物語の復活私が20歳前後の頃、物語は死んでいました。 20歳の頃、私は東京でフランス文学科なぞという全く商売に結びつかない学科に在籍しながら、小説を読み漁りつつ、時代の最前線の空気を感じていました。 その頃、小説には物語はありませんでした。 あるとしたら物語を真似したもの(パロディ) 物語への憧憬(パスティーシュ) 物語の解体(メタフィクション) 小説だけではなかったですね。 現代思想も、メタ的な視座から様々な事象を捉える構造主義や、それをさらに推し進めて、それこそ社会に内包された”物語”を解体する脱構築主義が流行っていた時代です。 時代の空気そのものが閉塞感を伴って、何か中心的なものから逃げるような感覚がありました。 その空気は私が20歳の頃だけ、と言うと多分違うと思います。 70年代からずっと続いた閉塞感がピークに達した。 それが90年代の初めの時代感覚でした。 確か(うろ覚えですが)、1968年に三島由紀夫が豊饒の海4部作を構想しながら友人に宛てた手紙の中に 「今は社会の中心に物語の核となるテーマが存在しない。だから物語を生み出せない」 と書いたという話を、どこかで読んだ記憶があります。 その「物語を生み出せない」と言う感覚の中で三島由紀夫が奇跡的に生み出した物語が、今、映画にもなっている「春の雪」でした。 そして「春の雪」を最後に三島由紀夫の小説は急速に物語を失い、三島自身も自決への道を辿って行きました。 それはちょうど私が生まれる前の年の出来事です。 それから35年たった今、ふと振り返ると物語はいたるところに息吹いています。 私が物語の欠如を感じていた90年代前半からたった10年で、物語は見事にその力を甦らせました。 先日も日記に書いたハリーポッターという物語は、多分10年前ならば「うそ臭いだけ」の物語だったでしょう。 しかし、今はそれを受け入れることの出来る時代の空気がある。 ハリーポッターだけではなく、かつては作者のトルーキン自身から「現実逃避に意味がある」と言われた「ロードオブサリング(指輪物語)」が、現実的な力を持った物語として再生し、映画となりました。 日本でもメタフィクショナルな視座も持ちながら物語としての力を強く持っている「踊る大捜査線」が人気となり、現代のファンタジーと言っても良い「電車男」がベストセラーになりました。 ビジネスの世界でも”パーソナルな物語”を持つことが事業創造の鍵として語られるようになり、「物語なき商品は死に神である」と言われるほどに、物語は商売の世界に深く深く食い込んできています。 時代はいつの間にか変わってしまったようですね。 先日、彼女がこんな話をしてくれました。 「昨日、TVで今の10代の意識調査のような番組をやっていたんだけど、今の若い子達はガツガツした感じもなくて、食うだけならフリーターでも良いって考えているんだって。 それは私が10代の頃にも同じ感じだったんだけど、でも、今の若い子達が凄いのは、夢をちゃんと持っているんだよ。 殆どの子がフリーターをやりながら『でも、夢は持っています』って答えてた。 私の頃はフリーターをやっていても夢なんか持っていなかった。全然違うんだよね」 三島由紀夫は35年前、社会の中心に物語の核を見出そうとして見出せずに苦しみました。 今も社会の中心には物語の核はありません。 しかし、今、物語の核は社会から個人へと移行しました。 1つの共通テーマを社会全体が持って、そこに個人が集団で寄り添う(依存する)時代はどうやら終わったようです。 今は個人1人1人が自分自身の核をもって生きる時代になりました。 そしてその核が多種多様の物語を紡ぎ出し、その物語が折り重なるように社会を構成していく。 そんな時代になったようです。 それが良いのか悪いのか、私には分りません。 多分、今の時代はより厳しく”自分”を問われる、ある意味楽じゃない時代です。 自分を失えば失墜する恐怖もあります。 でも、たとえそうであっても夢を持って生きることが出来る。 それはとても楽しいことだと、私は感じています。 あなたはそう思いませんか? って、こんなことを書いていると「お前はフニャフニャした夢想家だ」と言われそうですね(苦笑) それは否定できませんが、でも、こんなことを考えているのは私だけではないとも考えているんですよ。 ちょうど、この詩のようにです。 You may say I'm a dreamer But I'm not the only one I hope someday you’ll join us And the world will be as one. "IMAGINE" John Lennon (そう言えばジョン・レノンの命日は一昨日でしたね) |