東京外国語大学 日新学寮――語り継ぐ青春の譜
日新寮アーカイブズの活動を2016年に休止して以来、7年の時間が経過して、活動に従事したメンバーも老境の域に達しているが、このほど活動の最後を飾った、母校のホームカミングデイにおける高橋潔さん(元日新学寮々務委員長)による日新寮の紹介講演の原稿を氏の了解のもと、下記に掲載しておきたい。東京外国語大学日新学寮――語り継ぐ青春の譜★本稿は、平成28年(2016)10月26日、アゴラ・グローバルで行なった講演を再構成したものです。 髙橋潔(1969卒) 昭和37年ドイツ科入学・入寮 元日新学寮々務委員長 今や知る人も少なくなりましたが、本学にはかつて大学直属の男子学生寮が東京都中野区にありました。正式名称を「東京外国語大学日新学寮」といい、大正13年(1924年・関東大震災の翌年)に開寮し、昭和54年(1979年)に閉寮するまで56年間に亘り存続していたのです。寮は木造平屋建で、開寮から閉寮までほぼ変わらず、移転も大きな改築もありませんでした。定員は、当初70名ほど、のち120名でした。正面玄関を入ると、ウナギの寝床のような長い廊下があり、廊下の両側が居室になっていました。ここで、全国各地から集った外語生が起居を共にしていたのです。戦前戦中は樺太、満州、台湾などの出身者もいたといいます。日新学寮の命名の由来は、中国の古典「大学」の中から、本学の漢学の教授が選んで名づけられたということです。原典には、「湯の盤の銘に曰く『まことに日に新たに、日々に新たに、また日に新た也』」とあります。この言葉には、関東大震災の痛手から早く立ち直って、寮生は日々前進して欲しいという想いが込められています。現在、日新寮の跡地は中野区の公園になっていますが、その一角には寮の記念碑が建っています。我々日新寮のOB有志が中野区の諒承を得て、平成28年(2016年)に建てたもので、赤御影石の記念碑の側面には次の銘が刻まれています。「此地に於て全国から集った若者達が、寝食を共にし、切磋琢磨して青春を謳歌し、豊かな国際性を身につけた有為の人材たるべく巣立って行った。日新学寮は寮生自らが管理運営する自治寮で、地域社会とも友好関係を保ち、全寮連の事務局を引受けた時期もあった。これらの事を記念し、母校と卒寮生並びに地域との絆を末永く伝えるため、此処に碑を建てる。」<日新寮の歴史概観>日新寮の歴史は、大正末から昭和の終期までの半世紀余、それぞれの時代のうねりを強く反映した歴史でもありました。戦前の寮は未だ比較的おだやかで、自由にものを言うことが出来、反戦的・反体制的風潮が支配的だったということです。また、戦前の一時期、外語の校舎は東京の竹橋、今の毎日新聞本社のあたりにありましたが、寮生はそこから中央線で中野の寮に帰る途中、新宿で途中下車をして、よく映画を観たそうです。戦前は未だ学生生活をエンジョイしていて、鎌倉に小旅行をするなど余暇を楽しむ余裕もあったと聞いています。ところが、昭和16年、 日本が太平洋戦争に突入すると状況は激変しました。寮生は朝夕廊下に整列・点呼が行われ、学校では軍事教練が強化されるようになりました。そして、昭和18年、遂に学徒出陣ということになったのです。寮生にも徴兵令がきました。昭和15年にスペイン科に入学と同時に日新寮に入った大先輩の話によると、この方は学徒出陣で半年繰上げ卒業となり、軍隊に入って満州でソ連軍と戦い、戦後はシベリヤに抑留されて大変な苦労をされたということです。スペイン科のクラスメート30名中6名が戦死。この方もいつ死んでもおかしくない極限状況の中で、生還できたのが不思議だと語って居られました。昭和20年敗戦戦地から生還した者たちが寮に帰って来、戦後間もない頃は寮生の4分の1が帰還兵で、中には当時のエリート校・陸士(陸軍士官学校)・海兵(海軍兵学校)の出身者もいたそうです。陸士・海兵出身の寮生は、さすが軍人の卵で、みな規律正しい、きちんとした生活態度だったと伝えられています。戦後はとにかく食糧難で、皆ひもじかったそうです。当時は、反戦の潮流が強く、「青年よ銃をとるな。父よ再び戦場に行くな」という言葉が合言葉のように使われていました。戦後間もない昭和25年には 朝鮮戦争が勃発し、 昭和27年には 血のメーデー事件がありました。この事件には多くの寮生が参加し、血まみれになって寮に帰ってきたそうです。