ねっぴぃ野球倶楽部~オリックスファンが書くスポーツコラム~

2010/09/05(日)15:14

引退3

野球(186)

矢野燿大が少し唐突な引退を表明したことで、 書こうと思っていたネタを思い出した。 ケン・グリフィーJr.の引退である。 6月、あれも突然だった。 実はこの選手、我々夫婦にとっては特別な存在だ。 結婚記念日の11月21日、 この日はグリフィーの誕生日に合わせてのもの。 とにかく、あの滑らかで大きなスイングが好きだった。 かつて、ナイキ社はマイケル・ジョーダンが 空を駆ける姿を“ジャンプマンロゴ”としたが、 グリフィーの場合は”スイングマンロゴ“。 筋トレはしない。禁止薬物にも手を出さない。 「チーターが走る前にストレッチするか」と、 ストレッチさえもしなかった。 それでも、しなやかに、遠くに打球をぶっ飛ばす。 通算630本塁打は歴代5位。タイトルは4度獲得。 アメリカでは笑顔が人気を呼んだ。 オールスター最多得票は当たり前。 ナイキ社はかつて「グリフィーを大統領に」という キャンペーンを展開し、実際に票を集めたらしい。 95年、ヤンキースとのディビジョンシリーズ第5戦、 エドガー・マルチネスの放った二塁打で、 グリフィーが滑り込んで決勝のホームイン。 弱小不人気球団が奇跡を起こした瞬間だった。 山積みとなるチームメイトたちの下から 最高の笑顔を見せたあの場面は、 どんな本塁打よりも印象的と言われる。 グリフィーはまた“イタズラ好き”として知られる。 ルー・ピネラ監督とステーキを賭けた時など、 負けたグリフィーが取った行動が傑作だった。 なんと、監督室に入ると、生きた牛が。 「さあ、君のステーキだ、ルー!」 最近では、球団のCMでイチローと共演。 グリフィーがイチローを呼び、隣の椅子に座らせる。 そして、深刻そうに話し、立ち去っていく。 イチローも立ち上がろうとするが……。 「ジューニアァァァアアアァァアア!」 明るさの反面、グリフィーには影もあった。 マイナー時代には、期待への重圧や人種差別が原因で 277錠ものアスピリンを服用し、自殺未遂。 キャリア後半は故障に悩まされ続けた。 それでも、彼は確かに人々から愛されていた。 そんなグリフィーに一杯食わされた男は数知れない。 中には、日本に馴染みの深い選手たちも。 グリフィーの父親・Sr.もメジャーの名選手だった。 90年には、史上初の親子アベックアーチ。 この親子に最も本塁打を打たれた投手の1人が、 元巨人のビル・ガリクソンである。 父に4本、息子に2本。合計6本を許している。 89年、グリフィーは19歳でデビューした。 この時、センターのポジションを奪われた男がいる。 元巨人のヘンリー・コトーである。 コトーは当時28歳のメジャー6年目。 前年は133試合に出場、打率.259、8本塁打だった。 グリフィーは守備も巧かった。ゴールドグラブ賞10度。 本塁打性の当たりを何度も掴み取った。 90年のことだ。通算200号となるはずだった打球を ナイスキャッチされてガックリした男がいる。 元巨人のジェシー・バーフィールドである。 ……全員“元巨人”じゃねえかァァァァァ! イヤイヤ、ならば、もう1人挙げよう。 94年、グリフィーは8試合連続本塁打という メジャータイ記録を作った。その一発を献上した投手。 その名は、ウィリー・バンクス。 オリックス時代には「ウィリー」という登録名だった。 実は彼、なかなかのエリートである。 87年のドラフト、グリフィーが全米1位なのに対し、 ウィリーはその直後、全米3位! 91年にはツインズでチャンピオンリングを手にし、 93年には11勝を挙げた。 なのに……、オリックスに来た99年は3勝3敗。 00年は残留したのに、一軍にも上がれず。 あ~あ。 因みに、オリックス経験者では他に長谷川滋利、 マック鈴木、吉井理人も被弾している。 まァ、今となっては自慢できるかもしれない。 これだけの名選手に打たれたのなら。 かつて、グリフィーはマリナーズの救世主だった。 シアトルからの移転をその活躍で回避させ、 現本拠地のセーフコ・フィールド建築を踏み切らせた。 旧ヤンキースタジアムが“ベーブ・ルースの建てた家”なら、 セーフコ・フィールドは“グリフィーが建てた家”。 実はグリフィーが引退した6月2日は、 ルースが75年前に引退した日でもある。 奇しくも、40歳という年齢、 1割8分台の打率までもが同じだった。 グッバイ、ケン・グリフィーJr.……。 Please crick here !!

続きを読む

総合記事ランキング

もっと見る