夜が待ち遠しい

2019/08/21(水)08:30

大塚の繁華街の外れの老人たちの憩いの中華料理店

豊島区(352)

 近頃、日よってばかりで誠に申し訳ないことですが、気力体力ともに低調気味でどうも電車を乗り継いでまで呑みに行く気になれずにいるのです。その原因ははっきりしていて、言ってみれば夏バテ気味ということになるのでしょうが、それ以外にもぶらぶらと遊び歩いていられない事情があったりもするのでした。無論、毎晩のように呑んではいるのですが、呑みに行くとなるとなるべく職場もしくは自宅から余り不便でない場所を選びがちになるし、そこでも空調のない酒場や混み合った酒場に行きたいと思うとなると、畢竟行き着く酒場は決まり切ってしまうのであります。しかしそんなマンネリな日々にも飽きてきたから、気力が湧かぬとか体力が落ちているとかいう言い訳を払拭して、いち早くの復帰を果たすべく徐々にリハビリを開始したところです。いつも同じころばかり言っていますが、自宅と職場との往復は好むと好まざるとに関わらず繰り返さざるを得ないから、職業を変えたり職場の移動を願い出るなどの労を行使するよりは、引越しするのが手っ取り早いということになるのですが、それすらままならぬのだから、だとすれば己の怠惰を打破するしかないのであります。  それはそうなんだろうけど、たまたま大塚の「中華料理 千千世」のようなお店で呑んでいると、あくせくと未訪店を巡っているのはアホらしく思えてくるのです。と書くと通常の文脈では馴染のお店を意味することになるのであろうけれど、けしてそういうわけではないのです。未訪店ばかりを躍起になって巡る行為の虚しい側面ばかりが際立って、本来ぼくが求めている好奇心を満足させることなど児戯のようにすら思えてくるのです。というのがこちらのお店、結構な人数のお客さんが詰めかけているのですが、けして行列のできるお店とかいうのではなくて、老人たちの集会所として大いにその役目を果たしているのでありました。団体客もいるし、夫婦連れもいたりして、そのことごとくがご老体ばかりであるというのだから、こちらのお店は高齢者にとって支持される何ものかが存在するのであろうと思うのだ。その最たるものが注文せずとも長居することを許されるところにあるのではないかと考えるのだ。齢を重ねて、人生が残り少ないとなると、今のぼくではこの世に未練を残さぬようせかせかと日々を過ごすんじゃないかと思ったりもするのだけれど、彼らを眺めていると逆の発想に行き着くようなのです。残り少ない日々だからこそのんびりと楽に生きたいと思うらしいのです。職場のリタイア組を見ていても、退職前にはあれやこれやと老後のプランを組んでいた人たちも少なからずいたけれど、それを想定していたとおりに実行する者はまれなようなのだ。というかそうした方たちは、残念としかいいようがないのだけれど、コロリと逝ってしまったりするのであります。身近に一人、定年後も現役当時と変わらずに研究活動を継続している稀有な人がいるけれど―というよりは研究発表を理由に海外旅行に行くのが目当てらしいのだけれど、まだまだ己の遣り残しをなくすために必死になっていることでは変わらないと思うのだ―、余り無理せず、時折ぼくに呑ませてくれてのんびりと過ごすことを提言したくもなるのであります。まあ、こんな人は極めて稀有な存在で、大概はこちらに集うご老体たちのように気のおけぬ仲間たちと毎日毎日飽きもせず集い、語らっていれば満足と見做す生き方もできるはずなのです。とまあ余談ばかりになってしまいましたが、大塚の繁華街から少し外れた静かな場所で少しも気取らず、そこらの現地系中華料理店をやっているこちらはドリンクと餃子―焼きも水もあり―で500円とお手頃にいつまでも居座ることができるのだから、年金生活者にはありがたいことだろう。それは給与労働者も同様であり、水餃子がなかなか美味しい割にはウーロンハイが不味い位は文句には当たらぬのだと思うのです。瓶ビールを頼むと中国人らしき老人たちの良き話し相手にもあるママさんが冷蔵庫から取り出したそれをわざわざ厨房に持ち込み、なぜかグラスに少し注いだ状態で持ってくるのも、なんだか見て見ぬふりをしても構わぬと思わせる緩い気分にぼくを浸らせてくれるのでした。

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