TOO HOT ~無謀で軽率で自由なる旅の記録~ 003
『黒尽くめちゃん。からんだりしてゴメンね。もうからんだりしないから安心して。ホント。ゴメン。悪かった。俺が、わるかった。メンゴメンゴ。あ。メンゴメンゴなんて古いかな、ちょっと。え、何?古いか新しいかわからないって。あ、そうなんだ。メンゴメンゴって知らないんだ。へー、知らないんだ。ま、それはさておき、本のタイトルひとつであんな悪態つくなんて、俺さ、ちょっと、どうかしてるよね。反省してます。すいません。もう二度とあんなことはしないからね。本当だからね。信じてよ。頼むよ。ね』と、ややあって気滅入りのピークも過ぎ、回復基調を取り戻した俺は心の中で隣席の彼女に深い謝罪をしたのである。無論、心の中だけでなく実際に音声言語としての謝罪をするべきであるのはわかっている。わかってはいるが、悪態をついたのも心の中だけでなので、謝罪も心の中だけにしておかないと、もしこれを実際に音声言語にして隣席の彼女に「がばっ」と向き直り、悪態なんかついちゃって本当にスイマセン。申し訳ありません。いや、悪態をついたと言ってもさっき心の中でついたわけなんですが、心の中だけだから聞こえなかったと思うのでこんなふうに急に謝られても困惑するというか、あの、やっぱりちょっと頭のおかしい奴だと思われるかなぁとも思ったのですが、やっぱりどうしてもちゃんと謝らないといけないと思って、あのあの、やっぱり変な奴だと思ってますね。思ってるでしょ。わかります。その目をみればわかります。今あなたは社会の異物を見るような目で俺を見てるもの。はい。でも、あのあのあの、俺はそういうものも正面からちゃんと受け止めなければならない立場だと思いますし、はい。あの、ホント、スイマセンでした。なんてやってしまうと隣席の女はきっと客室乗務員を呼び、そんな隣席の女と客室乗務員の動きに呼応したお節介な周囲の男性乗客数名によって俺は身体の自由を奪われ、つまり拘束され、そうなってしまうと飛行機は急遽予定を変更して最寄の台北国際空港へと降りることとなって俺の身柄は台湾の空港警察へと引き渡され、領事館を通じて外務省や警察庁など関係官庁に「犯人の身柄を拘束」などと連絡された挙句にその情報をつかんだテレビ局に、例えば功をせいたテレビ朝日あたりに「ハイジャック犯を逮捕。犯人はニシナタカシと名乗っている模様」みたいな速報テロップを打たれてしまい、それを見た俺の両親は泣き崩れ、高校時代の同級生たちなどは「へー、あいつがね。やっぱりね。そういうことやるんじゃないかと思ってたよ。学生時代からちょっとおかしいところあったよね、あいつ」みたいなコメントを取材カメラの前で得意げに語られ、もはや俺に帰る場所なし。みたいなことにもなりかねないので、やはり俺は心の中だけで黒尽くめの女に謝ったのである。謝ったのであるが、黒尽くめの女はそんな俺を挑発するかのごとく又も大きなバッグをまさぐり、次の本を取り出したのだ。本のタイトルは『すぐ話せる六ヶ国語入門』そんなタイトルを横目で追いながら俺は抑えがたい情動に既に駆られていた。すぐ話せる六ヶ国語だと。なんだと。そんなもんがあればな、誰も、苦労しないんじゃ、ど阿呆が。さては、ハローとサンキューしか知らない俺に対する当て付けか。当て付けなんだな。よしわかった。アンタがその気なら俺にも考えがある。もう我慢ならない。見てろよ、この野郎。と、俺も足元に置いた自分のバッグから本を急ぎ取り出した。無論、本のタイトルは黒尽くめの彼女に負けていない。『かんたん!誰でも話せるタイ語入門』である。どうだ。俺だってこれくらいは用意してきたのさ。ハローとサンキューだけだと思ったら大間違いだからな。見てろよ。タイに着くまでにはタイ語のハローとサンキューぐらいは覚えちゃうんだからな。バカにすんなよ。どうだ。まいったか。まいっただろ。参りましたと言え。あ。アンタになんか、かまってる暇ないんだった。かかるに俺はそのように激しく揺れ動く自分の気持ちをもてあましていた。制御できないでいた。だからタイ語のハローとサンキューも覚えられないまま俺はタイのドンムアン国際空港に着いてしまったのだ。時に1994年3月29日 深夜12時のことである。【つづく】