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ねぎとろ丼

ねぎとろ丼

私は狂気を操れない。〔後編〕-コミトレ版

※ 〔前編〕 からの続き


   『脱兎』

 ある噂を耳にしたことがある。
 罪を犯したことで地球に堕とされたという、月のお姫様の話である。
 その姫様は今、地球の幻想郷という隔離された日本国の奥深くで隠れるように暮らしていると。
 月の住民も一緒にいるらしいので、事情を話せば置いてくれるかもしれない。
 そう期待した私は月を離れ、幻想郷を目指した。

   ※ ※ ※

 無我夢中で動き回った。結界を越え、野を越え川を越え家を越えて、ついには竹林の中へ。
 辿りついた先は、地球の兎達が住まう隠れ家のようなもの。
 間違いない。姫様と月の住民が住まうところだ。
 尋ねてみると、地球の妖怪兎が出てきた。名前は因幡てゐというそうだ。
「私は月の兎、レイセンです。ここに月のお姫様と、住民がいると聞いてやってきたの。都合が良ければ、会わせて欲しい」
 地球の兎てゐは私の頼みを聞いて、取り次いでくれた。
 お姫様と月の住民が会ってくださるそうで、誘われるがまま客間へ。
 地球の兎に淹れてもらったお茶で一服しながら待っていると、奥からお姫様と月の住民がお見えになった。
「初めまして、レイセンと申します。突然の訪問に応じてくださって、ありがとうございます」
「ようこそ永遠亭へ、月の兎よ。私は姫の付き人、八意永琳。そしてこちらに見えるのが姫の、蓬莱山輝夜」
「初めまして、レイセン。随分慌しい様子でここまで来たのね」
「はい……」
 私は姫様と永琳様に、今の月がどうなっているかを話した。
 地球の人間が攻め入っていること。月が占領され始めていること。
 月と地球が話し合いで平和的な終戦を試みている話があったにも関わらず、地球軍兵士の襲撃を受けたこと。
 そして自分はそこから逃げ出してきたということ。
 話を聞いてくださった二人は真剣な表情で、考え事をし始める。
 そのうち、姫様が重たい口を開いた。
「レイセン、正直なところ地球の者が月に攻め入ったという話が信じられないの。でも、現にあなたはこうして逃げ出し、私に状況を伝えてくれた」
「はい……」
「辛かったでしょう? 私はここに引き篭もっているから詳しいことはわからない。でも、あなたが悲惨な目に遭ったということはわかる」
「はい、その通りです……」
「レイセン、あなたは今更月に戻れないでしょう。こんなところで良ければ、ここに居て頂戴よ」
「ほ、本当ですかっ」
 姫様の笑顔はとても優しく見えた。月が平和だった頃に母が見せた、柔らかい笑顔にそっくり。
「この子をここに置いても構わないわよね、永琳?」
「ええ。姫がそう仰るなら」
「ありがとうございます。ありがとうございます」
 私は土下座をして、感謝の意を表した。私の無茶を受け入れてくださるなんて。
 嬉しそうな永琳様が私の頭を撫でながら、私を呼んだ。
「じゃあ、あなたのことを優曇華院と呼ばせてもらうわ。レイセン・優曇華院よ」
 姫様が私を抱きしめて、微笑みかけてくださる。
「ここではあなたも地球の兎と同じようなもの。私はあなたをイナバと呼ばせてもらうわよ。それと……レイセンも漢字に当てておきなさい。地上人として完全に名前を変えるのが一番かもしれないけどね。だからあなたの名前は鈴仙。鈴仙・優曇華院・イナバよ」
「わかりました。ありがとうございます。どうぞ、これからよろしくお願いします」
 姫様と永琳様のご好意により、私は新しい名前と居所を頂いた。
 姫様は私の悲惨な過去を捨て、新しく人生を始めるという意味も込めて、レイセンという部分も漢字に直すようにしてくださった。
 私の名前はこれから鈴仙・優曇華院・イナバだ。
 月の兎ではあるが、今はもう月兎の軍人ではない。
 読み方まで変えない方が良いと仰ったのは、逃げたという罪を背負うことの意味が込められているそうだ。
 姫様のお暇にお付き合いさせて頂ける者。永琳様、いや師匠のお手伝いをさせてもらう者。
 私はこれからそうやって生きていくんだ。ここ永遠亭で、幸せをみつけるんだ。
 月の思い出はもう過去のもの。これから逃げたという罪を償いながら、生きていくんだ。
 新しい寝床に満足して、目を瞑る。明日が待ち遠しい。

