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会長の独り言

会長の独り言

わたし、熱く語ります

社長正面100



はじめに


 嵯峨ガスセンターは、私が誕生した1ヶ月後に誕生しました。
昭和36年の3月のことです。


 まだ新婚の匂いが残る父と母の2人で創業しました。
当時は、嵯峨ガス器具店という社名でした。

 店舗は、住居の1階を改装して作りました。
父と母、そして生まれたばかりのわたしの3人の住居は、2階です。


     父と母は、努力しました。


 そのうちに、社員さんを雇うことが出来ました。
初めてうちに入ってくれた社員さんが、もう定年になりました。


     月日が、経つのは早いものですね。


 会社は順調に発展し、2年後には株式会社となりました。
初代社長は、とうぜん父でした。

 社員さんも増えてきました。
1階の店舗の奥は、事務所でしたが、
社員さんの増加に伴い、拡張を繰り返しました。


 それまでも、2階の住居に上がるには、
事務所を通らないと上がれませんでしたが、
でもついに、最後の拡張の時に、その階段部分も取り払われました。


    いったい、、どこから2階に上がるの?



    はい、、物干し台に上がる階段が残ってました。


 物干し台には、1階からも干せるように、
また、2階の窓からも洗濯物を取り込めるようになってました。


    その2階の窓から出入するんです。


 当時、小学生の低学年だったわたしには、特に違和感はなかったです。

と言うより、、
しょっちゅう、家の雰囲気が変わって、面白かったぐらいです。

 
 でも、少し物心がついてくると、
友達の言った言葉にショックを受けました。


   「なかむらクンのおうちは、窓から出入りするんやな。。」


 そうか、、窓から出入りするのは、おかしいことなんだ~

 そう言えば、

 友達のおうちは、玄関から出入りするもんな~


 わたしは、そんな感じだったんですが、


     その後、母が泣いていました。


「子供に惨めな思いをさせている、、悔しいー。。」


 そんな母を見て、ショックを受けましたけど、

そのあとに、言ってたのは、


「学校の先生の家庭訪問の時が、非常に恥ずかしかった。。」



     自分が、一番惨めだったんでしょうね。。



 その後、母は、改造を繰り返し、
少しは、人間の住む感じの家になってきました。


     今で言うところのリフォームです。


 そのときに良く母が言っていたのは、


「家は、3回建てんと、思い通りにはならない」


 って、事でした。
確かに、何度リフォームをしても、使い勝手は良くならなかったです。


    そりゃー、、次々に、会社が拡大するんですから。。

  
 でも、そのときに、幼いながらにも思ってたことで、


「家は3回建てないと・・」と、言っても、
普通の人は、1回建てるか、建てないかやのになー。。


 当時、流行った言葉に、


   「夢のマイホーム」というのがありましたから。。


 その後、昭和48年、太秦に5階建てのビルを建てました。
その前年には、嵯峨ガス器具店から、嵯峨ガスセンターに社名変更してます。


 事務所は、移転しました。
でも、1階の店舗は残ってます。

 住居部分には、玄関が出来ました。
でも、家の中に入るには、店舗のシャッターを開けないと入れません。


    年頃になって、夜遊びがしたい!!


と思っても、出て行くのも、帰るのも、
シャッターを開け閉めしないといけません。


    夜中に凄い音が、近所に鳴り響きます。


    まあ、、


    あまり気にしてませんでしたが。。(笑)



 わたしが、18歳の時に父が亡くなりました。


脳卒中でした、、



      46歳の働き盛りでの、無念の死。。



 朝起きて、歯を磨いている最中に、
崩れるように倒れこんでいきました。

ちょうど、母が旅行に行ってる最中で、
家には、わたししかいない。


      救急車を呼んで、即病院へ。。



病院でお医者さんが、「大丈夫ですか?」


      「・・・ふぁ、、ぃ・・・」  声にならない、、


 でも、この後、父の口から言葉が出る事はなかったです。
これが、最後の父の肉声でした。。(悲)


9日後の夜中に亡くなりました。


悲しみに暮れる間もなく、
早速、お葬式の手配が山のようにやってきます。


   まず、でてきたのが、どこでお葬式をするか?


当時は、今のように葬儀場というのがありませんでしたから、
家か、お寺か、公民館くらいです。


母は、言いました。


「この家でやりたい、、お父さんが、ここまで店を大きくした、この家で…」


      (涙涙…)



 でも、現実的には、店ですから、葬式をするスペースがありません。


      壁や、仕切りが邪魔になるんです。



 そこで、店の改装を、しょっちゅう頼んでいた工務店に頼みました。



 「明日の晩がお通夜なんです、明日の昼までに出来ますか?」


 そんなの・・、当時の、わたしにもわかります、、


      無理を、、無茶を、言ってるって。。


 工務店の大将は、言いました。


「社長には、大変世話になった。

 うちが大きくなったのも、中村さんのお陰だ。

 よその現場を止めて、やらしてもらいます。」



     すっごく、感動しました。。


 今、書いていても、涙がポロポロと出てきています。


 さすが、、おかかえの大工さんなんだー、、って、思いました。

でも、一般の人には、そんなおかかえ大工さんなんていないよなー。


     こんな時、どうするんだろう?


そんなことが、頭をよぎってました。



  みなさんのご協力で、無事にお葬式は終わりました。


 でも、毎週やってくる、おたいや。
準備なんかで大忙し。

親戚や社員さん、そして、同業の社長さんと、
都度、参加者が変わります。


 わたしは、お酌をしてまわります。

そのときにいろんなことを言われました。


励ましていただいているんだろうけど、
18歳のわたしには、意味の分らないことも多かったです。


 でも、そんなのが、今役に立ってます。
わたしの考え方の指針になりました。


 当時は、大学に入ったとこでした。

会社には、夏休みなんかを利用して、仕事をしたこともありましたから、


「もう、学校を辞めて、会社に入ろうか?」


 すると、母は、


「お父さんは、高校しか出てなかった。
 そして、大学出の人を使う事になったときに、
 非常につらかったんやで。。

 大学に行きなさい!
 あんたが、卒業するまで、わたしが会社を守るから。。」

 
     
 長くお読みいただきまして、ありがとうございます。


でも、、まだまだ、続いていきます。。(笑)

続きまして、大学編です!




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