カテゴリ:訃報、消息
中曽根 康弘氏は、1918年(大正7年)5月27日、群馬県高崎市生まれ。 2019年〈令和元年〉11月29日101歳で死去。 位階は従六位。 勲等は大勲位。 大勲位菊花大綬章受章者一覧(戦後) (PDF形式:71KB) 公益財団法人「世界平和研究所」会長、拓殖大学第12代総長・理事長、名誉総長、東アジア共同体評議会会長。新憲法制定議員同盟会長。 若い頃から総理大臣を目指すことを公言。 憲法改正や首相公選論を主張するなど大胆な発言やパフォーマンスを好んだ。 衆議院議員連続20回当選(1947年 - 2003年) 科学技術庁長官(第7・25代) 運輸大臣(第38代) 防衛庁長官(第25代) 通商産業大臣(第34・35代) 行政管理庁長官(第45代) 内閣総理大臣(第71・72・73代) 大勲位 日本の明治時代以降の栄典制度における最高位の勲章である、「大勲位菊花章頸飾」及び「大勲位菊花大綬章」の通称。 2018年現在、皇族の他に存命で大勲位菊花大綬章に叙されている日本人は中曽根康弘のみ。 「大勲位」「中曽根大勲位」は中曽根康弘氏の俗称としての一つ。 世論は無視できても …中曽根大勲位と米国を敵に回した 安倍官邸の誤算 =斎藤満 2017年6月20日 MONEY VOICE 主な経歴 1941年、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省に入省。 海軍短期現役制度で戦時中に海軍主計中尉に任官。 敗戦後、内務省に再勤する。 1946年、内務省を依願退職。 1947年、第23回総選挙で当選。 1954年、日本学術会議を飛び越し、日本で初めて超党派の政治家らと「原子力予算」を国会に提出し成立させる。 正力松太郎に近づき、正力派結成し、2人で政界における日本の原子力政策推進の両軸となる。 1982年、第71代内閣総理大臣に就任。 1983年、日韓関係の修復、防衛費の増加と対米武器技術供与の問題の決着をはかったのち訪米。 「日米は運命共同体」、「日本列島不沈空母化」、「三海峡(千島・津軽・対馬)封鎖発言」により、米国との信頼関係を取り戻す。 ロナルド・レーガン大統領と“個人的に親密な”関係(「ロン・ヤス」関係)を築くことにも成功し、日米安全保障体制を強化した。 1987年、売上税の導入失敗が原因で支持率が急降下。 竹下登を後継総裁に指名して退陣。 1989年、リクルート事件に関与して自民党から離党。 1991年、自民党に復党。 1996年、自民党の比例北関東ブロックにおける終身一位を保証される。 1997年、大勲位菊花大綬章を受章。 2003年、小泉純一郎首相から定年制導入のために引退を要請され、政界を引退。 2018年、100歳、百寿。 「安倍政権は最悪の権力依存主義だ」と語った。
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若いうちは首相公選制を唱え、長じては密室で首相を選ぶ、素晴らしい変節漢です。
日本の国民感情に最も合っているのでしょう。 同じように安倍首相も、支持率、議員の支持も多い、風見鶏です。 (2019年12月11日 21時42分05秒) |
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