メーデー事件後、寮が機動隊に包囲され、捜索を受けるということもありました。★昭和20年代~30年代前半(1940年代後半~1950年代)は、戦争の記憶が生々しい時代でした。「理念」「思想」の時代でもあったと言えると思います。思想に悩み、自死した寮生もいたと先輩は語っていました。★昭和35年には 安保闘争がピークを迎えます。多くの寮生が参加しました。昭和30年代後半~40年代(1960年代)は、熱い「政治の季節」でした。昭和37年には、当時北区西ヶ原にあった大学に行くのに通った染井霊園の通学路の樹々に、外語生がつくった、「逃げるな苦しめ」と書かれた札が、随所に掛けられていました。「社会の矛盾を直視し、深く考えろ」という呼びかけでした。★昭和43~44年には 大学闘争が高揚しました。全国の大学で、学園の民主化、授業料値上げ反対、ベトナム反戦、第2次安保闘争などをめぐり、戦いが繰り広げられたのです。外語大の闘争は、寮問題を端緒に、主に寮の自治、大学の自治を巡る戦いでした。発端は、「○管規」――即ち「文部省通達○○大学学寮管理運営規則」との対決でした。この文部省通達は、寮の自治権はおろか、全てを国の管理下に置こうとするもので、我々にとって、断じて受け入れられないものでした。なにしろ、寮にポスターを1枚貼るにも大学の許可が必要だというのですから、その内容たるや推して知るべしです。本学も全学封鎖などで戦いましたが、昭和44年1月の安田講堂攻防戦の後、運動は全国的に力を失い、退潮を余儀なくされました。国の力に対し、我々の力が及ばず、亀山前学長の言葉を借りれば、「悲しい結末を迎えた」のです。そして、寮の末期に於いては、残念ながら、寮の自治能力が失われ、内部崩壊していったことも認めざるをえません。そして、遂に昭和54年(1979年)日新寮は閉寮となり、56年間に亘る歴史に幕を閉じたのでした。<日新寮とはどのようなところだったのか>日新寮は全国でも有数の完全自治寮でした。大学当局初め、外部から指図されることは一切なく、自らを律する規範の下に自らの手で運営していました。1、寮の理念寮生が制定した「日新学寮々則及び諸規定」の前文には次の通り書かれています。 「我々は、自らの幸福を、他人の不幸の上に築くことのない、民主的で文化的な社会の建設に於て、また、世界の平和と人類の福祉の貢献とに於て、教育の果たす役割は極めて大きいと考える」「教育は、人格の完成をめざし、真理と平和を愛し、社会の進歩と発展に寄与する人間の育成を目的としなければならない」「全て寮運営は寮生の総意によって決定され、寮生自身によって執行されるのであって、いかなる他の意志によっても影響されることは決してない」2、組織寮則の前文に謳われた理念の下に、寮生大会、代議員会、寮務委員会、特別委員会、監査委員会等が設置され、主に寮務委員会が中心となって諸活動を行ないました。3、入寮選考入寮者を決める入寮選考権は大学ではなく寮にあり、経済状況、論文審査(年度によっては英文問題)、面接等全て寮務委員会が執り行ないました。昭和30年代には5~6倍の倍率になった年もありました。4、懲罰規定について日新寮の寮則で一つ特徴的だったのは懲罰規定がなかったことです。他の大学の寮則で懲罰規定がないところは、私が調べた限りでは全くありません。何故なのか――先輩の語るところによると、そもそも日新寮には懲罰の対象となるような者はいない筈だから、規則も必要ないんだということでした。<寮生活について>私が在寮していた昭和30年代後半~40年代前半期について言えば、門限なし。消灯時間なし。鍵は一切なし。15畳と18畳の畳の部屋。一人あたり3畳。間仕切りなし。カーテンなし。布団は敷きっぱなし。春・秋に大掃除。風呂なし。自転車なし。いわんや自家用車なし。冷暖房なし。冬は1部屋に電気炬燵ひとつ。頻繁にヒューズがとぶ。洗濯機は全寮生(120人)に対し1台。電話1台03-386-3373(サンパウロのさざ波)。食堂・卓球室あり。白黒テレビ1台あり、という有様でした。当時は皆貧しく、家からの仕送りのない者が多かったです。中には、家に仕送りをしている者さえいました。寮にはまた、戦前から戦後に及ぶ落書きが多く残されていました。