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カテゴリ:埼玉県
大宮の事、正直に告白してしまえば余り良く思っていなかったのです。呑みを目的に据えて訪れた事も何度があったはずだし、無論そうでない理由でやってきた事だって少なからずあります。でも、以前やって来たときには視界に映り込まなかったような呑み屋となりそうな店が幾らでもありそうなのです。それには一つの理由として大衆食堂や中華飯店―この呼び方も違和感を感じるので先般鶯谷で見掛けた大衆中華に落ち着けたいと思うに至ったのです―なんかを好んで呑み屋利用するようになったという事情もありますが、実際にはそうした店々も訪問宿題店としてメモしてあったのだから、理由はそれだけではなさそうです。こうした私的な嗜好の変化、いや変化もあるけれど、それ以上により酒を呑ませる事を主たる生業とする店舗が減少したと捉えるのが実態に近いかもしれません。酒場らしい酒場が減った事によって己の趣向が拡大するというジレンマには、未だにそれが歓迎すべき事態である事を素直に認められない気持ちがわだかまっているのです。 この「多万里(多萬里)食堂」だって以前から良い雰囲気だと思っていたけれど、後回しにしてしまっていたようです。トイレを借りに立ち寄った高島屋の活気のない様子にこんなものなのだろうなあという感慨と愛惜の念が湧き出すのを眺めながら、店に入ると食券売場があります。かつてはこの売り場で捌かねばならぬ程に買い物途中やその帰りに小腹満たしで立ち寄る客が溢れたのだろうと思えるのです。ここの特に際立ったところはないけれど、しみじみと滋味深いなんとなく懐かしい味に惹かれてお越しになるのでしょうか。高島屋の買い物とこちらの食事のどちらが本来の目的なのかと思わせる程に旺盛な食欲を発揮するご婦人もおられます。そんなに食べて夕食はどうするのだろう。生餃子4人前のテイクアウトを求めて来られたお客さんがいる。ホント、われわれは餃子とチャーハンでビールを頂いたのですが、ここの餃子はなんてことはないのです。それでも普段は取扱をしていないらしい持ち帰りを求めるとは、外出もままならなくなったご老体のたっての願いなのかもしれません。われわれなどはそれこそバーゲンセールに付き合わされた夫が愛想を尽かして、時間潰しにやって来ているような有様なのかもしれません。なにやら幼少時に似たような情景を経験したような気がします。しかし、当時は両親が取皿をもらって取り分けて食べさせたであろう子供の姿などどこにもなく、オヤジ二人が炒飯を取り分けてそれを肴にビールを啜るのだから、時代も無慈悲なものです。 例の目当ての酒場を眺めるとまだ開店する様子すらありません。しばし町を散策するとかつての大宮の繁華振りを記録したモノクロ写真が大きく引き伸ばされ飾られています。今更ではありますが、どうもぼくの感性は昭和のこの当時に取り残されたままのようです。新しい町並みがいけないとは言えないけれど、どうも最近の町を歩いていてもぼくのいる場所はここではないという気分に晒されるのです。 その目当ての酒場から古い町並み写真のある線路沿いを行くとやがて「炭火・やきとり 大野屋」がありました。店名とその雰囲気から勝手に東松山式の焼鳥店と思い込んだのですが、ぼくの手持ちのメモに同じ店名の焼鳥店はなさそうです。「大松屋」と勘違いしたのでしょうか。店内はユニークな形状のカウンターが設置されていてなかなか味わい深い。辛味噌が東松山風なので、木製スプーンですくった味噌を直接擦り付けるのかと伺うとそうだという答えだったので、肉にペタペタと縫ってみると慌てて、皿に置いてほしいだって。だから聞いたのにね。常連の女性はお医者さんらしいけれど、夕暮れ前に独りで呑むとはなかなか頼もしい。味も値段も普通だけれど、どうも店主が新規の客には冷ややかな印象でいささか居心地がよろしくないのであります。背中でピリピリとした注意を払っているらしいのを感じます。しかし、また独り常連が来られると気持ちはそちらへと移ったらしく、ひりひりした空気は失せてのんびりした様子になられました。こちらものんびりしたいところだけれど、この日一番の狙いがあるから適当に切り上げることにしたのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018/11/13 08:30:10 AM
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