台湾国民党と国民党
台湾国民党なんて知らない人が殆どでしょう。
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台湾国民党(たいわんこくみんとう)は、台湾の政党。略称は台国党(たいこくとう)。政治的立場は台湾民族主義に属する。
概要
2005年7月30日に台湾南投県埔里鎮で、
結党を宣言して党主席に廖国安を選出したが、
党組織に関する規定が不備で内政部に認可されなかった。
2007年5月27日に台湾で126番目の政党[1]として認可され、
桃園で結党大会を開催した。
大会で、
台湾の埔里から
台湾の観点で世界を俯瞰する方針を定め、
台湾本土意識と台湾正名運動の支持を表明した。
党が精神的指導者と仰ぐ
李登輝を唯一の貴賓として招待するも
健康上の理由で欠席となるが、
台湾団結連盟南投県支部の陳啓吉、
民主進歩党の蔡煌瑯などが出席した。
中国国民党と
無関係だが
類似する党名に、
馬英九は台湾の政局に混乱を招くと
批判して
無視している。
国民党の馬英九から「
無視」されているそうです。
それでは、みなさんがご存じの、国民党。
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中国国民党(ちゅうごくこくみんとう、繁体字: 中國國民黨、拼音: Zhōngguó Guómíndǎng[1]、英語: Chinese Nationalist Party、Kuomintang[11]、略称: KMT[11])は、中華民国(台湾)の政党。
略称は国民党[18](こくみんとう)。
イメージカラーは藍色で、
ニュース報道等では、民主進歩党(以下、民進党)の「緑」に対して「藍」と呼ばれることがある。
民進党と共に二大政党制を形成している。
2021年現在は野党である。
2022.07.25現在も野党です。
概要
1919年10月10日、
孫文が中華革命党を改組して結党した。
ポツダム宣言(第二次世界大戦終結)に基づいて
1945年10月25日に 中華民国が台湾を編入し、
中国共産党との内戦を開いた中台両地域統治時代を経て、
1949年10月1日に内戦で敗れた
中華民国政府が、台北に事実上遷都した
1949年12月7日以後は、
台湾省を地盤とした政党として存続し、
台湾への土着化(台湾本土化)を経て、今日に至っている。
2000年に民進党の陳水扁総統が就任し、
史上初めて野党となった。
2001年には立法院(国会)第1党の座も奪われた。
しかし、
2008年に
国民党の馬英九総統が就任し、
立法院第1党も奪回、政権与党に復帰した。
台湾及び、福建省のごく一部(金門島、馬祖島)を基盤とした政党となって久しいが、
党の精神的支柱として
今なお孫文を党総理とし[19]、
また蔣介石をも2014年から「永久総裁」としており、
いまだ党名に「中国」を掲げて「中国の政党」としての建前は捨てていない。
「大陸反攻」のスローガンを撤回した
李登輝時代には党の台湾化、
いわゆる「本土化」が一定程度進んだが、
李登輝が総統を退任して国民党を離党した
2000年頃からは党内「本土派」が退潮し、
副総統だった連戦が党主席に就任してからは
「中華民族アイデンティティ」から、
中国大陸との繋がりを強調する傾向に回帰している。
孫文と蔣介石が、
日中戦争の前から
大日本帝国(日本)と関わりが深かったこと(敵としても友人としても)や、
冷戦時代は
一党独裁を敷いて世界反共連盟(1990年に世界自由民主連盟と改称)を主導して
反共主義による外交を展開し、
日本の自由民主党(とりわけ清和会)と太い繋がりを持ったため、
知日派を多数擁しており、
中国国民党の公式ウェブサイトには、
開設初期から中国語版、英語版と並んで日本語版がある[注 1]。
冷戦終結後は、
敵対関係にあった中国共産党との党間交流を再び図るも、
かつて孫文と蔣介石によって
二度行われた国共合作の失敗から、
拙速な中台統一には慎重な声も根強く、
統一派である「統派(中国語版)」と距離を置き、
現状維持を志向する「本土派」も存在する[21]。