中には、「至誠ヲ旨トスベシ」「報国ノ精神ヲ失ウコトアルベカラズ」といった固い内容のものから、「くちなしや 鼻から下は すぐに顎」などというたわいのないものや、アポリネールの詩の一節を引用して、「ミラボー橋の下をセーヌ川が流れ/我等の恋が流れる/私は思い出す/悩みのあとには楽しみがくると/日も暮れよ鐘も鳴れ/月日は流れ/ 私は残る」と書かれたものもありました。日新寮は一言でいえば「混沌」でした。プライバシーのない共同生活でした。寮生はよくアルバイトをしました。家庭教師、翻訳、通訳が主でした。また、生活の一齣として、よくコンパをしました。日新寮のコンパは戦前からの伝統でした。こんなこともありました。昭和38年(1963年)の秋、ケネディ大統領が暗殺されたというニュースが飛び込んできたとき、寮内は騒然となりました。その前年にはキューバ危機があり、世界が核戦争の瀬戸際に立たされたばかりでしたから、私たちは、世界は、そして日本は、これからどうなるのかと、無関心ではおれなかったのです。しばらくの間寮内は落ち着きませんでした。<寮生気質・気風>日新寮は、上級生、下級生の区別がなく、極めて自由で 民主的でした。寮生は経済的には貧しくとも、精神的には豊かだったと思います。青春を謳歌しました。寮は、勉学だけの場ではなく切磋琢磨の場でもありました。鐘ヶ江先生(元学長・元寮監)は次のように仰っています。「日新寮生は、真面目なインテリということに尽きます。みんなものごとを、真剣に考えていました。他人の裏をかく、というようなことは、皆無でした。ある意味では、よくツブが揃っていたとも言えるでしょう。寮生は皆田舎から出てきた者たちで、性格的に純真でした。」・日新寮の光と影ここまで、私がきれいごとばかり言っているように思われるとしたら、それは私の本意ではありません。なんとか「影」の部分も述べたいと思うのですが、どうしても思い浮かばないのです。その意味では、鐘ヶ江先生がおっしゃった「人の裏をかくような寮生はいなかった」という言葉は、その通りだと思います。ただ、日新寮の影、といえるかどうかわかりませんが、留年が多く、また共同生活になじめず退寮した者がいたことも事実です。<寮の諸活動>日新寮はさまざまな活動も行ないました。1、寮誌「にっしん」の刊行昭和33年の創刊号から昭和41年の第6号まで刊行されました。内容は、寮監からの寄稿や文芸の他、「寮生活と現代社会」「シンポジウム―日新寮における歴史の再編成」など多彩でした。2、寮祭毎年秋には、大学の来賓、他大学生、地域の人々の参加も得て、2~3日に亘り盛大に催されました。寮祭では、大学教官の講演、模擬店、仮装行列、各部屋対抗演芸大会、近隣の子供たちの絵画・作文・書道・工作の展示、子供運動会、マラソン大会、映画上映、レコードコンサート、バンド演奏、囲碁・将棋大会、卓球大会、キャンプファイアーなど、実に盛沢山な催しがありました。3、他大学の女子寮との読書会、合唱会、合同ハイキング、ダンスパーティーなどもありました。4、地域社会との絆 寮祭での交流にも見られるように、日新寮は地域社会と友好的でした。寮祭のときにはいっぱいカンパをいただきましたし、なにかと寮生は大事にしていただき、家庭教師を依頼されることも多くありました<エピソード>1、寮には風呂がなかったので、入浴は寮の真向かいの銭湯(草津湯)でした。寮生には「入浴割引券」があり、安く入れたのです。ところが、この銭湯の娘に惚れて振られて、はらいせに、風呂の栓を抜いた寮生がいました。全寮生が「当分の間、入浴おことわり」となりました。 みんな風呂に入れず、困ったそうです。2、寮生はよく質屋通いをしましたが、ある寮生は、通いなれた質屋さんにみそめられて、その店のお嬢さんと結婚した実話もあります。3、寮祭後、深夜、女子美大の桃園寮に大挙してストームをかけたこともあります。「首謀者」は、寮の委員長をしていた私で、桃園寮の中庭に「侵入」し、ロシア民謡などを歌って気勢を上げました。桃園寮には消灯時間があるのか、既に真っ暗でしたが、そこは流石に粋な女子美大生。あちこちの窓から懐中電灯を点滅させてくれたのです。私たちは、「これは歓迎の合図に違いない」と勝手に解釈して、意気揚々と引き揚げました。 これには後日談があります。数日後、学生課から私に呼び出しがあり、何かと思って行ってみたら、「君たちは女子美の寮にストームをかけたそうだな。女子美大から話があったから一応伝えておく」という訳で、一切おとがめなし。良い時代でした。