「?」「!」
托鉢に出かける日のことだった。「僕、今日お酒飲んでいいですか。」と、彼が言った。19歳。すでに里の中で、タバコは公認になっている。 いいとも悪いとも言わないうちに、彼の中での理屈が変化していた。「お店の人が売ってくれたら、いいということ。」と。 判断の依頼はいつのまにかお店の人に向けられていた。 和尚様がいたら、すべてはお任せしているので、里の中の出来事は和尚様が法律になる。けれどもご不在のときは、残りの大人たちで必死にカバーする。 大きな存在がいつも見ていてくれるというのはどんな人にとっても安心の材料だろう。しかし、いつもそうであるとは限らない。 初めは親という存在があり、やがて成長するにつれて、先生になったり恋人になったりして、そんな存在が変化する。けれども、いづれ自分で判断しなければならない日がやってくる。そんなとき、何を中心として考えるだろうか。自分の都合が中心にならないだろうか。 彼は言った。「僕はお酒が買えた。それは、このジャケットを着ていったから大人に見えたんだよ。」と。どこか客観性に欠けているような気がするのだが。 願わくば、「駄目」と上から決めるよりも、本人が考えてほしい。もうそんな年であると思う。 いいとか悪いというよりも、何故そんな質問が出てくるのか、その質問以前に帰そうというのが和尚様のやり方である。 しかし、本人がわかるように説明できただろうか。 今の彼は、目の前のことをがんばってやっていたら、強くなる一心で過ごしていたら、「お酒を飲んでいいですか?」という質問は出てこないように思われる。おそらく隙があったのだろう。 禅の問答は、すでに問いから始まっているという。 どんな問いかによって、すでにその人の底が見えてしまうというものだ。 里でも、本当に行き詰ってきた人は、絞られた質問をどんと中心にもってくる。そして和尚様の、一言一句無駄のない答えが引き出される。 質問。すでに自分の知らない自分を教えられるかのようだと思う。