カテゴリ:教育、子育て、自転車旅行
『続き』・19~数の論理に乗っかっていいのか
湯河原で中学生が、熊本で女子高生が、いじめを苦にして自殺した。またか。学校なんて捨て去る自由をもっともっと、広めていきたい。 自分達や自分達の子供が平穏無事ならそれでいいのか? 昨年川西で高校生が自殺した後、「不慮の事故として発表させてくれ」と校長が遺族に言ったという。 学校って、こんなものでいいのか? 少なくとも、苦しみ抜いて命を落とした子供たちにとって、そこは“学校”じゃない。教師たちが“学校”だと言い張っても、そんなところは“学校”じゃない。内実が伴っていないなら“収容所”とでもを変えればいい。いいかい。命を奪われた子供は亡くなったときがいちばん辛かったわけじゃないんだよ。そこに至るまでの長く辛い日々があって、それを周りが改善してあげられなかったんだ。 命を落とす子供はマイノリティだ。だから、命を落とした後でさえ、踏みにじられる。「親の育て方が悪い」だの「自殺したほうが弱い」だの「心が病んでいた」だの… 嘘や言い逃ればかりする教育関係者相手に訴訟を起こせば「金目当て」だの嫌がらせらや口封じをするものがいる。被害者、遺族の二次被害、三次被害… マジョリティにとって目障りなマイノリティを潰す。そこに、善悪の判断基準や正義などは一切、存在しなくなる。 不登校もマイノリティだ。それでも、今、日本には、小中学生だけで、十二万人の不登校児童生徒がいる。ここには、年間欠席が三十日だった子供は含まれるが二十九日だった子供は含まれないし、生き地獄を味わいながら死にたい思いをしながら通っている子供も含まれていない。定義からはずれるからだ。定義って、実にくだらないよね。 大津の事件の酷い内容の発覚以来(事件の発生以来ではない)声をあげたり、数を集めて徒党を組む人たちも増えてきた。でも、それでいいのか? 本当にそれで解決に向かうのか? 数による制圧に数で対抗しては同じことではないのか? 一人の子供が小さな声で助けを求める。一人の保護者がSOSを発する。声が小さなうちは無視しておいて、数を集めて署名運動をしたり、力をつけてきたNPO法人相手なら面会しようかという文部科学省。こんなのだって間違っていないか?小さな声は放置する。なるべく他に知られないように、広く行き渡らないようにもみ消そうとする。抑え切れなくなったことにだけ対応する。おかしいだろ。さらに、大津以来のにわか正義のカルトのような集団の中には、被害者に寄り添うふりで近づき、数を集めてお祭り騒ぎをして悦に入っているのもある。苦しんでいる人の心につけ入るような輩もどこにでもいるのだ、とは認識しておきたい。あろうことか、いじめ撲滅を唱えて集まったはずの集団の中でいじめが始まるんだ。数で支配しようなんてものはそんなところにすぎない。見せかけの秩序、見せかけの平穏。そんなもののために、都合の悪い小さな声には耳も貸さない。そんな空気が世の中に出来上がってしまっているんだ。 大津の教師はすごいだろ。いじめを受けていた子供に対して「お前が我慢していれば丸く収まる」って言っていたんだよ。でも、これって、この教師一人の問題に矮小化してはいけないと思うよ。学校って制度が孕んだ、集団というものが孕んだ、普遍的なものでもあると思うんだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013年11月14日 20時10分00秒
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