   ※ ※ ※
 
 ある日、姫様が人間が営む里で花火の打ち上げ大会があるというお話をなさった。
 是非とも皆で観ようよと仰ったので、姫様師匠てゐ、それに地球の兎達と私とで観ることになった。
 私はとても嬉しく思った。お祭みたいだと思ったから。
 事実、人里の方では賑やかなお祭が行われていた。
 てゐの案内で永遠亭を出て、人里まで行くことに。
 花火のためか、出発したときは空が暗かった。星さえ見える。月も。
 里には人間だけでなく、妖怪や八百万の神々と呼ばれる神様も混じっていた。
 お祭とは楽しむこと。そこに人種や種族の差別はなく、どんな者でも参加できるもの。
 私の姿を見る人間は皆特に驚いたりせず、ごく普通に挨拶をしてくる者もいた。
 人間がいるということで変な目で見られるのではと、内心怖かった私は少し安心できた。
 向こうからすれば、私は宇宙の妖怪兎だそうだ。師匠がそう仰った。
 妖怪兎と思われているみたいだが、私はそもそも人を襲ったりなんてしないのだから妖怪ではないと言いたい。
 そもそも、私は人を避けているのだが。
 とにかく、私はここ幻想郷において、あまり特別な扱いはされていないらしい。
 私より奇妙な者はたくさんいるし、お祭だということでそこら辺をそういう者が歩いているほど。
 刀を差し、妙なものを浮かべている者や随分と背の低い、吸血鬼という者。
 確かにこれらの者達と比べると、私はそんなに変じゃないのかもしれない。
 安心した。自分は、この世界で少なくとものけ者扱いされていないということに。
 姫様が可愛がってくださる。師匠が面倒を見てくださる。てゐが遊んでくれる。兎達も相手をしてくれる。
 私が愛し、愛してくれる者達とこれからお祭で遊ぶんだ。
 花火が楽しみで仕方がなかった。
 お祭騒ぎが静まりだし、祝砲のように花火の一発目が夜空に放たれる。
 赤色の大きな花火が、星空を飾った。
 思わず拍手。周りの皆も見とれて、喜んでいた。
 私が月にいたころ、花火なんて殆ど見られなかったから。
 次々と打ち上げられ、つんざくような砲撃の音が鼓膜に響く。色取り取りの光の花に感動する。
「イナバ、どう? 楽しんでいるかしら?」
「はい、姫様」
 姫様に求められるがまま身を預けて、愛でてもらう。
「それは良かったわ。あなたはもううちの一員なのよ、これからも一緒に暮らしましょうね」
「はいっ」
 師匠の顔を窺うと、顔を傾けて微笑まれた。
「姫はウドンゲに元気がなさそうだから、今回皆でお出かけしようって言い出したのよ」
「そうだったのですか……」
 姫様と師匠にはもう話した。家族を失ったこと。戦友を目の前で見殺しにしたこと。上官に逆らえなかったこと。
 辛かった過去を背負っている私に、姫様はわざわざ気を使ってくださったのだ。
 そこまでしなくていいと遠慮する気持ちが生まれるほどに、嬉しい。
 隣にいる地球兎のてゐもどこか意地悪なところがあるが、よく遊び相手になってくれる。
 私は今幸せなんだ。明日何して過ごそう。そう考えるが、何でも良いやと投げやりになれる。
 今は月の軍人をやっていた頃と全然違う。あの時は明日生きるために、必死に訓練を重ねるものだったから。
 明日のことを考えなくていい。一週間後の自分の身を案じる必要はない。
 一ヶ月先に自分がどこへ駆り出されるか考えなくていい。
 だから今私は幸せの中にいるんだ。母の言うとおり、逃げたのは正解だったのだ。
 逃げたことによる、罪悪感はある。今でも耳に月からの電波が届いてくるのだから。
 しかし、もう私は月と関係ないんだ。我侭でその電波を無視し続けた。
 これからは地球の永遠亭の皆と過ごすのだから。
 だから今も、こうして花火を楽しんでいられるんだ。
 ただ、楽しい感情と別のものも湧き上がってきて胸の奥が苦しかった。
 際限なく打ち上げられていく花火の音に、どこか懐かしい感じがしてくる。
 いや、懐かしいと言っても思い出したくない類の、嫌な思い出だ。
 そう。火薬が爆発する音だ。
 それはつまり砲撃の音であって、大砲が金属の弾丸を打ち出す音であって、母を打ち抜いた物の発射音であって。
 耳を塞いだ。高く伸びた兎耳を握りつぶし、腋を締めて二の腕で耳を押しつぶす。
 必死に音が入ってこないようにする。それでも、煩い音が鼓膜に突き刺さってきた。
 怖くなって、地面に座り込んだ。気がつくと体が震えていた。
 音が煩い。人や兎の悲鳴を連想させる。やめて欲しい。
「鈴仙? どうしたの鈴仙!」
 傍にいる誰かが呼んでいる。でも反応する余裕なんて全然ない。
「ウドンゲ、何があったのよ!」
 私を揺すって呼びかける者がいる。でも相手をする暇なんてない。
「イナバ! 返事をしなさい、イナバ! 落ち着いて!」
 声を張り上げて私の気を惹こうとしている。でも構うことなんてできない。
 私は少しでも音から遠ざかろうと、その場から逃げ出した。

