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虹色のパレット

5.けいこちゃん

5.けいこちゃん

 その日私は校庭の見回り当番だった。校庭の隅にたった一本ある桜もすっかり散ってしまった、暖かい春の朝だった。

 私は、校門のところに立って、子供たちが登校する様子を見ていた。時計を見ると、もうそろそろ始業のチャイムが鳴る時間だった。その時、一人の女の子が力の限り泣き叫びながら、二人の女の人に手を引かれこちらに来るのが目に入った。近付いてくると、それは私のクラスのけいこちゃんだった。

 お母さんも私に気が付いて、
「あ、先生。おはよう御座います。ほら、けいこ。先生よ。挨拶しなさい。」
とけいこちゃんに言った。すると、けいこちゃんは、
「あーん、あーん。」
ともっと大きな声を出して泣き叫んだ。
「先生、毎朝こうなんですよ。本当に困ってるんです。これは、この子の姉なんですけどね、ご覧のようにけいこは年が離れて生まれた子なものですから、我が侭放題に育てちゃったんですよね。今になって困ってるんですが・・・。」
と言いながら、お姉さんに私を紹介してくれた。私とそう年が違わないように見えるその女性が軽く私に会釈し、私もそれに答えながら、「ああ、このお母さんは自信をなくしてるんだな。けいこちゃんはそれを敏感に感じて、何とは無しの不安をこういう形でお母さんにぶつけているんだな。」と私は思った。だから、私は、
「お母さん、けいこちゃんの事は私に任せて下さい。」
と言って、お母さんの手をしっかり握っていたけいこちゃんの手を、お母さんから受け取った。

 けいこちゃんは、
「いやー。いやだー。行きたくないよー。」
と顔中口にして泣き叫んだ。お母さんはそれを見ると、
「先生、大丈夫でしょうか。」
とおろおろして、なだめようとする。私は、
「お母さん、大丈夫です。どうぞ、お帰り下さい。」
と言うと、お母さんはまだ心配そうにしていて、けいこちゃんから離れようとはしなかった。ちょうどその時、チャイムが鳴った。すると、お姉さんが、
「そうよ、学校の事は先生にお任せすればいいのよ。早く帰りましょう。」
と言って、お母さんの肩を抱き抱えるようにしてその場を離れた。お母さんは、まだ泣いているけいこちゃんを振り返り、「先生、宜しくお願いします。」と言うように頭を下げて、娘さんに労わられながら小走りに走るように去って行った。

 私は、けいこちゃんの手を握る私の手に、「さあ、先生と一緒にお教室に行って勉強しようね。」と言う思いを込めてしっかり握り、歩き出した。でも、ニ~三歩歩くと、もうその場にしゃがみこんで、声が枯れるほどに泣き叫ぶ。いくらけいこちゃんが泣いたって、あなたにこれから教えなければならないことがいっぱい有るんだからと言う気持ちで、ぐんぐん手を引いて歩いた。それでもまだ座り込もうとする。

 私も歩を止めて、
「あれ?けいこちゃん、足は?」
というと、びっくりした様に涙だらけの顔を自分の足に向けた。
「あっ、元気そうな足があるね。可愛い靴も履いてるねぇ。」
その時、けいこちゃんは生まれて初めて自分の足を発見したような、なんだか驚きに満ちた様子で、何ともあどけない可愛い表情をして、暫く自分の足をまじまじと見ていた。
「それじゃあ、自分で歩けるかな?」
すると、私の顔を見て、黙って大きく頷いた。それからまた、「えーん、えーん、」とさっきよりは大分小さな声で泣き始めた。

