択肢とは、必ずしも心に沿うものが選ばれるわけではない。 其の十三の四「次回作は絶望的」 『分からぬ……貴様らは何故に、脆弱な人間に従うのだ』 「確かに人間の力は弱い。私たちと比べれば赤子のようなもの。でも互いを想い、手を取り合う人間の強さは、あるいは私たちを越えるものかもしれない」 『戯言を。毒されたかレフィレティア。哀れだな、<闘神>の称号が泣く』 「哀れなのはあなたよ、<魔王>アズィカムーイヤーナ。あなたは独り。どれほどの力を誇ろうとも、支えてくれる誰かのいないあなたは、結局は倒れてしまう」 『よかろう。そこまで言うのであればその手で証明して見せるがいい』 「あのな、粟飯原君」 また研究室でゲームに耽っているのを見つけ、一郎は苦笑した。 「電気窃盗になるというに。所属する限り、そこの決まりごとは守らんと」 「やー、せんせ、結構えげつないこと言うやないですか」 院生、粟飯原武弘はこちらをちらりとだけ振り向いてにやりと笑った。 「所属を止めればええっちゅうことですか」 「それは否定せんが」 苦笑が濃くなる。 辞めると拗ねているわけでも辞めろと脅しているわけでもない。本当に、異様なほど頭がはたらくのだ、この院生は。些か穿ち過ぎではあるのだが、実のところ誤ってもいない。 「やー、なかなか興味深いですよ、せんせ。さすが人気高いだけあって、人間が魔神をどう見てどうなることを望んどるか、よう分かります」 「そうかい」 軽い口調に対して、一郎は重く低く頷く。 まさに、このゲームは人間の願望を表したものだ。だから大勢に受け入れられることが出来るのだ。 『Demon Blood』は、その話の筋において人間そのものを持ち上げている。人が想いの強さで魔神を制する物語になっている。 格別珍しいものではない。想いは古から物語の核であり続けた、言わば王道だ。 「これは無難な方ではあるさ」 力や謀で制するのとは違い、現実から決して遠くはない。魔神は人の想いを比較的好む方だ。とは言えそれで制するのは無理があるし、称賛するのもあくまでもその個人のみであるのだが。 想いでは、厳密には違うのだ。 「やー、二作目出してくれたら面白そうやのに、なんかこれ作ったとこ潰れたらしいですやん?」 「らしいな」 一郎は素知らぬ顔で流した。 人間の願望はさして気にもされていない。クォレアーカが言うには面白がって遊ぶ魔神もいるそうだ。彼女自身はあまり気に入らないらしいが。 ただ、データを非常に気にする知り合いが一柱。 其の十三の五「好意の在処が擦れ違う」 円い月の中を黒い影が過る。 エクサフレアは今宵も空を舞っていた。宝石箱のような街を見下ろしながら、小指をそのくちびるに這わせて艶然と笑う。 「次は……何をしようかしら」 気だるげな口調も今は少しばかり弾んでいる。 エクサフレアのお気に入りは多い。それも、矛盾を気にしない。 例えば沙姫。鬱屈した思いが積もり、腐り、毒となってゆく以前の様は素敵だった。いつ破裂して撒き散らされるのか期待していた。しかし意図して毒を抜きながら四苦八苦している今の沙姫もお気に入りだ。 心変わりではない。また以前の様に戻っても一向に構わないのだ。 様々な、今そうである姿を楽しめるエクサフレアのお気に入りは、本当に多いのである。 ただし同時に、細かい。その誰か、何か自体が別のものであった場合、何の価値も感じなくなってしまう。僅かな違いしかないとしても、僅かであるからこそ決定的な齟齬を起こす。 「……あら」 平和過ぎて退屈なこの国ではあるが、ここ数週間はなかなかに面白い。 その理由の一つが今夜も来た。 自分に対する呼びかけだ。魔術書を開き、魔方陣を描き、供物を捧げ呪文を唱える様が見える、聞こえる。きっとまた何か望みが出来たのだろう。 しかしその一切に効果はない。何かを誤っているのではなく、そもそも人が思って来た神や魔がこの泡沫には存在していない以上、正しい方法からしてあるはずもないのだ。 今も呼掛けがエクサフレアに届いているのではなく、エクサフレアが声を文字通りに聞きとり、そこから姿までも感知しているだけなのである。 「……いいわ。行ってあげる」 蠱惑の弧を描くくちびるは残酷だ。 エクサフレアは他者の望みを叶えるのが好きである。しかし何でも聞き入れるというわけではない。叶えるか否かは相手と内容とによって決める。 「でもそろそろかしら、ね……」 この呼掛けを行っている人間の望みは徐々に大きくなっている。今までは形ある物を欲しがっていたが、もう形ないものに心が向いているようだ。 エクサフレアは他者の望みを叶えるのが好きである。それは善意ですらない、ただの嗜好だ。 叶えられぬと知ったときの逆上や己が望みによって破滅する様も比較的面白いものではあるが、目的には入らない。