カテゴリ:文化・社会・ネット
該当する記事は「期待値でリスクを論じる愚かしさ-アゴラのヨハネス山城氏除名をめぐって」です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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職場での昼休みのお伴としてアゴラをチェックしています。原発稼働に対する教条主義的な反応を「科学的」に解きほぐそうという意図は共感していました。今回の件については、期待値を理系の御旗になぞらえて切って捨てていますが、いかんせん初等数学レベルの解釈であり、教条主義者と闘っているうち、自分たちも「科学的」であることを放棄してしまったという図式に感じました。小学生の算数レベルの期待値理論で切っていく論拠に感じた違和感が、このコラムで納得できました。パラメータとして分解しているのに、それを再び情緒的に混合してしまっては、分解した意味もなく、感性で語っているのに過ぎなくなっています。「理系」かといういい方を辻氏はしていますが、その対極の文系人である私も、「論理学」や「国語の読解力」という点では、彼の「文系力」のあまりにもプアなところが見え、構造主義的にみると結局、同じ穴の教条主義者と見えてしまうところが残念です。
(August 28, 2013 08:21:24 PM)
すみません追加です。コラム主酸の立ち位置を確認する作業をせず、上記の説明に書き込みしましたが、私は稼働賛成派です。ただ、すでに起きてしまった(=リスクではなく既存のイベント)今回の事故については、どう処理するか決まっていないのでは、自動車事故やトンネル事故と同列に取り扱えませんね。それは、リスクが実現してしまったことについての対処が自動車事故などと違って、不明確な点です。これは社会制度的に欠陥のある状態が実現していることになります。もちろん、上記でも論じられていますが、アゴラで切って捨てている論拠には、テールリスクに対する閾値という概念も欠落しています。文系の領域でも、企業会計上の内部統制におけるリスク評価というものがありますが、これは頻度と損害の重大性をもとにウエイト付けします。この際、頻度が高く損害もほどほどであれば、どういう対策がされているか、代替的に補完する対策があるのかを明記します。テールリスクに対しても、起こる被害が大きいケースは、それについてどう考え、無視するならなぜ無視するかのコメントを求められます。そういう覚悟を企業としていざというリスクテイクします、と記載するのです。それらを見て、投資家はお金を託すかどうかを判断するのです。
(August 28, 2013 08:39:59 PM)
まずは,ヨハネス山城の投稿の欠陥を指摘する。
貴殿のブログでは家の火災保険を例に挙げているが,これをアゴラへの投稿に当てはめて議論を置き換えると,家が火事になった場合の損害額や隣家への補償額は途轍もなく大きいから,家を建てるのは止めようとヨハネス山城は言っているのである。 投稿の中で「事故時の補償は誰がするんやろか」と,氏は1)から5)までの選択肢を挙げている。これは,貴殿の例で言えば「どこの会社の火災保険に入るか」に相当し,氏の選択肢には「火災保険には入らない」や「隣家への補償はしない」さえも含まれているように読める。 ここで重要なのは,だから「再稼動は諦めまへんか」=家を建てるのは止めませんか,と氏が主張していることなのである。 原子力事故が起きた際の補償金をどうやって賄うかは,貴殿の指摘どおり,確率を抜きにして仕組み・制度を考えなければならない。しかしながら,その補償制度を運用して原子力を引き続き利用するか否かの判断には,別の要素も考慮しなければならない。すなわち,家にかけた火災保険の保険料を支払う以上のベネフィットが得られるかであり,それは期待値で評価しなければならない。 (August 28, 2013 09:03:19 PM)
(続き)
