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カテゴリ:観劇日記
うーん、やっぱり、キャサリン・ハンターってすごい。
NODA・MAPの番外編、THE BEEの英語版を見てきたのですが、なるほど、英語版の方が、ずっとシンプルでストレートで判りやすい気がしました。 前回、私は日本語版しか見てなかったのですが、英語版はほぼ同じ演出だそう。配役もそう? 未知の芝居を英語で見るのは理解力の点でキツイかなって思ったからだったか、それともそれ以外にもスケジュールとかコストの面で理由があったか、そのへんは全然覚えていないのだけれども…いや、もしかしたら、単に取れなかっただけかもしれません(爆) The Diverは、そういえば、英語版しか見なかったんだっけ…こっちは、英語版を先に見ちゃったら、もう日本語版はいいやって気分になったって、その記憶だけははっきりあるなぁ。 ともあれ、今回はハチよハチ。場所だって、地元だっ 今回の日本語版がどうなるかは見てみないと判らないけれど、前回のは、比較的わかりやすい『報復の連鎖』とか『暴力の日常化』の他に、いろいろと想像してしまいやすい割には、どうしても納得できる答えが見つけられないような感じがしました。 答えなんて必要ないんだろうけど、そうは思っても、妙に判りやすい暗示がちりばめられているような、そんな気がしちゃってて、理屈でとらえなきゃイケないような気持になりやすかったような。 英語版との大きな違いは、まず、配役の性の逆転の有無。(私が見た以前の)日本語版では、主人公のサラリーマン井戸は野田秀樹で、立てこもり犯の妻が秋山菜津子でした。男がオトコで、女がオンナ。 (前回と同じらしい)今回の英語版は、井戸をキャサリン・ハンターがやってて、妻が野田秀樹。しかも、野田秀樹はただ女装してるだけな感じで、作り込んだ感じが、いつもより薄い気もしました。ようは、お能の女性みたいな、記号的な女性の存在。 キャサリン・ハンターも、見事に記号っぽい。女優が男装してる感じじゃないし、宝塚の男役とかでもない。性がない。なんていうか、シェイクスピアに出てくる妖精みたいな。 日本語版で、たとえば野田秀樹の井戸が敵の妻である秋山菜津子と関係するシーンからは、蹂躙とか征服とか支配とか、さまざまな連想が働きました。リアルじゃないのに妙に生々しい。 キャサリン・ハンターが野田秀樹に襲いかかってても、同じように男女の組み合わせだけれど、配役の性別を転換しているせいか、とてもシンボリック。理屈で判るけど感情が揺れない感じ。 もしかしたら、私が特別なのかもしれないけれど。 ただ、そんな風に見ていられたせいか、ハチの存在に前ほどこだわらなかったかも。前はハチについていろいろ考えたもんなぁ…なんたってタイトルなんだから、何かしかの意味があるはず。いや、暗喩か、もっと直接的な表現か。 神や正義のようなものか、とか。 でも、今日は井戸をそのまんま理解…というほどでもないか…受け入れられた?感じがしたので、その感覚からいえば、確信犯の井戸が神や正義を恐れるってのは違うかな、と。 ハチは、最初は鬱陶しいだけのようにも見えるけど、最終的に発砲するんだから、やっぱりそこにあるのは鬱陶しさよりもうちょっと違う感覚。勝ち負け感か、腹立ちか、じゃないかな。 鬱陶しさならマスコミ?ってのも楽な解釈だけど、勝ち負けまでくると、もうちょっと大きな塊…ジャーナリズム?、それとも世論? …んー ま、それとは別に、判りやすい方の報復の連鎖なんかも、ちょうど山口県光市のあの裁判が終わった直後でもあり、被害者はどうやって降りかかる火の粉をはらったいいのかってなことを、シミジミ考えてしまうのでありました。 あー、良かった。今回は、ちゃんと英語版を見ておいて、つくづくよかった。知らないまま終わらなくて。 キャサリン・ハンターって、天才なんだろうな、きっと。 んー、満足。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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