テーマ:太平洋戦争(11)
カテゴリ:航空&ミリタリー
太平洋戦争末期、日本軍が劣勢となり米軍による本土空襲が始まった。 首都東京は、1944年11月24日以降[3]、106回の空襲を受けた。 1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日-26日の5回は大規模だった。 「東京大空襲」は最大規模の空爆、約10万人の死者と約100万人の罹災者となった1945年3月10日夜間の空襲を指す。 東京大空襲から75年 生存者が語る 2020.03.09 CNN.co.jp …(略)… この東京大空襲では一晩で10万人が犠牲となり、100万人が負傷したとされる。 その大半は民間人だ。米軍の爆撃機B29が300機以上飛来し、1500トン分の焼夷(しょうい)弾を投下した結果だった。 焼夷弾で発生した火炎は、約41平方キロを焼き尽くした。 これにより100万人が住居を失ったとする推計もある。 死者の数は同年広島と長崎に投下された原子爆弾を上回る。 米エネルギー省によれば広島ではおよそ7万人、長崎では4万6000人が原爆投下の犠牲となった。 だがこれほどの被害をもたらしたにもかかわらず、広島や長崎とは異なり、東京には公的資金を投じた大空襲の犠牲者の追悼施設というものが存在しない。 また連合軍による独ドレスデンへの45年2月の空爆が民間人を標的にした作戦だったとして広く議論される一方、同じく75年目を迎える日本に対する空襲の影響については、依然としてほとんど知られていないのが実情だ。 B29の投入 二瓶さんがあの晩に味わった恐怖は、「ミーティングハウス作戦」と呼ばれる軍事作戦に起因する。 米空軍による東京への一連の空爆の中でも最大の犠牲者を出したこの作戦は、45年2月から5月にかけて実施された。 作戦の大半は、太平洋地域の爆撃部隊の司令官を務めていたカーチス・ルメイが立案した。 ルメイは後年、北朝鮮とベトナムへの空爆を行い、62年10月のキューバ危機ではソ連への核による先制攻撃を支持した人物だ。 第2次世界大戦が欧州で勃発した39年、当時のルーズベルト米大統領は参戦した各国政府に対し、民間人への爆撃は非人道的かつ野蛮であるとしてこれを行わないよう呼び掛けた。 しかし45年までに、こうした方針は変化していた。 41年12月7日の日本軍による真珠湾攻撃を受け、米国は報復を決断。 42年8月の南太平洋ガダルカナル島への侵攻に続き、44年には日本軍占領地だったサイパン島、テニアン島、グアム島を立て続けに奪取した。 これらの島々を拠点に日本本土を攻撃する役割を担ったのが、最新鋭の重爆撃機B29だ。 ― 引用終り ― 史上最悪の空爆を招いた原因は、外交的「罠」にせよ戦争を仕掛けた日本側にある。 ドレスデンの空爆を招いた原因はドイツ側にある。 無差別爆撃の責任の所在とは別に、先に戦争を始めた側に原因がある。 ドイツも日本も民族の優秀さと技術の高さを誇ったが、戦略爆撃は実現できなかった。 民族の優秀性の幻想が、悲惨な結果を招いた。 第二次世界大戦中に戦略爆撃機を実用化し、戦略爆撃を実行できたのは米国と英国だけ。 壊滅的な打撃を受け続けても戦う意思を失わない幻想は、軍部により意図して生み出された。 危機時に全体主義がはやりやすいようだが、多数決に隠される全体主義思想、志向にはよほど気を付けなければならない。
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最終更新日
2020年08月26日 06時00分09秒
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