正月
正月番組で、2人のオリックスOBを見かけた。1人は“番長”清原和博である。『芸能人格付けチェック』に出演。出番は100万円のワインを飲み当てるのと、100g1万円の牛肉を食べ当てるのと。いやァ、流石は「持っている」男だったね。まず、ワイン。どちらも不味くて答えは微妙と言いながら、正解。次に、牛肉。「牛の味がした」という根拠で選んだ答えは、またしても正解。……食べたのは、どちらも牛肉だったのだが。GACKTとの2ショットも実現させた。2人とも歯が白くて、眩しかった。さて、もう1人のOBというのが、“パンチ”でお馴染み佐藤和弘である。『とんねるずのスポーツ王は俺だ』に出演。石川遼や池田勇太らが打ったショットをグローブでキャッチするのだが、池の上に設えられた浮島で捕るため、時にはドボン!なんてこともあるわけで……。47歳、どんだけ体を張っているんだと。「この頑張っている男は、元オリックスなんだ」そう息子に伝えた。ブーマーの映像に食いつく規格外の6歳。パンチにも興味を示すかと思いきや……。無反応、だと?待て、倅よ。オリックスファンとして、パンチを知らんとは何事ぞ?ドラフトは“大豊作”と言われる1989年組。野茂英雄、佐々木主浩、与田剛、佐々岡真司、潮崎哲也、西村龍次、葛西稔……。そんな錚々たる面子と並び、1位指名だった。野球の成績は同期の1位には及ばなかったが、プロ在籍も5年と短い方ではあったが、彼には他の誰にも負けない特長があった。指名挨拶の電話を受け取り……。「上田監督だよォ、佐藤です、はじめまして。 会社の方と相談して決めることですけれども、 自分の心はひとつです!」更に、初めてのキャンプを終えると……。「マラソンで例えれば、ヨーイドンでスタートした 直後にコケちゃったというところですね」パンチ節はなおも続く。「あっちこっち擦りむいて、やっとのことで 起き上がって国立競技場を一周して外へ出たら、 もうロサ・モタ(ソウル五輪金メダル)の姿が見えない」演歌好きなパンチパーマの兄ちゃんが、1文節ごと噛みしめるように、マラソンの例え話をするのだ。そのキャラクターは瞬く間に全国区となり、オープン戦で安打を打った際には、「ところで、ロサ・モタは今どこ走ってんだよ」と、一塁塁上で落合博満にツッコまれるほどであった。余談だが、パンチのマラソン例え話は、亜細亜大時代の恩師・矢野祐弘総監督が、よく野球をマラソンに置き換えて説教していたことに影響されたのだという。1年目、1990年。42試合。2年目、1991年。46試合。3年目、1992年。35試合。4年目、1993年。3試合。5年目、1994年。23試合。一軍と二軍を行き来するような代打要員。特に、真ん中の3年間、土井正三政権下では干された。それでも、この間、知名度はチームで一番だったと思う。 “さとうかずひろ”というどこにでもいそうな名前の男が、だ。転機は5年目の1994年だった。キャンプ中の出来事……。パンチ「岡田(彰布)さん、一緒にカメラの前で、 今年復活にかける、と言いましょう!」岡田「復活って、俺はそうやが、お前、ええ時あったんか」結局、パンチは「ええ時」がないまま引退した。パンチはこの年から就任した仰木彬監督にタレント転向を勧められたのだ。因みに、登録名を「パンチ」にしたのもこの年だ。そして、チームの主役の座を明け渡したのも。“すずきいちろう”という、スタンダードすぎて逆に珍しい名前の男に。そう、イチローのことだ。最後に、パンチの影響力を示した事例をもう1つ。それは1990年、西武の契約更改でのことだった。球団代表に「いくら欲しい」と訊かれ、「心はひとつです!」とパンチ語録を使った奴がいるらしい。その名は、清原和博。この一言により、清原はプロ5年目で年俸1億円の大台を突破したのだった。☆☆☆今年の年賀状でござる。Please crick here !!