禅宗には宗教というより自己啓発に有効なツールだという印象をもっていますが、限りなく個に集約された境涯を創造する過程で現れる極限の独善性をして大拙師は「異常な方法論」と表現するのでしょうか? この極限の独善性の衝動の行きつく究極が「狂気」と呼んでいるものであればが、此れは正しく以前yuzo_seoさんが書かれた善悪の彼岸にあるものと言えそうです。
「無分別の分別」や「主客未分」という東洋的解釈は、「客観」も「真理」も「主観の解釈に過ぎぬもの」として従属させるニーチェとの親和性はあると感じますが、「人間にそんな生き方が本当に可能なのだろうか?」という疑問が湧いてきます。不可能な生き方を選び行動するからこそ狂人(的)なのですが、実践すれば大部分の人間は実生活が破綻し、より大きな苦悩を背負う事になる。これは分別が苦悩の原因であるとして無分別を先立たせようとする東洋的解釈からは本末転倒の感もあり、ニーチェの最期の姿も象徴的である様な気もします。 「それでももう一度っ!!」と苦難の道を再度行くのがニーチェ的ではありそうで、高見を目指す覚悟がある人間は敢てその道を行けという事なのでしょうね。 (May 25, 2014 07:44:34 PM)
セイヤ777さん、ご意見ありがとうございます。
座禅は自己啓発ツールともいえそうですが、「禅」とは精神のあり方、物事に対する考え方でして、座禅はその境地に至るための一つの手段です。 禅の精神とは、理性が礎としております常識(上の引用部でいう「合理的に組織され」た「思想や観念」)を一旦意識の外に置くということで、こうすることで物事を新しい視点で見ることができるようになります。 ただ、こうしたやり方が人生の全てとなりますと、これは狂人そのものになってしまいます。個人の立場からは社会生活に支障をきたさない範囲で常識にとらわれない生き方なり考え方をすることが肝要ですし、組織を運営するような公的な立場であれば普遍妥当の規律に従って振舞う必要があるでしょう。 STAPの例でいえば、現象を考察する段階では常識など忘れてしまってよいのですが、論文発表は一定のルールに従う必要があります。また、理研の運営は普遍妥当の元に行われる必要があり、何が不正で何が不正でないかの判定に際しては誰もが納得する基準が必要であり、これを恣意的に行うようなことは慎まなくてはいけません。 公私の一線を引くこと、これが日本人には苦手であるように、私には思われます。 (May 26, 2014 10:58:31 AM) |
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