カテゴリ:寺社、パワースポット、予言
日本三大怨霊は菅原道真・平将門・崇徳院とされる。 いずれも死後、多くの曲津ことが起こり、その怨念の深さが畏れられ、怒りを鎮めるため神として祀られた。 市井で無念の情の強さが語り継がれると同時に、神力の強さが高く評価され、多くの参拝者を集めている。 菅原道真は、幼いころから勉学で才を発揮。 任官後も評価が高く、宇多天皇・法王に重用された。 醍醐朝では学者の身分で右大臣にまで昇りつめたことなどから、藤原時平など家柄が高いとされる公家の恨みをかった。 謀反を計画したとして(昌泰の変)讒言され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。 大鏡や拾遺和歌集などに収録されている「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」(大鏡)の歌は、道真が都を懐かしんだ歌とされる。 学問・至誠・厄除けの神様 太宰府天満宮 その後、自ら“新皇”と称して朝廷と対立。朝廷の逆賊となった将門は、東国の武士である藤原秀郷等に討たれた。 将門の身体は、茨城県坂東市の延命院に埋葬された。 首だけが平安京に運ばれ都大路の河原にさらされた。 3日目、首は切断された胴体を求めて、東国に向かって飛んでいった。 その首の落ちた伝承地が、東京都千代田区大手町にある「将門の首塚」。 除災厄除けの神 神田明神 崇徳天皇は、曽祖父・白河法皇と母・璋子の密通の結果生まれた子として、父・鳥羽天皇から「叔父子」と呼ばれ避けられる子として育った。 白河法皇が鳥羽帝に譲位を迫り、幼い崇徳帝を天皇にしたことで、鳥羽帝は一層の憎しみを覚えた。 白河法皇没後、鳥羽帝は、崇徳帝の弟・近衛天皇へ譲位させられた。 近衛帝は2歳で即位し、16歳で崩御した。 鳥羽帝は、崇徳帝の弟・後白河天皇を指名し、崇徳帝と後白河帝の確執と戦いが始まった。 この確執が藤原、源氏、平氏の勢力争いと相まって「保元の乱」へと導いた。 崇徳上皇側は敗北し、讃岐(香川県)へと配流された。 崇徳院は五部大乗経をしたため、京の寺へ納経を願い朝廷に送ったが、後白河帝は「呪詛が込められている」として受取りを拒否した。 この写本を戻されたときから、崇徳帝は自らを「大天狗」と称し怨霊への道を歩み始めた。 スポーツの守護神 白峯神宮 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020年05月30日 20時00分08秒
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