   ※ ※ ※
 
 思い出す。拒否しても、勝手にイメージが浮かび上がってくる。
 遠くから鳴り響く銃撃の交響曲。
 拳銃に始まり、小銃が繋ぎ、大砲と重火器が戦場を盛り上げる、あの火薬の旋律を。
 また火薬が爆発する音がした。遠くで月の兎がやられたんだ。そんな戦場の光景が目に浮かぶ。
 カチカの父が作った装甲車に、炸裂弾が打ち込まれたりするのだろう。
 パイロットの兎が車内で反射するリベットに腹を貫かれ、血肉を撒き散らしたりするんだ。
 装甲車が爆散し、中のパイロットを焦がすほどの熱で焼き尽くす。
 近くを通る歩兵は装甲車の破片を身に浴びて、血を流すのだ。
 その戦場の中には父も混ざっていて、地球軍の自走砲の鉛玉を身に受けて体を四散されたり。
 またあるときは地球軍の爆撃機が自己鋳造型の、大量に分裂する爆弾を街へ落とし、業火で焼き尽くしたりするのだろう。
 逃げ惑う人々は皆やけどで皮膚が焼け爛れて、そのうち皮膚の下の筋肉が丸見えな死体が出来上がるに違いない。
 その中には母がいて、街の警護の任務に当たっていた私の目の前で焼け焦げていくんだ。
 すぐ近くにいるカチカもそのうち砲撃の破片を浴びて、倒れてしまうんだ。そして彼女は私に命乞いをする。
 ああ、地球軍が自動小銃を腰だめで構えて辺りに乱射している。これでは近づけない。
 そう。私は自分の身の危険を考えるばかり、彼女達に寄り添うことすらできないんだ。
 ついには上官が出てくるんだ。低く、気迫の篭った声で私に向かって銃を持てと命令するのだ。
 次に弾を装填しろと言い、それが終われば地球の兵士達に銃口を向ける。
 地球軍の者達が戦友と母を殺したんだぞと復讐心を煽られ、上官の合図で引き金を引く。
 よくもやってくれたなと囁く自分と、それでも仕返しするのはいけないことだと落ち着こうとする自分が葛藤する。
 その葛藤もいずれ上官の言葉に支配され、引き金を引く。たった一寸人差し指を動かすだけのこと。
 それだけで、目の前にいる地球兵士達の命と未来を奪うことが出来てしまう。
 出来ないと泣き言は言えない。上官が見張っているから。そしてやらなければ自分が地球軍に殺されるから。
 遠くから聞こえてくるはずの砲撃音は次第に大きくなり、戦線が街の方へ近づいて来るんだ。
 今幻想郷の夜空に響く花火の打ち上げ音は本当に花火の音なのだろうか?
 実は裏切った私を狙って、月の兎達が銃撃してきてる音ではないのかと疑い始めた。
 考えるだけでも、恐怖に身の毛がよだつ。
 遠くにいる里の皆や妖怪は呑気に祭りを楽しんでいるようだ。
 あれは花火などではない。彼らの攻撃であるというのに。
 近くに障害物が見当たらない。これでは攻撃され放題、好き放題され放題ではないか。
 遠くから誰かが飛んでくる。その者はとても長い髪を持っていた。
 姫様なのだろうか。突然いなくなった私を案じて、来てくれたのかもしれない。
 しかし姫様ではなく、月の兎であったらどうだろう?
 銃を背中に背負って、私を探しに来たというのはどうだろう?
 私は怖くて握り締めていた拳の人差し指と親指を開き、銃の形を作る。
 文字通りの人差し指で飛来してくる者を狙った。向こうは何の行動も取らず、こちらへ向かってくる。
 やはり姫様なのだろうか。いや、ぎりぎりまで何もせずに十分私を引きつけてから、発砲してくるかもしれない。
 近づいてくる姫様らしき人物へ、私の方から発砲した。その者は叫び声を上げて、墜落した。
 殺してしまったのだろうか。姫とおぼしき者は立ち上がり、肩を押さえながらこちらへ歩いてきた。
 怪我をしてもなお、私のところへ向かってくるとは。
 よっぽど私を殺したい月の兵士なのか。それともやはり、蓬莱の薬を飲んだ姫様なのだろうか。
 もし前者であるならば少しだけ申し訳ない。
 月と縁を切ったと言っても、同胞だから。でもそうならお帰り願いたい。
 後者であるならば非常に申し訳ない。自分の面倒を見てくださっている方だから。
 私は自分の手が怖くなった。もし姫様を傷つけたとしたらなら、どうしようかと。
 謝罪するだけでは済まない。申し訳ない気持ちで、自分のこめかみに銃口を押し付けて自殺してしまいそうだ。
 向こうが近づいてきて、月の明かりに僅かながら顔が見えてきた。姫様であった。
「痛かったじゃない、イナバ。一体どうしたの?」
「あ……ご、ごめんなさいぃっ! ごめんなさいっ……」
 姫様は私を叱ったりせず、私に寄り添って抱きしめてくださった。
「私のことが、あなたを追いかけに来た月の者だと思ったの?」
「え、あ……そ、そうなんです……」
「そうだったのね……。でもどうして花火をあんなに怖がったの?」
「あ、あの……花火の音が、戦争をしていた頃に聞いた大砲の音と重なるんです。そのせいで、嫌な事を思い出したり幻覚が見えてしまったんです」
「そう……。で、もう落ち着いた?」
「姫様のお陰で……」
 姫様の表情はとても優しい。それは母が時折見せるものに似ていた。
「あの、本当にごめんなさい! あろうことか姫様を撃ってしまって、私……私……」
「いいの。もういいの。イナバが無事なら、いいのよ」
 遠くから師匠やてゐ、因幡兎達がやってくる。皆、私を追ってきたのだそうだ。
 私は皆にどうして取り乱したのか説明した。気を使ってくれているのか、私を責める者はいなかった。
 でも私は姫様を狙撃したんだ。混乱していたとはいえ、殺意があった。私がしたことは許されざる犯罪であった。
「イナバ」
「はい、姫様……」
「これからも私のペットとして永遠亭に居なさい。それがあなたに下す、おしおきよ」
「姫様……! あ、ありがとうございます!」
 姫様の寛大な心遣いに、涙を流して感謝した。
 こんなこと、いや大変な罪滅ぼしを私は課せられた。姫様を幸せにしてあげるという善行を。
 改めて師匠やてゐ、因幡兎達に感謝しなければいけない。私を受け入れてくれたことに。
 これからも月から私を呼ぶ電波が送られてくるのだろう。でも私は戻らない。
 母は優しかった。カチカはいい戦友であった。今では思い出。夢想の産物。
 自分の寝床は永遠亭にあるのだから。私が愛すべき者達は、竹林の中にいるのだから。
 私がいるべき世界は、ここ幻想郷である。
 もう月には私が居る場所も、拘る理由もないのだから。
 されど、月で見てきた惨劇を忘れることは出来ないだろう。
 大きな爆発音を聞くたびに、あの幻覚を見るかもしれないから。

