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カテゴリ:戦国武将
1522年、尾張国で柴田勝義の子として生まれたと伝わる、柴田勝家
織田信長の弟である信勝付きの家老となり、信勝の補佐をしていました 信長の父・信秀没後、勝家は、信長を跡継ぎと認めず、信秀の葬式で抹香を祭壇に投げつけた信長を破り、信勝を擁立することを企てます 1556年、信長に反乱し、稲生で対戦しましたが、敗戦。 惨敗した勝家は 、信勝と共に降伏し、信長の忠実な臣となりました 出陣にあたっては常に先陣を命じられ、殿軍を任される回数は一番多く、信長に一番の信頼を置かれていたと言われ、まさに信長の重臣中の重臣としての地位を不動のものにしていきました 1570年、近江の光寺城に籠城中、六角勢に包囲され、城の水源を絶たれた際、水瓶を割って決死の覚悟で抗戦に挑んだことから”瓶割り柴田”の異名を得たと言われています 本能寺の変で信長が没した後、織田氏の継嗣問題ならびに領地再分配会議でが開かれ、 勝家は、信長の後継者に三男の信孝を擁立しようとしましたが、一方で羽柴秀吉は信長の嫡孫・三法師(織田秀信)を擁立し、この会議においては、秀吉に主導権を握られることとなりました その後、秀吉との対立を深めた勝家は、1583に賤ヶ岳で秀吉と戦い、敗戦。 越前北ノ庄へ敗走し、秀吉軍に取り囲まれた北ノ庄城で、夫人お市の方と共に自害しました 武将としての活躍が目立つ彼ですが、政治家としても優秀な人物であったと言われています。 □辞世の句□ 「夏の夜の 夢路儚き 後の名を 雲井にあげよ 山不如帰(ほととぎす)」 (短く儚い夏の夜の夢。同じように儚い人生を終えた私の名を、どうか山不如帰、遥か彼方の誰かに伝えておくれ)。 とても儚く、しかしながら武将として勇士を振るった彼の強さが表現された辞世だと感じます。 彼が不如帰に託した想い、伝えたかった一番の人とは誰だったのでしょう。 主君である信長の最期に上洛できなかった勝家。 一度反抗した人物にも関わらず、一番の信頼を置かれた彼。 彼の信長に対する忠誠心は測り知れない程深いものであったのでしょう。 その誠実さと潔さが、彼を語る上で、今も人々の心に最も響くのではないでしょうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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