あくまでも、叶えるのが好きだから叶えるだけなのである。 だからこそ、残酷なのだ。 其の十三の六「クェス」 とんとんと、俎板で包丁が踊る音。 味噌汁の香りが狭い部屋に漂っている。 隅の漆喰が剥げた壁、がたつく窓。寝室兼居間兼食堂である六畳間を除けば押入れと台所しかない、そんな部屋で構成されたアパートは嵐が来れば倒壊しそうだと近所で評判である。 利点は一つ。殊の外、家賃が安いことだけだ。 七瀬良一はその利点を採った。このアパートでなければ、奨学金で学費は賄えても生活費が足りないのだ。 もっとも最近は随分と楽になった。魔神との契約に対して下りる補償金は正直有り難かった。 「もう少しですからね、ご主人様」 台所からひょいと笑顔を見せたのは銀髪紫瞳、魔神クェスルン=ガナトリアである。 良一の愛用だったひよこマークのエプロンをして、夕飯を作ってくれているのだ。 「急がないでいいよ。私もやることがあるから」 書きかけのレポートを鉛筆でちょいちょいと示すも、返って来たのはいっそうの笑顔だった。 「いえ、本当にあと少しでできちゃうんです」 「そうか、なら……」 むしろこちらをそろそろ片付けた方がいいのだろう。遅れて、折角の美味い料理が冷めるのは勿体無い。 レポート用紙と筆記用具を手際よく仕舞い、さすがに時間は余ることになったので<戦>のパンフレットを手に取った。 今週の特集は四季春臣と魔神カナトである。なんともけれん味溢れる掛け合いが妙に楽しい。 内容は、前半が出会いから今までについて、後半が他の参加者について語ったものである。 その中には良一たちのこともある。それぞれのペアを将として捉え、言及しているのだが、神算鬼謀の将なのだそうだ。正直、面映ゆい。 「なんだか凄いこと言われちゃってますね」 出来上がった夕飯をお盆に載せ、クェスルン=ガナトリアがやって来た。笑顔ではあるが、少し困ったような色を帯びてもいる。 彼女は争いが好きではない。<戦>も、参加しないわけにはいかないからせめて早く終わらせようとしているくらいなのだ。 「私たちは私たちで気にせずやっていけばいいさ、クェス」 せっかく出会ったのだ、彼女の手伝いを精一杯してゆこうと良一は思っている。補償金はありがたいが、あくまでもおまけだ。無くなるなら無くなるで一向に構わない。 そして彼女は一杯の笑顔を返してくれた。 「はい、ご主人様」 其の十三の七「日和見の代償」 「ふうむ」 四季春臣はパンフレットを片手に眉をひそめていた。 開いているのは特集ページ、自分たちの受けたインタビューの記事だ。 「どうしたのよ、何か違うことでも書かれてた?」 万色に移ろう髪を揺らし、カナトが問うて来る。 春臣は表情を変えないままにかぶりを振った。 「いいや、多少口調が違うくらいのものだ。腐っても役所の発行物だな」 「じゃあどうしたの?」 「いや、いつもの調子で答えた方が良かったかもしれんと思ってな」 小さくため息をつく。 自分の台詞回しは相手によっては不穏当と取られる可能性があると理解しているため日和見をしたのだが、おかげでどうにもすっきりとしないのだ。調子が出ない。 春臣にとって、調子が出ないということは由々しき問題だ。頭で勝負をすると自負する身には、ものを考えてもすぐに気が散ってしまうことに焦燥を覚える。 「じゃあ今からでもやり直す? 実はあたしもあれ聞かないと違和感が」 「そうさな……」 カナトの提案に、春臣は少しだけ迷ってからにやりと笑った。 「虚しいと思うことこそが今更か」 其の十三の八「将という評価」 「それで、春臣君はどのペアが一番厄介だと思うの?」 カナトが問う。 それは最初から、インタビューのときとは異なっていた。むしろ続きに近い。 しかしそれでいいのだ。焼き直す必要はない。 「決まっているだろう。誰に訊いても同じ答えになる」 「七瀬良一・クェスルン=ガナトリアね」 「異常だぞ、あれは。五戦で八十階梯など俺の知る中で二番目の早さだ」 初戦で見せた<アインヘルヤル>の強さなどむしろ序の口だった。それからの四戦、対戦相手はそれぞれ悪夢を見せられているような気分だったろう。相手がどのような布陣で来るのかを完璧に見抜いているとしか思えぬほど的確に群れを選び、配置しているのである。 あそこまで相性良く戦えれば、もはや戦場での指し手としての腕など悪くさえなければいい。 「読んでいるのか、それとも取り引きでもあったのか。当然後者を疑うところだが……」 「そんなのを認める魔神はいないわよ。人間はともかくとして」 「そう、人間ならまだしも魔神は許すまい。となれば前者、読んでいるということになる」 しかしそちらも信じがたい芸当だ。召喚方式に得手不得手がある以上は扱う群れには偏りが出て来るものだが、それでもリフローザのように必ずこの群れを用いるとまで決まっていることは少ない。 