社会全体が学生に対して寛大であったと思います。 今だったらどうでしょう。今ならさしずめ、無届けデモ、道路交通法違反、住居不法侵入、騒音防止条例違反などで、ただでは済まないことでしょう。 <日新寮が輩出した著名人(故人)>日新寮は社会で活躍する多くの人材を輩出していますが、著名人の中には次のような人もいます。・赤尾好夫(I2 放送事業家、元テレビ朝日社長、旺文社創業社長)・小川芳男(E2入寮、英語学者、元本学学長)・五味川純平(E10年代前半 作家「人間の条件」「戦争と人間」「ノモンハン」他)・新美南吉(E7 童話作家「ごんぎつね」は国民的童話。他に「デンデンムシノカナシミ」「手袋を買いに」「にひきのかえる」「がちょうのたんじょうび」など多数)・秘田余四郎(F2「禁じられた遊び」他600本以上21ヵ国に及ぶ映画の字幕を手掛けた字幕の名工) 他<逸話>(同時期を寮で過ごした先輩の言葉)✦五味川純平「いつも両手を腹の前に、ベルトの上くらいに置いて、背筋をピンと伸ばして歩いていましたね。眼は遠くを見るというか、寮の入口にいて、一番奥まで見る、そんな風でした」✦新美南吉「新入寮生歓迎会での自己紹介で、ものまねをして皆を笑わせました」<「母と学生の会」について>「母と学生の会」とは、昭和17年に設立された学生支援の会(財団法人)のことです。寮には定期的に会のお母さんたちがおいでになって、寮生の衣服の繕いなどをして下さり、故郷の母代わりとなって私たちを見守って下さいました。よく言われたものです。――「せめて外出するときだけは、もう少しマシなものを着て行きなさい」と。継接ぎがあたった服を着て出掛けるようなことは、今では考えられないのではないでしょうか。「母と学生の会」は、東村山に本部を置いて、今は主に留学生の世話をしています。私たち日新寮OB有志は、貧乏学生時代にお世話になった「母と学生の会」のことが忘れがたく、平成26年(2014年)9月、本部に伺い、金一封を添えて感謝状を贈呈しました。「このようなものは初めてもらった」と大変喜ばれました。<日新寮での体験を通して私が伝えたいこと>青年期とは、友情を育む時代だと思います。私の人生の中で、寮で過ごした歳月の密度・比重は大きく、多くを学びました。価値の多様性、自分とは異なる他者がいるということ、そしてその存在を認めること、複眼的に物事を見ること、等々。人生に於いて、人との出会いが如何に大切かは、あとになって分かります。人間の絆とは何か、友情・連帯とは何か、人と人とが支え合うとはどういうことかなどについて、理屈としてではなく、生活を共にすることによって、学ぶことはたくさんあります。お互いに影響し合うことが大事であり、書物からだけでは学べない大切なことがいっぱいあると思うのです。社会に出ると、なかなか胸襟を開いてつきあえる友は出来ません。口角泡を飛ばして激論することも殆どありません。感受性が鋭く頭が柔軟で吸収力がある若い内に、「原体験・原風景」を共有することには大きな意味があると思います。時代に閉塞感があり、人間関係が希薄化している現代、たとえば寮のような共同体験が今の学生にも必要なのではないでしょうか。山崎豊子(作家「白い巨塔」「不毛地帯」他)は次の言葉を遺しています。――「最近の日本は、精神的に退化している。『精神的不毛地帯』である」「日本は、モノで栄えて、心で滅びる」――そうなってはなりません。この状況を打開するのは容易ではないと思いますが、原体験・原風景を共有し、お互いに切磋琢磨しあうことが、その一歩になり得るのではないでしょうか。以上 <補遺>◉日新寮の記念碑について記念碑は30センチ四方、高さ1.5メートルの赤御影石製。正面には校章と「東京外国語大学日新学寮の碑」の文字が彫られています。平成28年(2016年)10月29日に挙行された除幕式には、伊東光晴先生(経済学者・元本学教授・元寮監)、立石博高学長、長谷川康司東京外語会理事長初め大学関係者、地元の町内会長、元寮生など約80名がつどい、遠くアルゼンチンやアメリカ在住の元寮生からも祝電が届くなど盛大な式典が催されました。◉寮の立地について寮の所在地は東京都中野区上高田二丁目8番、敷地面積は3,400㎡(1,000坪強)、建屋面積は600㎡(200坪弱)、寮から中央線中野駅までは徒歩約15分、西武新宿線新井薬師前駅までは徒歩約10分でした。