  私は、この子は心の中に強いものがあるから、なだめられたりすかされたりすると、その強さが方向をなくして暴れだしちゃうんだなと思った。大人が自信を持って導かなければ、子ども達は進まない自分にいらだつ。子どもは学びたがっているのだ。正しい方向に導いてもらいたがっているのだ。自分が弱い存在だと言う事を知ってるのだ。まだ泣きじゃくっているけいこちゃんの手をしっかり握り返し、歩きながら話し始めた。
「日本の子どもは、六歳になるとみんな学校に行くんだよ。そういう決まりになっているのよ。けいこちゃん六歳になった?」
けいこちゃんは黙って頷いた。
「お母さんのおっぱい飲んでる赤ちゃんに、学校に来なさいなんていわないよ。けいこちゃん、まだお母さんのおっぱい時々欲しがってるの?」
「あたし、もう飲んでいないよ。」
泣きすぎて、くちゃくちゃになった顔と、少しかすれた声で、変なこと言わないでというように呟いた。
「そうか。じゃ、学校に来れるんだね。けいこちゃんみたいに、いやだーって泣く子もいるかもしれないけどね、この子は泣くから学校に来なくていいですって言うわけにはいかないんだよ。 だって、その子が大きくなって字が読めなかったり、お金の勘定が出来なかったりしたら困るだろうなって言う事が大人には分かっているから、頑張ってみんなに来てもらうんだよ。先生の言ってることわかるかなぁ?」
今度は、私をしっかりみて、少し恥ずかしそうな微笑を浮かべて大きく頷いた。

 そんなことを話しているうちに、昇降口まで来た。私は、黙ってけいこちゃんの靴箱から、上履きの印の赤いリボンのついた、まだ真っ白い運動靴を出して、けいこちゃんの足元に揃えて置いた。
「履くの手伝って上げようか?」
というと、今度は、なんだかニヤっとした感じで、
「自分で履ける。何時もお家でやってるんだもん。」
と得意気に、つま先を床にトントンと当てて自分で履いた。
「ああ、もうみんな自分で出来るんだね。じゃあ、下履きは自分の靴箱に入れられるかな?どれが自分のか分かるかなぁ?」
「先生、あたし赤ちゃんじゃないよ。」
涙で汚れた顔でニコニコして言う。それから、ハンカチで顔を拭いてやり、二人で手をつないで階段を上がり教室に行った。

 その後、けいこちゃんが駄々をこねるようなことはなかった。どちらかというと、無口な方だけれど、言いたい事は言っているようだった。男の子に、ポカンとやられても泣いたりは決してしなかった。
「やーね!○○君は。」
と言って、ぶった子をきっと睨み返すけれど、その目つきに憎しみのようなものは無く、
「そういう事するもんじゃないわよ。」
と強く訴えかけているだけで,後はけろっとしている。そのすぐ後、
「せんせ。」
なんて言いながら私のところに来ても言いつけるような事はしなかった。

 「強い子なんだな。大人が自信を持って導く態度が無いと、あの強さがスムーズな流れにならなくて、あっちこっちに行って方向を失い、大人の目には我が侭に見えるんだな。」
と思いながらお母さんにもそのことを話した。お母さんも良く分かって下さったようだった。


 日々の生活の中で起こるほんのちょっとした場面の中に、無限の可能性と発展への糸口がある。
問題児なんて何処にもいない。悪い子なんて見たことが無い。いるのは問題を抱えた大人、自分勝手に決め付け捕らえられている大人、想像力の無い思いやる事を忘れた大人、それらに気づかないという二重の問題を抱えた大人がいるだけだ。そんな大人だって、気付きさえしたら、そして、ほんのちょっとの勇気とやる気があったら、問題大人だっていないんだけどなー・・・。
 
 今でもけいこちゃんの大きな泣き声が聞こえる。元気な頼もしい泣き声だ。にやっとした恥ずかしそうな微笑が見える。強さと優しさの混じった暖かい微笑だ。

 けいこちゃんがどんな育て方をされたのか、我が侭放題しているのか、そんなことは私は知らない。それより、足があるのに歩かないけいこちゃんが不思議だった。ただそれだけ。私の思いとけいこちゃんの思いとが一致したようだった。まじまじと自分の足を見ていたけいこちゃんの心の中では多くの思いが言葉にもならない真実が交差し、電光石火のように一瞬けいこちゃんの心を貫いたのだろう。それで私達二人の心も繋がった。

教育って、心の繋がりなんだよね。シンプルな事なのに。

 指導というより、対話。私も未熟だ。子どもも未熟だ。だからそこに教育が成り立つ。こうして、子ども達との関わりについて書き始めると切りが無い。どんなに時間がたっても、子ども達と教えあい学びあい育てあった体験は、私の中で消えることが無い。今も私を作っている。


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