日露戦争 世界史の窓 山下輝男先生
1904年、
満州と朝鮮への侵出をはかる
ロシアと日本が衝突した
帝国主義戦争。
日本が実質的に勝利し、
大陸進出を果たした。
ロシア帝国のツァーリズム政治体制は、
ニコライ2世のもとで
国内の矛盾を深刻化させていたが、
シベリア鉄道の敷設などのアジア方面への勢力拡大で
それを解消しようというねらいがあった。
ロシアの満州・朝鮮への進出に対して、
日本は日英同盟の締結によって
イギリスの支援を得、
1904年2月、
ロシアとの全面対決に踏み切った。
このように日露戦争は、
帝国主義的な膨張政策を採る
両国の衝突として起こった
帝国主義戦争であった。
日本は日露戦争において、
その軍事費として
17億円を必要としたが、
そのうち8億円は
ロンドンとニューヨークで
外債を募集してまかなった。
イギリスとアメリカは外交的な面だけではなく、
経済的にも日本を支えていたと言える。
その意図は
ロシアのアジア進出を抑えるために
日本を支援すると言うことであった。
ロシアは、
フランス資本とドイツ資本の支援を受けた。
この両国は、
ロシアがアジア進出に専念することで
ヨーロッパでの野心を弱めるであろうことを期待していた。
日本にとって
日露戦争は、
ヨーロッパ諸国と戦った
最初の戦争であったが、
世論の分裂の無かった日清戦争に対し、
国内にはかなり根強い戦争反対の声が起こっていた。
キリスト教の立場からの内村鑑三や、
社会主義の立場からの幸徳秋水ら、
歌人の与謝野晶子等の
戦争反対の声は非戦論として知られている。
戦争の経過
1904年(明治37年)
2月に開戦、
ほぼ1年かかってロシア軍の旅順要塞を占領し、
05年3月の奉天会戦で大勝し、
5月の日本海海戦ではロシアのバルチック艦隊を破った。
すでに1905年1月に血の日曜日事件を機に
第1次ロシア革命が起こっていたロシアは
戦争継続が困難となり、
日本もこれ以上の戦線の拡大と
戦争の長期化は
国力の限界を超えるおそれがあったため、
同年9月、
アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で、
ポーツマス条約を締結し講和した。
(抜粋)