2009/08/07(金)22:58
人はパンのみにて生きるにあらず。影もまた然り。
台風のおかげで久方ぶりの無為な時間を持つに至る。
北海道より石垣島へと住みつき十余年の月日を経るも我が心のうちに一向に郷里に向かう気配なく、何故にこれほどに彼の地にこだわるのか思惟を巡らせたのである。ブルーセイジの香など焚きながら。
で、わかった。
彼の地 沖縄県八重山には影が、大小無数の影が、もうそれこそそこら中が影だらけであり、若年の時分より世間の隅々まで広く蔓延るキレイごとやら偽善的言動やらポジティビティの賛美一辺倒が気に入らなくてしょうがなかった私にとって彼の地に差す影こそはまさしく捜し求めていたものであるのだ。
何故に捜し求めていたかと言えば我が郷里に住む人々や都会に生く者の大半は影を否定し、否定まで出来ぬものは隠蔽し、否定と隠蔽のあとにくるのは忘却であれば、影の存在をまったく真っ当なものとして取り扱う若年の私はあらぬ批判に晒され、危うくそれら批判を甘んじて受け入れようとさえした事もあったが、やはり理を求めれば分があるのは当然こちらであれば本土都心部にて虚しき我が闘争を繰り広げる代わりに私は私の理を信じて疑わず、我が主張の正当性を立証したかったのである。
とは言っても誰に対して立証したいわけではなく自分自身に対して裏づけを与えたかっただけであり、昨今わけのわからん凶暴な殺傷事件を起して嬉々としているどこぞの偽悪少年らと一緒にしてもらっては心外だ。私はただ「美味しいものを食えば臭いウンチが出るよ」と言ってるに過ぎないのだから。
美味しい食事ばかりをファイルして喜ぶ趣味は持ち合わせていないし、ウンチを誰彼構わずに投げつけて喜ぶ性癖もない。あくまでそれら両方の意味と意義と存在を真っ当に取り扱おうではないかと言ってるに過ぎない。
で、昨今の世の中はどちらかに偏った人ばかりがものを言うが、皆さん御自身の危うさに気づいてないのが私は怖かったりする。人を殺した奴は悪い奴だ。殺せ。死刑にしろと大合唱したり、覚醒剤をやった芸能人はその芸歴や人格まで否定し非難し尽くし、その一方で人を殺して何が悪いと概念ばかりをいじくり回して得意げになってるような阿呆ばかりが目に付きはしまいか。
影を否定して影なきものの正しさを妄信するから一方で影ばかりを見せ付けて喜ぶ軽薄漢が現れるのであり、それこそが現代ニッポンの危うさの基幹部分だろう。
私はそうじゃないと思っている。どちらも在るのだ。どちらもOKだ。どちらもあるから私たちは精神のバランスを整えられるのであり、どちらしか在ってはいけないとなるから精神のバランスも肉体のバランスも崩すのだろう。私はそう思っている。
そして彼の地 八重山はどうだ。影だらけだ。ぶっきらぼうな顔で乱暴狼藉をはたらき、優しい言葉をささやきながら平然とひどいことをやり、それを責めると本人は全然悪びれていないし、本当に悪いとも思っていないようなのである。悪いってことばかりではなく、だらしないのも、いい加減なのも、約束を守らないのも、言葉に責任を持たないのも、変な言い逃ればかりするのもまた然りだろう。
で、そういう連中ほど善き行いや楽しき語らいに腐心する感性をちゃんと持ち合わせていたりするし、それはまた同時にたいへん魅力的な人物であるよう私には感じられるし、そんな連中に囲まれて右往左往したり泣き笑いしている今の暮らし方が私はわりと気に入ってるようだ。
ブルーセイジの薄い煙を吸いながら斯くのごとき自己分析をした次第。