96年を振り返る~ポンチャックブーム~

その時歴史は動いた「1996年『李博士とポンチャックブーム』」


今回は、李博士が日本のSONYミュージックからデビューした頃、 1996年を中心に振り返りたいと思います。


(記事全文) 1996.4.25(木)朝日新聞夕刊
「韓国の河内音頭?浪速っ子ノリノリ」
独特のリズムで有名曲メドレー ポンチャック イ・パクサがCD
韓国に「ポンチャック」とよばれる大衆音楽がある。
有名な曲を固有のリズムに乗せて、延々とメドレーで歌う。河内音頭に似てなくもない。
その代表格、李博士=イ・パクサ=(41)が日本でCDデビューを果たし、このほど大阪でミニライブを開いた。ノリのいい宴会芸の雰囲気が、大阪の若者にうけてしまった。
 大阪のレコード店頭であったミニライブ。李博士は、からし色のスーツ、白のエナメル靴とけばい衣装に身を包み、さっそうと登場した。単調なシンセサイザーのリズムに乗せながら、軽快に歌っていく。曲と曲の間は「ジョワジョワ」「ハッハッ」と、口三味線を入れながらつないでいく。観客の方も手拍子、踊りと、異様な雰囲気になってしまった。
 貧しいながらも、父はミュージシャンだった。十五歳のとき父が亡くなり、ソウルで靴みがきや中華料理の配達など職を転々としながら、生計を立てた。二十四歳で見つけた職が、バスガイドだった。バスでポンチャックを披露し、人気者になった。名所案内も歌にのせてやる。八時間以上、歌い続けたこともあるという。
 そんな芸達者が、韓国のレコード会社の目にとまり、七年前にデビューした。韓国での主な仕事は、キャバレーや宴会での司会や盛り上げ役だ。
 ポンチャックが本格的に日本で知られ始めたのは数年前から。輸入版のカセットやCDが
紹介され、アジア音楽愛好家の間で支持された。これに注目したレコード会社、キューン・ソニーが昨年暮れ、李博士と契約を結んだ。
 日本で発売された「李博士のポンチャック大百科」は、韓国の歌のほか、日本の歌謡曲を直訳風にアレンジして歌っている。「木綿のハンカチーフ」「与作」「おどるポンポコリン」。 これが、お手軽なディスコ調に変身した。
 日本の歌謡曲が韓国では解禁されてないことについては、「無理にではなく、段階的に解禁することが、両国のためになると思う」。本当はシャイで、きまじめな人である。


TowerRecords
(写真)若者に大受けした李博士のミニライブ=21日、大阪・アメリカ村のタワーレコード心斎橋店で
使い捨てだけど潔さが好き
ポンチャックに詳しい音楽評論家・湯浅学さんの話
李博士のような確立した芸を持った人は、韓国でも二、三人。どの曲も似ているようだけど、すたれない。 こんなパワーのあるジャンルはないでしょう。使い捨ての音楽なんだけど、新しく作ればいいという潔さが良い


(記事全文) 1996/3月頃 写真週刊誌「Focus」より
李博士といってもドクターではない。
イ・パクサは、謎の韓国大物歌手なのだ。

ソウル・金浦空港の入国審査官は、記者のパスポートに押されたジャーナリストビザを見て、 早口の英語で尋ねた。
「一体なんの取材なんです?」「韓国の歌手の取材です」「どんな歌手ですか?」と、 審査官はさらに突っ込んで聞いてくる。三・一独立運動七十七周年記念日を前にして、 竹島(韓国名は独島)問題で揺れる時期だった。日本からの記者に対して神経質になっている のだろう。「ポンチャックの歌い手です」「ポンチャックですって?」
その瞬間、張り詰めていた空気は弛緩し、審査官は曖昧な哂いを見せたのである。
 ポンチャックとは、あらゆる分野の歌をメドレー形式で繋げた非常に単調な二拍子の ダンス音楽のこと。このたびキング・オブ・ポンチャックの異名をとる李博士(41)が、 日本でもCDデビュー。三月二十一日にシングル、「李博士のポンチャック大百科」を 出し、四月二十三日に電気グルーヴの前座として武道館でライブを開くという。
 ポンチャックの帝王は、「動物園では、ライオンや虎よりも猿の方が人気があるでしょう。 猿は見てて面白いから。自分も猿と同じように面白い存在だと思う。日本でも受け入れられる のではないか」と言いつつ、「自分の音楽は、キーボードひとつでやるのだが、武道館という 大きな会場で大丈夫だろうか?」と不安げに記者に尋ねた。
  一体、いつもはどんなところで 歌っているのか、と彼のライブに行ってみた。場所はソウル郊外の焼き肉屋。地元のお婆さん の七十四歳の誕生会だそうで、そこで記者が見たのは、二百人ほどの客が酔いしれ、二時間
ぶっ通しで踊り続ける姿だった。果して、その大陸的なパワーが島国でも受け入れられるか どうか定かではないが、「音楽とは、人の感情を動かす力です。私は音楽を用いて、両国の 文化交流の架け橋にとなりたいんです」
 そう言って、彼は「独島死守」の横断幕と露店のブラジャーがたなびくソウルの南大門 市場で、決めポーズ(!)を取ってくれたのであった。