   『再発』

 花火大会が終わってから数日。師匠から暇を頂いた午後。
 てゐが私を誘ってきた。また遊んで欲しいのだろうか。
 彼女が用意した遊び道具は花火の一種である、かんしゃく玉だった。
 それは大きな音を立てて遊ぶもので、私を狂わせる道具とも言えるものであって。
 つまりは、とても悪質な悪戯だった。
「い、嫌よ。火薬が爆発する音嫌いなの、知ってるでしょう?」
「えー、遊ぼうよ鈴仙。あなたのことは知ってるけど、きっと大丈夫よ」
「やめてって言ってるでしょう。今でも夢に見るぐらいなの。花火なんてしたらてゐのこと、とっちめるわよ?」
「でもねえ、前にやった大きな打ち上げ花火程大きな音もないのよ。流石に大丈夫しょう?」
「だめ、安心できない。それで遊ぶっていうなら、金輪際てゐとは遊ばない」
「そこまで言うなら……もうしない。だから機嫌直してよ、鈴仙」
「いいわ、許してあげる。とりあえず、それをどこかへやってよ」
 てゐがニヤリと、いやらしい笑顔を見せた。
「いやーよ」
 取り上げようと手を伸ばしたところで、てゐが地面にかんしゃく玉を投げつけた。
 乾いた爆発音。咄嗟に耳を握りつぶし、目を瞑った。それでも、鼓膜に音が届いた。
「鈴仙、鈴仙。私を見て。ほら、何ともないでしょう?」
 隣でてゐが私を揺すっている。でも返事できない。
 また、幻覚が見え出したから。一度の爆発音が引き金となって、始まる戦争の凄惨な様子を。
 小さな爆発音は、地球軍が月の兎へ拳銃を発砲したという情景を想像させた。
 その発砲が原因で撃ちあいになり、やがて紛争となって、大規模な戦争へ発展する。
 そしてその戦争はたくさんの月の民と地球の民の命をたくさん奪うのだ。
 恐る恐る目を開けた頃には、そこは永遠亭の静かな一室ではなく、銃弾が飛び交う戦場であった。
 正確には、永遠亭にいるはずである。
 今見ている景色はトラウマが引き起こす、重度の幻覚である。師匠がそう仰っていた。
 ただ、そうわかっていても幻覚が止まらない。繰り広げられる地獄絵図は進行していくばかり。
 妄想が酷いのか、隣にいたはずのてゐがカチカに見えてきた。
 亜麻色のポニーテールが可愛らしげなカチカ。
 年は私と変わらないほどで、私より射撃が上手い彼女が必死に話しかけてくる。
「ねえねえ、レイセン。どうしてあの時すぐに助けてくれなかったの? 私凄く痛かったんだよ? 戦争をするかしないかの喧嘩をしたからって、見殺しは止めて欲しかったな」
 隣にいるてゐだったカチカに目をやると、お腹から血を流している。地球軍の自動小銃にやられた傷跡なのだろうか。
「ねえ何か言ってよレイセン。脱兎のレイセン。月から逃げ出し、私や自分の母、上官、月の皆から逃げ出したレイセン」
 てゐの声だと思う呼びかけが、全てカチカから悪口を言われているように聞こえてしまう。
 頭の中にフィルターがあり、そこを通る言葉が全部呪いの囁きに変換されているみたいだ。
 カチカが私に寄りかかってくる。生き延びた私を祟っているのか、強く揺すってくる。
 怖かった。カチカが純粋に怖かった。もう死んでしまったと思っていたのに、私を苦しめるためだけに蘇ったみたいで。
 もう私を責めないで欲しい。ようやく手に入れた幸せが逃げていくから。
 だから私は、傍にいるカチカの眉間に発砲した。悲鳴を上げる間もなく、即死したカチカ。
 安心して、もう一度周りを見回した。永遠亭の一室に自分は戻っていた。幻覚はない。
 隣にいたカチカは消えたが、てゐが倒れている。眉間から血を流して、動かない。胸を上下しない。
 妄想から生まれたカチカを殺したと思ったら、てゐだったなんて。
 発砲音を聞いて誰かがやって来た。師匠だ。何か叫んでおられる。
「どうしてこんなことをしたのよ、ウドンゲ!」
 私は師匠に頬を引っぱたかれ、畳の上に倒れた。その痛みから、罪悪感が増す。
 顔を上げれば、姫様もいた。てゐを抱きかかえ、介抱している。しかしてゐが息を吹き返すことはなかった。
 てゐの体を見つめた師匠が、私に視線を移した。幻惑の弾丸が放てる私の利き手を睨んでいる。
「てゐが花火を使って悪戯したということは、わかった。音がしたから。きっとウドンゲは花火のせいで、この前の混乱した状態になったのでしょう?」
 師匠は言葉を区切り、姫様に抱かれたてゐを見つめた。
「だけど、てゐを殺めたことは許されない事実よ。説明しなさい」
 師匠に促されて何か喋ろうと思った。が、言葉が泣き声混じりの嗚咽になって何も言えなくなった。
 罪悪感とてゐに対する申し訳ない気持ち、それと叱られたことによる受けた衝撃で。
「泣いてばかりいないの。きちんと話なさい。泣けばどうとでもなることじゃないでしょう?」
 師匠は私の犯した過ちについて、言及している。
 そうわかって答えたくても、言葉が詰まって答えられない。
 そしてそんな私に師匠は腹を立てる。悪循環だった。
「永琳、落ち着いて! イナバだって、悪いことをしたって理解してるはずよ!」
 てゐを抱いた姫様が私と師匠の間に割って入った。
 こんな状況でも私を庇ってくださる姫様は、何と優しいのだろう。
 姫様の後姿が、ある日母が見せた温かい背中と重なった。
「だからこそです。悪戯で済まないようなことをやってしまったのだから、甘やかせていい様な事ではありません」
「……」
「この子も子供ではないのです。謝って許されることをしたわけじゃないのです。だから、ウドンゲにはきちんとしてもらわないと」
 師匠の仰っていることはわかっているのに、行動に移せない。厳しい師匠の姿が、上官と重なった。
 私を庇う姫様が母で、師匠が上官で、てゐがカチカ。月にいた頃を彷彿とさせるこの状態が苦しかった。
 そこで私は自分の手を銃の形に握り、人差し指をこめかみに押し当てた。
 こうなったら、私に出来ることはただ一つ。自決すること。
 こうすることで、てゐに対する申し訳ない気持ちも片を付けられる。
 こんな狂った兎が死んでしまえば、永遠亭の皆にも迷惑をかけずに済む。
 なんて素晴らしい解決策なんだろう。どうしてすぐに思いつかなかったのだろう。
 過ちに気付いてからすぐに自殺してしまえば、師匠と姫様にかける面倒なことは減らせたかもしれないのに。
「止めなさい、ウドンゲ! 早まらないの!」
 私の行動を見た師匠が飛び掛ってくるが、後ろに飛んで逃げた。
 姫様も相当驚いていらっしゃるのか、身を動かす余裕さえ無さそうだ。
「イナバ……何を考えているの。そんなことをしても何にもならない。それでは面倒なことを作りたくないと理由を作って、責任から逃げようとしてるだけじゃない……」
 姫様の仰ることはごもっともだった。でも今更引き返すなんてできない。私に残された選択肢はこれだけなんだ。
「レイセン! お願い、止めて!」
 二人の制止を無視して、私は自分で引き金を引いた。
 妖かしの弾丸が私の頭を貫通するまでの僅かな時間。私が幸せだった瞬間を思い出していた。
 初めて友達ができた幼稚園の頃。家族揃ってお出かけした小学生の頃。部活動に勤しんだ中高部のころ。
 そして大きくなって、軍隊に入り初めてからのこと。
 永遠亭を訪れたこと。初めててゐの笑顔を見たときのこと。
 師匠に薬の調合を褒めていただいたこと。
 姫様と笑いながら甘味を食べたこと。
 待っててね、お母さん。お父さん。カチカ。てゐ。今、謝りにいくから。



