日米戦争の日本側の持久戦(2)
ペリリュー島の戦い 1944年9月15日~1944年11月25日, 日本軍 戦死者 10,695名、捕虜 202名 残存者 34名 米軍 戦死者 1,794名、戦傷者 8,010名
硫黄島の戦い 1945年2月19日~1945年3月26日 日本軍 戦死者 20,129名(軍属82名を含む)、捕虜 200名(3月末)、終戦まで合計 1,023名。 米軍 戦死者 6,821名、戦傷者 21,865名 硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、米軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘。 米軍が第二次大戦で最大の人的損害を被った戦闘。
沖縄の戦い 1945年3月26日~1945年6月20日 持久戦方針による早期の飛行場の喪失は、大本営・第10方面軍司令部・航空関係者などから消極的かつ航空作戦軽視と批判の的にされた。 米軍の沖縄本島上陸前からの不信が戦いの最中に露見する結果となった。 度重なる大本営や連合艦隊の飛行場再確保の要請は第32軍司令部を混乱させ、第32軍内部でも積極反撃すべきか激論が交わされた。, 沖縄戦での住民の犠牲者数は国の調査が行われておらず正確な数は不明。 以下は1950年の沖縄県援護課の発表数値 日本軍 戦死者 65,908人 沖縄県の軍人・軍属(現地召集正規兵、防衛隊・鉄血勤皇隊など) 戦死者 28,228人 戦闘参加者(戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)で日本軍に協力して死亡した準軍属と認定された人数) 戦死者 55,,246人 一般住民(推定) 死者 38,754人、県内疎開15万人(犠牲者数不明) 県外疎開 8万人 米軍 死者 12,500人 負傷者 70,000人以上
軍人の死傷者数の比較をもって米軍「敗北」とする見解もあるが、住民抜きの比較は誤り。 沖縄は住民総出で戦うことを強いられた。 米軍と日本軍の死傷者比率 ガダルカナル 23対1 レイテ島 5対1 硫黄島攻略線 1対1 米軍死者数 日米戦争 100,000人 (うち沖縄戦 12,500人) 朝鮮戦争 36,000人 ベトナム戦争 58,000人 日米戦争の死者数 米国 10万人 日本 300万人 【中古】 ひめゆりの沖縄戦 少女は嵐のなかを生きた 岩波新書/伊波園子(著者) 【中古】afb
インパール作戦 陸軍の牟田口第15軍司令官補が推進したインパール作戦は、補給線を軽視した杜撰な作戦計画で多数の死傷者を出した、無謀な作戦の代名詞とされる。 「食うに糧なく、撃つに弾なし」。 戦病死した山内正文師団長は、死の床で「撃つに弾なく今や豪雨と泥濘の中に傷病と飢餓の為に戦闘力を失うに至れり。第一線部隊をして、此れに立ち至らしめたるものは実に軍と牟田口の無能の為なり」と語っていた.
日本陸軍(第15軍の主力3個師団) 戦死者 11,400人 戦病死者 7,800人 行方不明者 1,100人 戦病者 3,700人 インド国民軍 戦死者 400人 戦病死者 1,500人 英印軍 戦死者 15,000人 戦傷者 25,000人 悲惨なインパール作戦と比較しても、沖縄戦の死者数の凄まじさが分かる。