「大黒一郎でさえ大抵は、想定される様々なパターンに対して最も無難にやり合える群れを選択していたというのに、奴らはピンポイントだ。読んでいるのであれば常軌を逸している」 「あたしたちのことも読むかしら?」 カナトは笑う。楽しそうに笑う。 「読むだろうさ。唐繰りがあるにせよないにせよ、読むに違いない」 春臣も楽しげに笑う。笑いながら、その双眸は徐々に細められていった。 「とは言え、それでも奴らは将だ。戦える」 「ふぅん」 その言葉の意味を、誰と比べたのかをカナトは十全に理解していた。 「やるの?」 「やるともさ」 声は抑揚に満ちている。 「同じ畑の格上だ、奴らとやらずして誰とやる」 其の十三の九「理解」 なんてことだろうと沙姫は思う。 想いを告げ、上の空で午後を過ごし、湯船の中で今湧き上がるのは恐怖だった。 振られたらどうしよう、ではない。もしも選ばれたらどうしよう、とふと思い当ったことから震えが走り始めたのだ。 叶えばそれはきっと、横から奪い取る行為に映ることだろう。恨まれ、陰口も叩かれることだろう。自分だけならばもう慣れてしまったが、今度は武文も対象になる。 他者を蹴落とす覚悟がなかったわけではない。元より色恋などそういうものだと思っている。こと自分の思い人に関してはそれ以外になりようもないと推測もしていた。 それでもさすがに、何の躊躇もなくとまではいかなかった。胸の内に確かに存在する後ろめたさに気付き、今更と笑った。気を強く持とうとした。 言い聞かせたのだ、自分に。今更だと。今までも蹴落として来たではないかと。 熱い湯に波紋が走る。震えが止まらない。 今になって、ようやく理解したのだ。今まではそうであると認識していただけ、聞かされた知識を持っていただけ。具体的に想像することは避けていた。 魔神は完成に至るまで、階梯がおよそ三か月の間上昇しなければ自動的に契約者を<力>に変換して一階梯上ってしまう。<樹>が創られる前に蹴落とした人たちは、一体何人が犠牲になったのだろうか。 勿論、自分との一戦で再起不能に追い込まれたのは一部だろう。三か月という期間にしても、そもそも自分がクォレアーカと契約してから<樹>が創り出されるまでの期間が三か月に達していない。 だが、それは何の保証にもならないのだ。<戦>の時点でもう三か月が近かったかもしれないし、結果的には間に合うはずだったとしても迫り来る死の恐怖に耐えられなかったかもしれない。 沙姫は、ただ死を待つだけの絶望感を知っている。ほんの二週間ほどだったが、本当に自分自身のものとして味わっている。 一人や二人は、きっといる。命を落としている。 震えが治まらない。 「違う……わたしは悪くない……」 呟く反響が亡霊の声のようだった。 実際、勝者に責はない。元からそういうものなのだ。死を承知の上で魔神と契約し、<戦>に参加しているのだ。己の死は己の決断の結果であり、他の誰をも恨むべきではない。 この理屈で大抵の勝者は納得しておける。深く考えずに、そして勝者のままでい続けることが出来れば何の問題もない。 しかし、いかに正しかろうと今湧き上がる震え、水底に引きずり込まれそうな寒さは圧倒的だった。 口許が歪む。 「そうか……これだったんだ……」 千組の犠牲の上に立つ覚悟はあるのかと、かつて志藤絵里歌が問うたその意味を、沙姫はようやく本当に理解した。 自分は<樹>に二重の意味で助けられていたのだ。 「絵里歌さんや大黒先生は……こんなのを知ってたの……?」 目の前に上げた手が目に見えて震えている。 沙姫は両手を胸に押し付け、力を込めた。震えよ止まれと歯を食いしばった。 再び目を逸らすことなど出来ようはずもない。したくとも、もう忘れられない。だからと言って、仕方がないことだったのだと言いたくもない。 問われればそういう覚悟の下に行うものであるからとしか答えようはないだろう。だからせめて呑み込むのだ、自分の思いをしかと胸の中に。 「教わったこと覚えてますよ、大黒先生。わたし、やってやるんですから……」 恰好良くなりたいのだ。立ち止まる気はないのだ。 他者を犠牲にするということを確かに理解して、これを越えなければと強く思う。 どのくらいの間、そうしていただろうか。 湯の熱さが戻って来た。温くなっていたが、いっそ身体が燃え立つようだ。 「……負けない」 思考が還って来る。 もう一度、目の前に両手を広げた。震えていない。 遠慮はしない。選ぶのは向こうだが、ただ待ちはしない。奪い取る覚悟なら今こそある。 叶わずに終わる覚悟だってある。来て欲しくはないけれど、きっとしばらく泣いてしまうだろうけれど、構わない。 石神井沙姫は凛とくちびるを結んだ。 |