 おかしいな。まだ死ねないのかな。時間の進みがやけに遅く感じる。
 死に直面したときは感覚が研ぎ澄まされると軍隊で教わった。今がその状態なのだろうか。
 それにしてはゆっくりすぎる。今から死ぬというのに、こんな呑気なことを考える時間があるなんて。
 ふとここの名前を思い出した。永遠亭。名前の所以は確か姫様が……。
 そう思っていると、ふいに人差し指が頭から離れていった。指先は天井に向けられ、弾丸は私の頭を貫かずに天井を貫いた。
 見れば私の腕は姫様の手で上に向けられていた。ボロボロと涙を落としていらっしゃる。
 穴の開いた天井からは木屑が落ちてきた。
「ひ、姫様……」
「駄目よ……駄目、それだけは駄目。そんなことでは、解決にならない!」
 殆ど喘ぎの様になっている姫様の声。全身から力が抜けて行き、姫様を抱えながらその場に座り込んだ。
「自殺は何の解決にもならないわ、イナバ。よく聞いて、あなたは心が弱すぎるの」
「……」
「あなたは酷いトラウマを抱えているのよ。そしてそのトラウマを乗り越えないと、あなたはきっと一生を棒に振ることになる」
「でも、そんなもの、どうしようも」
「無理だと決め付けないで。治らないと諦めないで。あなたは何のためにここへ来たの?」
「……何も出来なかったからです」
「どこで?」
「月で、です」
「イナバはこっちへ来てから何をした?」
「たぶん、まだ何もしてないです」
「ならばもっと生きて。ここには最高の頭脳を持った薬師がいるのよ。私だって絶対力になってあげられる」
 上質な着物が台無しになることも無視して、私を抱きしめて放さない姫様。
 私の悩みを真剣に解決しようと熱心に話しかけてくださる姫様。
 そんな姫様を見ていると自殺しようという気を亡くして、私も無性に泣きたくなった。
「姫、てゐを診てきます。ウドンゲのこと、頼みましたよ」
 師匠がてゐを抱えて部屋を出て行った。私が殺したてゐを。
「レイセン、落ち着いて聞いて? てゐのことならたぶん心配ないわ、長く生きてきた彼女がそう簡単に死ぬとは思えない。ましてただの兎ではなく、妖怪の兎なんだから」
「でも、てゐは、てゐには、眉間に撃ち込んで……」
「永琳のことを信じてあげて。きっとてゐは助かる。それよりも危険なのは、あなたの方なのよ。イナバ? 良く聞いて、これからあなたの心の傷を癒すための訓練をするわ。今すぐよ。私の目が届かないところでまた人差し指を頭に押し付けられても困るからね。良い?」
「え、ええ……はい」
「目を瞑って。想像してみて。どかーんっ、と大きな爆発音を」
 そう言って姫様は手を叩いた。そして私は想像する。惨劇を。火薬にまみれた地獄を。私を狂わせた、戦場を。
 土煙が硝煙の匂いと混じり、そこら中で爆撃音が響く場所。
 周りにいる戦友の月兎達は次々と倒れて行き、ライフル銃の弾が私の耳を掠めるんだ。
 助けて、助けてと何度も繰り返す月兎が私の足を掴んで離そうとしない。
 逃げることが出来なくなって、殺されたくないがために私も引き金を引く。地球の兵士達を撃ち殺す。
 すると私が撃った地球の兵士達も向こうの兵士達に助けを求めるようになる。
 立ち尽くす私に向かって人々は銃口を向け、私はまた──。
「はい、目を開けて! イナバ、目を開けて!」
「えっ」
 姫様に言われた通り目を開く。だが映像は変わらない。
 目の前にいるのは姫様には見えず、助けを求めて私にしがみ付く兎にしか見えない。
「イナバ、イナバ! 私の目を見るのよ! さぁ、私は誰!」
「兎」
「違う! あなたのことをイナバと呼ぶのは誰?」
「……」
「誰なの! 知っているでしょう!」
「ひめ、お姫様です」
「そのお姫様の名前は!」
「かぐや。ほうらいさん、かぐや。蓬莱山輝夜です」
「言えたじゃない! そうよ、あなたの目の前に居るのは輝夜よ! 兎じゃない! ここには銃を持った兵士なんて居ないのよ!」
「あ……はい」
「ここはどこ?」
「地球です」
「もっと詳しく」
「幻想郷です。幻想郷の、永遠亭です」
「私は誰?」
「蓬莱山輝夜です」
「あなたに薬のいろはを教えているのは?」
「師匠……八意永琳です」
「悪戯好きの因幡兎の名前は?」
「因幡、てゐです」
「わかってきた? ここにはあなたを苦しめるような者は居ないの!」
「は、はい」
「イナバ、これから毎日こういう訓練をして少しずつ心の傷を消していくつもりよ」
「お、お願いします」
「でもこれだけは覚えておいて。克服したくとも、絶対に焦らないこと。いいわね?」
「はい!」
「じゃあ永琳のところに行って、てゐの様子を見に行きましょう」
 姫様に手を引っ張られ、師匠の部屋へ。布団がしかれ、そこには額に包帯を巻いたてゐが横たわっている。
 地球の兵士達を何人も殺してきた、私の狂気の弾丸だ。てゐはきっと助からない。
「もう安心して、てゐならあと二、三日すれば目を覚ますわ」
「さすが永琳ね」
「え! てゐは助かったんですか!」
「まあ、ね。ここは幻想郷だということをウドンゲは理解しきっていないみたいだけど、あなたみたいに不可思議な力を使う者が山ほど居るのよ。そんな世界で長く生きてきた彼女が、あなたの飛び道具一発で死ぬとは思えないんだもの」
「で、でも……頭に!」
「そのうちわかってくると思うわ、あなたはまだ幻想郷に来て日が浅いから仕方ないの」
