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カテゴリ:群馬県
若い頃は家にじっと閉じ籠っているのが不安でした。不安というよりは家にいる事が悪のように思って、せっせと出歩いたし旅行にも出掛けたのです。当時のぼくは余りにも若く常に自意識が過剰に分泌されていたようで、自宅に明かりが灯るのすら恥ずかしい事ではないのかとすら感じていたようです。でも今なら恥じらいなく断言できるけれど、ぼくは紛れもなく出不精だし、同時に家派でもあるのだから外出は本来であれば大の不得手なのです。ならば何故に出歩くのか。かつてのように自意識が理由であれば分かり易いのでありますが、事態はもっと単純で家で過ごしていると退屈になるのです。退屈が嫌いだから外出するというのは案外一般的な事だと思うのですが、いかがなものでしょう。退屈しのぎに酒場や喫茶を巡るというのはまあありそうな話で、とにかくぼくはそんな世間の多くの人達と同じようなメンタリティに縛られて歳を重ねてきたのです。旅に出るのも同じ事です。旅に出たところで不便で辛いことのほうがずっと多くて、何でそんなに苦労をしてまで出掛けていくのか。お金だって掛かるしね。旅に出たって、酒場や喫茶巡りをしたって、実はそれ程の強い刺激が得られるわけじゃなし、こうなるとむしろお金を払ってあえて退屈を買っているようなものです。否応なしに到来する退屈に対して自ら求めて奪い取った退屈の差、この倒錯的な行為であるが故に、それに惹かれるのかもしれない。
我ながら無理の多い理屈であるけれど、人は多かれ少なかれ無駄な事に心血を注いでいくものです。それを確認するにうってつけの物件があります。それを求めて高崎に向かう事にしました。この旅は終始そうした一般人の理解を超えたレベルで、得意な物件に対して情熱を注入した人達がいたということを確認する旅になります。そのような強い情念によって生み出された物件は何物につけ狂気の気配を背後だとか内側に漲らせているものだけれど、ようやく訪れる事のできた高崎白衣観音は至って憩える表情を浮かべていたし、胎内巡りも有難い気持ちになったものです。洞窟観音などはより有り難みが増して、隣接する庭園に腰を掛けて満面の笑みを浮かべる閻魔大王にはコチラも幸福な気分にさせられたものです。 それに引き換え、高崎観音の参道入口そばの「ケインズ」には、少しも心安らかにしては貰えなかったので、外観のみ晒すに留めたいのです。決定的なのは店主には、熱情が決定的に欠如しているのだ。その理由は例のごとく詳らかにせぬのです。 というだけでは、喫茶巡りの報告としてはいかにも貧弱なので、「自家焙煎珈琲 いし田」にもお邪魔することにしたのです。本当のところはすぐそばの別なお店を訪れるのが目的だったのですが、路線バスの時刻が合わず洞窟観音からは歩いて高崎市街を目指したため、ちょっとくたびれたのでまずは喫茶店で一服したかったのでした。ところが最初こちらを訪れた際には満席で断られ、食事を終えた後にもほぼ満席で待たされるほどの人気店なのでした。いやいや人気もありそうですが、それ以上に店の方がのんびりしていてそれが主な原因となって混雑していたのかもしれません。といったわけで、豆屋的なのんびりとした応対で、かといって内装が目を見張るようなところがあるわけでもないので、純喫茶風なるものを求める方には余りお勧めしませんが、観光の後に時間に余裕のある方であればお寄りになってもいいのでは。店の方は、高齢女性でありましたが人柄は大変よろしくていらっしゃったので。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2019/07/21 08:30:06 AM
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