原子力の場合,現況を踏まえた極論を言えば,火力発電で代替したことによる燃料費の増加が年間3兆円を超過していることから,補償額が3兆円程度なら1年間再稼動し,その収益を差し押さえて補償に充てるだけで賄えてしまう。10兆円でも3年余だ。もし,福島級の原子力事故が10年に1度起こるなら,30兆円までの被害補償は十分可能ということになる。この「事故が10年に1度」の部分が,貴殿が無視しておられる「確率」だ。 損失の大きさだけに着目し,確率を考慮しない者に抜け落ちているのは,リスクの反語であるベネフィット(ここではリターンの方が良いかも知れない)の存在である。原子力のベネフィットなどは,反原発・反日左翼には受け入れ難いものだ。もっとも,貴殿がその一員であるという仮説に従えば,貴殿のブログも容易に理解できてしまうが。 池田信夫氏の経済理論には全て賛成ではなく,石井孝明氏の在特会に対する認識は明らかに間違っている。それでも,原子力に関するアゴラの評論は,科学的・数学的には信用に足るものだ。原子力村などとレッテル貼りして批判するのは慎むがよろしい。 (August 28, 2013 09:08:23 PM)
(さらに続く)
貴殿は,「発生確率が大きく、損失も大きいときは回避するのが正解」と述べる一方で,自ら「一般に、リスクをテイクできるのは、発生確率が極めて低くこれを無視できる場合と、損失が発生しても自己資金で十分カバーできる場合のいずれか」ともおっしゃっておられる。正にそのおとおりで,原子力事故の発生確率がいかほどかが重要な要素となる。 福島第一があのような状況になった他方で,同タイプの女川は地域住民の避難場所となった。また,福島第二や東海も事故を免れている。 原発に事故は起こらないという安全神話以上に,原発は必ず事故を起こすという危険神話の方がむしろ破綻していることを認識しなければならない。 (August 28, 2013 09:19:56 PM)
文系領域でいうところの「機会損失」をなくすことででテールリスクが実現した今回の損害はカバーできるという話、納得です。企業会計上の統制上のリスクでのテールリスクに対する回答としては説得感があります。ただ、この、ブログはそういうミクロ的・実務的な話がなじむかどうか、勝手にお邪魔してしまい失礼だったかなと思いました。
ただ、一言。危険神話が破たん、というのは、火災保険をかけるという行為とは関係がないでしょう。また、機会損失が原発再稼働でカバーでき、損失が利益になり、それを差し押さえる、という提言は、山城氏の「常人が思いつきもせんかったようなユニークな考え方」なんでしょうに。だから山城氏の手の内の議論になっていますよ。拡散しないように釘を刺しますが、私は再稼働賛成です。でも、今回の除名劇は、稚拙な論拠であり、制度や社会心理(これも科学的研究領域と考えており、哲学とはそういうものも包含した「文系」の科学だと思っています)をスキップするどころか、自称している「理系」の名前も穢しているように思えてならないということです。 (August 28, 2013 10:04:01 PM)
ついでですいません。
>置き換えると,家が火事になった場合の損害額や隣家への補償額は途轍もなく大きいから,家を建てるのは止めようとヨハネス山城は言っているのである。 こんな読解力だから、辻氏の「理系ですか」という問いかけが痛くなります。 そんなこと一言も言ってないでしょうに。 私が12年前に2ちゃんではやらせた、、 「あんた国語の力自信持ってあると言えるのかい!」です。 (August 28, 2013 10:32:43 PM)
たくさんのコメントをいただきましてありがとうございます。
コメント欄は小さいため、後ほど本文で私の考えを述べさせていただきます。少しお時間をください。 (August 28, 2013 11:08:54 PM)
「何々リテラシー」という言葉がありますが、まさに今回はそのものずばりの「リテラシー」が欠如した人たちがいかに多いかということが実感されました。言語を持って議論する場において、科学的素養という前に、言語力、という基本的な前提がないがしろになって起こった事象のような気がします。そして、今の段階では解析不能なことがあるという余地を認めない非科学的な態度というものも感じました。
ブログ主様には勝手に乱入しまして申し訳ないとは思いましたが、本件について自分の思いというものが強くあり、書き込みさせて頂いた次第です。学問的というものからは遠ざかって久しいですが、高等教育時代に培った姿勢をもとに拙くはありますが、書き込みさせていただきました。本ブログを汚してしまったようで、大変恐縮しております。本ブログを今後拝読したいと思います。ちなみに私は私企業に奉職する会計の一実務家です。 (August 28, 2013 11:33:44 PM) |
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