「……」
「納得できないみたいだけど、そう思い込んで」
「は、はあ」
 全く以って理解できない。妖怪妖怪って、妖怪はそんなにすごいのだろうか。
 前の花火のとき、そこら中に妖怪が居たと姫様と師匠は言っていた。その妖怪とやらには尻尾や獣の耳が生えていたりする。
 そしてその妖怪達は皆私のような、奇妙な力を持っていると言う。ならば、てゐも持っているのだろうか?
「あの、てゐも私みたいに変な力を持ってるんですか?」
「もちろんよ」
「すごい……」
「すごいも何も、幻想郷じゃあ当たり前なのよ」
 そんなありふれた物の様に話されても、正直反応に困る。それほどまでに幻想郷とは不思議の塊なのだろうか。
 布団に横たわるてゐを余所にして、夕食にしようと姫様と師匠が部屋を出て行った。
 そんな軽いノリで大丈夫なのだろうか? 私としてはてゐが目を覚ますまで隣に居るべきだと思っているのに。
「ウドンゲ、そんなにてゐが心配なら付いていてもいいわよ。今日はこの部屋でご飯を食べることにしましょう」
「え、あの」
「また後でね」
 師匠を呼んだが、奥の方へ言ってしまわれた様だ。
 てゐの頬に触れる。体は温かい。確かに死んでいるようには見えない。
 弾幕ごっこ。そんな言葉を思い出した。確かこの幻想郷に住む者達はそんな遊びをしているらしい。
 飛び道具で綺麗な模様をかたどり、それがいかに美しいかを競い合うという。ごっこ。つまりそれは、命の取り合いではないということ。
 私は試しに右手を銃の形に握り、左手の平に向けた。
 カチカとお母さんを殺されたとき、無我夢中になってやってみたら撃ち出すことが出来た妖かしの弾丸。
 出来る限り力を抑えて、発射。小さな発射音と共に、左手が軽く押された。直後、大きな痛みが左手を襲う。
 悲鳴を我慢し、左手を見てみれば血こそ出ていないが皮膚が酷く傷ついた。今度は手の甲へ右手の銃を向けた。
 もっと力を抜こう。深呼吸をして肩を上下する。リラックスしてもう一度弾丸を発射。
 今度はおもちゃの鉄砲玉が当たった程度の痛みで済んだ。
 もしかすると、弾幕ごっことやらはこれぐらいの力でするのだろうか? この威力でなら撃ち合いをしても、死には至らないだろう。
 それこそおもちゃの鉄砲同士で戦争ごっこをするようなものだ。
「イナバ! 何していたの!」
 発射音を聞いて飛んできたであろう姫様は大慌てで私に飛び込まれた。
 もしかしたら自殺しようとしたのだと、勘違いされたのかもしれない。
「えっ、いや……弾幕ごっこってどうやるのかなと」
「怪我してるじゃない! 自分を傷つけるのはもう辞めて! もっと大事になさい!」
 そう姫様は仰って机の引き出しにあった包帯を私の手に巻きつけてくださった。
「そ、それは勿論です。もう二度と、自殺しようなんて考えません。ただ、弾幕ごっことやらをするときどの程度手加減して弾を撃つのかな、と……」
「ふむ。そうね、イナバにもスペルカードを使った決闘のルールを教えてあげても良さそうね。きっと楽しめるはずだわ」
「スペ……え? カードですか?」
「リハビリも兼ねて、後日詳しく教えてあげるわ。もうすぐ永琳がご飯を持ってきてくれるわよ」
「あ、はい」
 因幡兎と師匠が持ってきてくださった、お盆に載った夕食。それを横たわっているてゐの傍で頂き、箸を動かす。
 正直言って罰当たりな気がするのだが、と師匠に相談したらご飯いらないならもらうわよと言って私の漬物を持っていった。
 私としてはご飯を遠慮したいほどだった。先ほどと比べれば気は楽になったが、それでも気分が悪いことには変わりない。
「イナバ、無理しなくて良いのよ。残りのご飯でおにぎりでも作っておくから、後で食べて」
「え、姫様が作ってくださるんですか?」
「馬鹿にしないでよ、おにぎりぐらい作れるわ」
「すみません、わざわざ……」
「何他人行儀になってるのよ。私達はもう、家族みたいなものでしょう?」
「ひ……姫様」
 思わず目が潤んだ。
 結局お吸い物だけ頂き、少し物事を整理したいということで自分の部屋へ戻った。
 一応、二度と自殺なんてしないと約束しておいた。そうでもしないと、姫様が私の隣で寝ると言いかねない。
 いや私はそれでも全然構わないのだが。むしろお母さんと雰囲気が似ている姫様にはもっと甘えたい程。
 だけど姫様が仰ったように、私は心が弱い兎なんだと思う。でも心が弱いなりに、この先のことを考えて行きたい。
 明日もリハビリをする。私はそれに全力で取り組む。そして爆発音を聞いても幻覚や幻聴が起きない様にしたい。
 今の私は希望に満ち溢れている。そんな感じがする。悲観的な考えは辞めよう。
 私は月を捨ててまでして、お母さんの言った通り幸せを求めてここまでやって来たのだ。
 姫様に怒られた通り、私は私の命を大切にするべきだとかみ締めた。
 あえて戦争で例えるのならば私に支給された戦闘機は一機だけ。残機は一つだけ。☆。
 ならば自分からそれを捨てるような真似なんて、絶対にしてはいけない。
 私は突然元気になったようが気がして、お腹が減ってきた。何か食べたい。
 部屋のふすまを開けると、足元に姫様が作ったと思われるおにぎりがあった。
 山菜の具が入ったおにぎりをよく味わい、飲み込む。
 姫様の愛を舌で感じ取りながら、私はお腹を膨らませた。

