「雇われない生き方」実践レポート

2004/10/30(土)05:24

虚しく往きて実ちて帰る  

邂逅(4)

「虚往実帰」  虚しいこころでここを訪れた。そして帰ろうとする今、これほどに満ち足りてている。  弘法大師(空海)が恩師・恵果和尚の碑文に刻んだ言葉だそうです。 この師弟の物語もこころ打つものがあります。 804年第16次遣唐船に乗り込んだ空海は、2ヶ月の海上流浪の後、福建省の寂しい漁村に漂着します。  困難の後、長安に到着した空海は密教の総本山青龍寺、恵果のもとに入門しました。 空海30歳、恵果60歳の冬です。 恵果は千人余りもの弟子の中から、異国の僧・空海に才を見出し、真言密教第8世法王に任命し後継者とします。 そして二人がであってわずか半年余りの間に、全てを空海に伝授し、805年12月、60歳で恵果は亡くなりました。 恵果の遺言により、空海は20年の留学期間を大幅に繰り上げ、唐に来ていた次の遣唐使船で806年帰国しています。 その次の遣唐使は838年、空海は835年に亡くなっていますからこの帰国が強行されていなければ日本に真言密教は伝わらなかったかもしれません。 その後、密教は日本での隆盛をみる一方、中国では急速に衰えたようです。   一人の師に出会うことの尊さ。 そして、正当な継承者としての弟子と出会うことの喜び。 「何」を伝えようとし、「何」を授けられるのか・・・。 ふたりの邂逅を限りない価値あるものにしているのは、二人の間で「受け継がれようとされるもの」への共通の畏敬の念なのでしょうか。 尋ねていただいた人に、出会った人に、わたしは何を持ち帰っていただくことができるか・・・。 求める前に問うていなければならない「もてなしのこころ」のような気がします。 「何」を求め続ける二つの魂が出会うのか、この時点ですでに邂逅の価値は決まっている。 道を求める、「求道」とはかくも厳しく美しいもの。

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