喫 茶 去

2009/11/08(日)16:46

『狩野亨吉の生涯』 を読む。

本・読書(202)

先日新聞のコラムに、歴史学者の方がこんなことを書いていたので興味をそそられた。 「私はこの人が遺した膨大な蔵書を読むのが楽しみで生きている。10万冊の和装本。日本思想の宝庫だ。 狩野亨吉(かのうこうきち)は明治の哲人。人格高潔。博覧強記。学識の最高峰とされた。夏目漱石は彼を終生敬愛、漱石の弔辞も彼が読んだ。 34歳で第一高等学校長。京都帝国大学文科大学の初代学長となるが、文部省が学歴偏重、天下り人事を押し付けたのにあきれ、2年で辞任。突如、古本・古道具屋をはじめた。 皇太子の教育係は狩野しかいないと、昭和天皇の補導役に推された。だが狩野は固辞。 当時、天皇や国家・忠孝の価値は絶対であったため、自分の思想で未来の天皇を育てるわけにはいかないという理由からだった。 日米開戦を知ると、<神がかりや曲学阿世の徒が国家を滅ぼすことになった。もう2年もすればアメリカの飛行機が来襲し、ここら一帯は全部焼け野原になる>と言い残して死去。」 狩野亨吉(かのうこうきち)。 へえ~、そういう素晴しい方がいらっしゃいましたか。 ヤホーで(笑)調べてみたら、『狩野亨吉の生涯 青江舜二郎』という本があったのですが、 Amazonnで文庫の中古本が18,900円+送料340円と出ていた。 w(゚o゚)w おお~!! なんちゅう値段が付いてるねん。絶対買えないじゃん。 では図書館でこの本を探してみるかと調べてもらったら、「地下室にありますね」 おお、あった、あった。地下室に眠っていた。820頁もある分厚い本だ。       狩野亨吉自身は10万冊も読んでいるが、彼は一冊も本を書いていない。 残っているのは日記である。その克明に記された日記を元に、青江氏が書いたものである。 徳川幕府江戸城明け渡し前の、慶応元年(1985年)に、 秋田県のはずれ、十和田湖にほど近い大館という小さな城(久保田藩)のある町で生まれている。 藩士の狩野家は代々学者の家柄で、明治9年12歳で上京。 府立一中(現在の日比谷高校)から帝国大学(東大)理学部に入学。 帝国大学理科大学数学科を卒業、文科大学哲学科へ編入。まさにエリートコースを歩む。 しかも、「大学を卒業するまで最も鈍なるものありき即ち数学なり」と書いている。 その最も苦手とする数学科を選んで卒業しているのだから凄い。 英語、フランス語、漢学は勿論のこと、ギリシャ語、ラテン語の本も原書で読んでいる。 文系理系をきちんと両立させ、そして哲学。 スポーツも登山もし、ピアノを弾き、東西の楽譜を沢山集め、楽譜の殆どは芸大に寄付したらしい。 それでいて、温厚な人柄だったという。 天皇の教育係りにふさわしい人だったことがわかる。 漱石が亡くなった時、友人代表の弔辞を誰に頼むかということになり、 やっぱり狩野亨吉だろうと誰かが言い出すと、反対者は一人もいず、すんなり決まったという。 漱石といえばその狂気説が語られるが、漱石没後、ある新聞記者がそのことについて訊ねると、 「変わっていたといえばむしろ細君の方でしょう」と答えている。 わがままな奥さんに束縛された漱石の姿を目の当たりに見ていたようだ。 「教育ママ一号」という見出しで、ちょっと面白いことが書いてある。 旧制第一高等学校(現在の東大)の校長は、狩野の後に新渡戸稲造も歴任している。 当時その一高に、現・鳩山由紀夫総理の祖父の一郎氏が入学している。 明治以後の教育ママ第一号とされる鳩山春子のケース。長男一郎が入った時、あんな寮では息子がだめになる、通学させるからと言いに来た。一郎の父秀夫は当時、政財界に顔の売れた弁護士で、それにはこの春子の外助の功があるともっぱらの噂だ。そうした彼女がとうとうとまくし立てるのをいつものように黙って聞いていた亨吉は、 「ここは入寮が建前です。それが気に入らぬとすれば退学届けを出して下さい。」 また、こんなエピソードもあるという。 春子が合格発表の日馬車で一高にやって来た。彼女の顔を知っている男がかけよって、 「奥様、おめでとうございます。ご子息は合格されました。」というと、彼女は昂然と、 「私はそれを見に参ったのではございません。息子がもし一番でないとすれば、一番はどいつだろうと思いましてね。」 春子さんという方は、日本の教育者で共立女子大学の創立者だそうですが、 これを読むと、人間的に母としてどうなんだろうと思ってしまいますね。 一郎は癇癪もちで妻にも暴力をふるっていたそうです。 狩野校長は、「新渡戸先生は偉大であるが、その道を進む人はありえよう。しかし狩野先生のやうな人は再び出にくい」と、そんなふうに言わしめたような器量だった。 番町小学校を卒業した亨吉へ、匿名教師からの一通の手紙が残っている。 「自分は今まで多くの子弟を教育して来たが、きみのようなのは見たことがない。書、数、習の三科目のすべてにすぐれていてしかも平然沈黙、人と争わず、その器量はまことに大きい。きみは今度中学に及第し、自分は別れなければならないが、識量抜群のきみはいつか必ず天下の大器になると思うから、別れに臨んで訓戒する。常に勉励の二字を守っておこたってはいけない。大いに自愛せよ。」 小学生の亨吉の人柄によほど惹かれたのでしょうね、この先生は。 小さい頃から人間的によく出来ていたのですね。 昭和17年、戦争開始後、一切の私的会合に出席せず、12月死去。 東大医学部において脳髄摘出。 10万の書を持っていた狩野はこの本を、中学以来の親友だった、 東北大学の初代総長だった沢柳政太郎に破格の値段で売っている。 「狩野文庫」として東北大学に残っている。 そういえば、昨年仙台文学館に「夏目漱石展」を見に行った時、 漱石の蔵書や直筆原稿や日記・書簡、学生時代の答案、趣味の絵画など貴重な資料を 東北大学の図書館で所蔵していることを知った。 どうして東北大に? と思ったら、戦争の空襲による焼失を避けるため、 漱石の弟子が図書館長を務めていたので、東京から移動させて奇跡的に残ったのだそうだ。 仙台も焼け野原になったのですが、図書館が無事で良かったです。

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