   『狂気』

 あれからてゐは三日で回復し、今ではけろっとしている程。
 最初は私のことを散々酷く言ってきたてゐだった。私がてゐを銃殺しようとしたことは事実なのだから。
 だが私の事情を理解してくれると、彼女はつっかかって来なくなった。
 そして始まった、本格的なリハビリ。初めは爆発音自体に慣れることからはじめた。
 てゐの使ったかんしゃく玉より、ずっと火薬の少ないものを使った。
 それでも初めの方は酷かった。
 月に居た頃のことを意識しないように努力しても、師匠が上官に見えてしまう症状が治まらなかった。
 だが師匠が私を抱きしめてくれる度、目の前に居るのはあの怖い上官ではなく師匠だと認識することができた。
 姫様がされた様に、爆発音が起きてもここが月ではないことを体に教え込むことがまず第一だと師匠が仰った。
 私自身まだ月に居た頃、軍隊に居た頃の感覚が抜け切っていない。
 まして月から一ヶ月に一度、満月の夜に私の方へ「帰って来い」という信号を送ってくるから怖い。
 脱走した身である私が月に戻り、軍隊にまた入ったところで寮にいる兎達から馬鹿にされるのは目に見えている。
 卑怯者め。戻って来るぐらいなら死んでしまえ。戦友を見殺しにした奴。
 そんな風に言われてしまっては、弱いであろう私の心は砕けて狂ってしまう。
 月からの波動を受信する度に体を震えさせ、恐怖に耐えるしかなかった。
 その都度姫様と師匠に介抱して頂き、場を凌いだ。
 だがそんな日も少なくなっていく。一ヶ月ごとに来ていた信号はやがて二ヶ月、三ヶ月と頻度が少なくなって行った。
 そしてリハビリも調子良く行っている。と、師匠は説明する。
 かんしゃく玉どころか鬼の出す花火弾幕の音でも問題が無いぐらいに回復した。
 しかし完全に月のことを忘れることは出来ない、と師匠は言う。私もそれは理解していた。月は私の故郷なのだから。 
 あそこが私の始まりなのだから。両親の居た所、親友のカチカが居たところなのだから。
 弾幕ごっこというものにもすっかり慣れた。この前白黒の魔法使いに誘われたが、何の問題も無く手合わせが出来た。
 相手の飛び道具はごっこ遊びの威力しかない。こっちも威力を抑えた銃弾しか撃たない。
 被弾しようが痛む程度。腕が吹き飛んだりなんてしない。
 とはいえ、レーザーでも放たれれば服が少し焼けてしまうが。
 とにかく死ぬことはない。命の賭けた戦いではない。せいぜい、負けた方が相手にお茶を奢ってやるぐらい。
 人を殺す銃弾の撃ち方を忘れたわけではないが、弾幕ごっこ中に間違えることはない。それぐらいごっこ用の銃弾を撃つことに慣れた。
 もう暫く人を殺す威力の持った、幻惑の銃弾を撃っていない。いや、もうこの先使う機会はないかもしれない。
 幻想郷とはそういう場所なのだから。争いごとは絶えないが、命を奪ってまで何かをしようとする者は妖怪ぐらいしか居ない。
 その妖怪も聞けば取って食うためとかだ。領土の奪い合いなんかじゃない。
 戦争と呼べるほどの規模じゃない。おまけに、大事には至らぬ様巫女が見張っている。
 何かと異変というものが起きたりするのが幻想郷みたいだが、気が付けばそれが片付いていたりする。
 それが幻想郷というものなのだろう。
 すっかり幻想郷というものに慣れた気がする。
 大勢居る人間以外の中に、私も仲間入りを果たしたと思っても大丈夫だと思う。
 だからと言って烏にそう報じられたいわけでもないが、改めて私はもう幻想郷の妖怪なんだと思いたかった。