李博士記事


ポンチャックはジョワジョワ
 電気グルーヴ:ピエール瀧氏 執筆記事(ぴあ巻頭カラー記事4P特集)
いやー、凄まじい体験をしてしまった。TVでよく“タレントが未開発の地で現地部族の生活を学ぼうと赴くと、その後そこで年に1回あるかないかの歓迎の宴が開かれた”というのがあるが、何かそんな感じである。ここが飛行機で2時間半の韓国で、周囲の人が日本人と変わらぬルックスをしていることを思えば、むしろカルチャー・ショック度はそれよりもはるかに高い。韓国ポンチャック界の第一人者、李博士のライブを目撃せんと、けっこうウキウキで訪れたソウルで、我々取材陣は想像をはるかに超える光景に遭遇した。
 2/25(日)昼12時半。ソウル中心地にほど近いホテルからバスで1時間、ライブ会場である焼き肉屋に到着。今日ここに、70歳の誕生日を迎えるおばあちゃんのために親族一同が集結するという。ところが、早く着きすぎたのか我々日本からの取材班以外、まだ誰も座敷に上がっていない。さすがに本来のお客様より先に飲み食いを始めるわけにも行かず・・・・・というのが日本の常識だが、席に着いたとたんいきなり骨付きカルビが出てきた。しかもばんばん焼かれていく。
いつしか席も埋まっていき、そしてライブ会場は白い肉煙に包まれた。
 いよいよ李博士の登場。ワン、ツーと格好良くライブがスタートするわけではもちろんなく、 基本的には彼は司会進行役。皆におばあちゃんを紹介し、ケーキカットをナイスなムードで盛り上げる。こんな時の彼の口癖は「ジョワジョワ」日本語で良し良し、英語ではGOOD GOODを意味する。この繰り返しが多いほど、彼の調子は良いと見ていい。「ワーイ・エミ・シ・エー、ワーイ・エミ・シ・エ・ジョワジョワジョワジョワ(YOUNG MAN)」といった具合に、ライブ中も随所に飛び出す愉快な合いの手である。
 ケーキカットが終わると「ディスコーッ」のかけ声。と同時に“ポン、チャ、ポン、チャ”というリズムボックスのチープな響き。ついに彼が歌い出す!「ディーリーリーディリリリリ-リー」42歳とは思えぬ見事に甲高い声でいきなりギアはトップへ。あとはひたすら歌を繋げていく。この日は日本からの客を意識してか、我々にもおなじみの曲を多数披露。
「おどるポンポコリン」「ツッパリHigh Schllo Rock’n Roll」「あたしなんで抱きしめたいんだろう?」・・・。これらの曲が、ジョワジョワの合いの手を繋ぎとしてひたすらループされていく。
統一のリズム、奇声、メロディ、リズム、奇声、メロディ・・・これはハウス!テクノ!レイブだ!
ダンススペースも凄い。70歳のおばあちゃんからよちよちの子供まで、本当に老若男女が踊りまくる。いや、踊り狂っている。歌い、踊り、飲み、食べ、笑い、怒り、泣き、こぼし、拭いて、転び、起き上がり、回って、叫び、手をつなぎ、抱き合い、そしてまた歌い、踊る。李博士はこの状況を冷静に見渡し、皆が、も、もうだめだ!というところでメドレーをいったん終了する。終わりの合図は「パクスーウ(拍手ー)。全員息も絶え絶えに拍手。この間20~30分、これを1セットとして、結局この日は計4回繰り返された。
 食べ終わった・・・じゃなかった、ライブが終了したのは午後4時頃。外に出ると、まだ陽は高く、今までのことがまるで白昼夢であったかのよう。見送りに出てきた李博士は、その陽の中、笑顔でつぶやいた-「ジョワジョワ」。
1996年4月李博士日本デビュー(ぴあ…
李博士ぴあ1


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