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カテゴリ:荒川区
最近、列車広告で小田急線偏愛紀行なるものを見掛けましたが、その拙い文章もさることながら、語られていることがまるで自分が普段考えていることというか何度もここで書いてきたことのように思えて少なからず不愉快な気分になったものです。そこで書かれているのは偏愛というフィルターでもって町を眺めると、フィルターなしで見た町とは風景が違って見えるという素朴で捻りのない事柄なのであります。素朴であるということは退屈であると同時に正鵠を射ているということもあって、つまりは偏愛というのは退屈を常に伴ってくることでもあるのです。なぜなら偏愛とはもともとは多様であるはずの風景から一様の風景を切り取る思考方法であるはずだからであります。ぼくなどのような不器用な者には、偏愛的なやり方でしか町を眺められぬわけであって、偏愛とする対象が移ろうたびにその町の風景も同様に変化を被ることになるのでした。例えば中華飯店も今のぼくの偏愛対象であるわけですが、これを偏愛することで町の見え方は確かに変貌を遂げたのであります。
純粋な酒場目線で尾久の町を彷徨っていた頃には、この町にはほとんどといっていい程に魅力を感じられませんでした。それがある時期から中華飯店を照準に入れるようになると途端に褪色した町が色彩を取り戻すように感じられたのでした。定番の朱系の色彩ばかりでなく黄色も比較的ポピュラーでよく目立つのです。しかしそれも営業いていて照明が灯った場合に限られていて、この夜初めて「栃木屋」の灯りを目にして、色彩を感じることができたのでした。どうにも魔の悪いタイミングにこれまで訪れていたようでありますが、界隈には鮮やかな色彩を放つ店が少なくないから何度目かにしてようやくの遭遇でも支障はなかったけれど、さすがに周辺の大概の店を経めぐったからにはそろそろ何とかしたいと思っていたのです。入るとすぐに卓席があり女性一人が餃子などで晩酌しておられました。カウンター席があって、奧にも2卓あったから思ったよりも客席はあります。奥でならこぢんまりした宴席を催してみても楽しそうです。ラーメンとかの王道の品を頂くつもりでしたが、町中華にネギチャーシューや水餃子などの品は当たり前のようでありますが、案外、手頃にこれらの品が頂けることは少ない気がします。つい、軽い食事を兼ねての呑みという想定はこれら酒の肴向けの品ぞろえを前にしてもろくも崩れ去るのでした。この冬には珍しい冷え込んだ夜だったので、水餃子の上げる湯気がからからに乾ききった冬の空気を湿らすようで眺めていてぬくもりを感じられます。味わいも優しいけれどネギチャーシューに添えられた豆板醤がしっかりと辛くて食べ進むうちに自身も温まり、額に汗して蒸気するのを感じたのでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2020/04/03 08:30:05 AM
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