   ※ ※ ※

「そう、その薬草は他の薬草と混ぜない方が良いの。紙に包むときも……そう、効き目がきついから少しずつで良いの。偉いわウドンゲ、良く出来たわね」
「そんな……もう、ここに来て何年もするんです。さすがに覚えました」
 まだ冬の寒気が残り、少し肌寒く感じる如月。もう少しすれば春告精が見られるようになるだろう時期。
 師匠の監督の下、製薬に勤しんでいた。
 トラウマが起こることは殆ど無くなった。
 それでも時々あの戦場の風景が見えてしまうことはあるが、頭を振れば消えるほどだ。
 夜な夜なうなされるようなこともない。それもこれも、永遠亭の皆が私に優しくしてくれたお陰。
 かといって、戦争で受けた傷は一生消えないだろう。
 この目で見てきた惨状は今でも鮮明に思い出すことが出来る。
 いつしか操り、感知できるようになった狂気の波長。
 なんでも私の瞳には満月と同じ狂気が宿っているらしい。師匠にそう教わった。
 納得した。だって私は狂気を内包してしまう程の情景を見てきたのだから。
 私の家では父が兵士として働き、母は軍医として前線で活躍した。
 カチカの父は兵器を作り、彼女の母は私の父と同じく戦う道を選んだ。その結果、月は滅茶苦茶になった。
 金属の塊に乗り、金属を型取りして作った銃を携行し、異国の者同士が血を流し合う悲惨な劇場。
 ふんぞり返る上官の命令で何十、何百という軍属の市民が命令されて突撃して命を失くす。
 そういったものを見てきた私が狂ってしまうのも仕方がない。
 最初は地味な戦場も、次第に鉛玉と火薬にまみれた弾幕の応酬になっていく。
 やられたらやり返す。繰り返すうちに、どちらが先に仕掛けたのかわからなくなる。
 何かが引き金となってたくさんの命が失われてしまったら、どちらかが降伏するまで大軍の暴力で蹂躙しあう。
 その強大すぎる狂気に晒された私が狂わない道理なんてない。
「ウドンゲ? 大丈夫?」
「──」
「ウドンゲ、ウドンゲ!」
「……あ。すみません、ちょっと考え事を」
「それはいけないことよ。嫌な思い出は極力思い出しちゃダメって、言ってたじゃない」
「はい……でも、その」
「何か気になることでもあるの? 話してみなさい」
「その、やっぱり私ってこんな目してるし、狂ってるのかなって」
「あなたは、狂ってなど居ないわ」
「え?」
「自分で自分を狂っているだなんて言って気取っている内は、まだ大丈夫」
「師匠……」
「狂っていると自覚できなくなった瞬間が、最も狂っている状態なの。だからあなたは大丈夫、狂ってなど居ない。戦争という大きな狂気に操られているだけなの」
「師匠は、狂っているのですか?」
「さあね。人を不死に至らしめる薬を作ったぐらいだし、狂っているかもね」
「それってつまり、師匠は狂っていないということですか?」
「さあ。姫にも訊いてみると、おもしろいかもしれないわね」
 師匠はそう言って、私にお茶を取りにいかせた。姫様に同じ質問をしたらどうなるのだろう。姫様は狂っているのか、と。
 私は途端に訊くのが怖く感じた。
 私よりずっと長生きしていらっしゃる姫様のことだ、想像も出来ない程人生の経験を積んでいらっしゃるはず。
 そんな彼女が私の質問に何と答えるのだろうか。
 怖いもの見たさというものが沸いてくるが、私はぐっと飲み込むことにした。
 師匠は仰った。私は狂ってなど居ないと。狂っていると思い込んで、気取っていただけだと。
 ならば狂っている、というのはどれほどの人生を歩んできた者が到達できる世界なのだろう。
 戦争以上に残酷なものがあるのだろうか。あるのだろう。
 もっと醜いものがあるのだろう。だから師匠は私にああ言ったのだ。
 この幻想郷にもそういった狂気が孕んでいるのだろうか。
 孕んでいるかもしれない。ここにはたくさんの人でない者がいるのだから。

『私は狂気を操れない。もっと大きな狂気に操られているだけ。』
 1/17 こみっく☆トレジャー版 終わり

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